第二話 食事にそんな大金は使えません
「いらっしゃいませ」
男性の渋い声が聞こえてきた。カウンターの奥にいる、老齢の男性の声だ。
店内には、焼きたてのパンと、ちょっぴりお酒が混じったような、美味しそうな匂いが漂っている。それが、空腹をさらに刺激する。
カウンターの奥には、様々な種類の酒が所狭しと並べられている。その様は、壮観の一言だ。
ここは居酒屋。酒だけでなく、様々な料理を出してくれるため、飯時に利用する客も多い。
アレクもその中の一人だ。ちょうど今、空腹を満たすために、朝食を食べに来ていた。
「マスター、いつもの頼む」
「アレク様、本日より少し値上げをしたのですが、よろしいでしょうか?」
「えっ? 値上げ? なんで?」
「材料費、特に野菜や穀物が高騰しておりまして、全体的に値上げせざるを得ない状況となっております」
アレクは、ちらりと壁に張り出されている値段表に目を向けた。
ずらりと並べられたメニューの数々。その種類の多さが、この店の人気の秘訣の一つだ。
そこに書かれている値段は、確かに昨日見た時とは違い、全体的に上げられている。
ただ、その額は少しなんてものじゃない。
昨日までここで食べていたものが、今日は倍近い値段に変わっていた。
「なぁ、マスター。値段が倍近くまで上がって……」
「少し値上げしました」
「いや、これは少しなんてもんじゃ……」
「少し値上げしました」
「あ、はい」
何を聞いても、少し値上げしたと一点張りのマスター。
あまりに強情な物言いに、アレクが知る『少し』の意味が間違っているのかとさえ思えてくる。
なんでこんなに値上がりしたのか? この値段がいつまで続くのか? 他の店でもそうなのか?
とてもじゃないが、倍の値段ともなると、それを容易に買うことなどできない。
「これ一枚で食べられるものは、何がある?」
「それでしたら、こちらのパンはいかがでしょうか?」
アレクが、金色に光る一枚の硬貨を取り出す。それは、数ある硬貨の中でも価値の高いものだ。
それを見たマスターは、手のひらサイズの惣菜パンを指差した。
金貨一枚で食べられるのが、この小さいパン一個だけ。その現実に、アレクが衝撃を受ける。
これだけ稼ぐのが、どれだけ大変か。今の資金だと、あと何日分の生活費を出せるのか。
とにかく、収入が見込めない今、無理な出費は避けなければならない。
「分かった。それで頼む」
「かしこまりました」
アレクが店内を見渡すと、そこには、アレクと同じくこの居酒屋の常連客の姿がちらほらと見える。
その常連客たちは、皆一様に涙を流しながら惣菜パンを頬張っていた。
自分と同じくマスターからこのパンを勧められたのだろう。
みんな考えることは同じだった。
「それでは、こちらになります」
「ああ、ありがとう」
アレクは、空いている席に座ると、腰から剣を外してテーブルに立てかけた。
そこに、マスターから惣菜パン一個とコップ一杯の水が差し出される。
目の前のテーブルの光景に、涙が出そうになる。その量は、あまりにも少ない。
冒険者は体が資本だ。食事も栄養を考えた上で、きちんと取らなければならない。
これでは、いざという時に戦えなくなってしまうのではないか。そんな不安が、心を支配する。
ただ一つ言えることがあるとすれば、そのいざという時が、今まで一度も来たことがないわけだが。
「うまいな」
手で乱暴に惣菜パンを引きちぎり、そのかけらを口の中に放り込む。
様々な野菜が詰め込まれたパンは、栄養のバランスが良さそうに思える。
懐かしさを感じさせる素朴な風味も、実に良い。
アレクはひたすら咀嚼した。何度も、何度も、味を噛みしめるように。
僅かな量で、最大限の満腹感を得られるように。
その背中には、大きな大きな悲壮感を漂わせていた。
カランカランと、お店の入り口が開く音が聞こえてきた。
逆光で見辛いが、そのシルエットからは、鎧を着て剣を腰に携えた冒険者風の青年に見える。
「いらっしゃいませ」
「やあ、マスター。アレクは来てるかな?」
「ええ、カイル様。そちらの席に」
アレクとは特に仲の良い冒険者仲間のカイル。
ここまで走ってきたのだろうか、その額には、じんわりと汗が滲んでいる。
カイルはアレクの姿を見つけると、白い歯をきらりと光らせ、スタスタと近づいてきた。
笑顔を向けた相手が女性なら黄色い声が響いたであろう、とても爽やかなイケメンスマイルだ。
「やあ、アレク。今日は公園じゃないんだね。探したよ」
「ああ、カイルか。いや、別にいつも公園にいるわけじゃないんだが」
常に公園にいるかのような物言いに、アレクは顔をしかめる。
実に不本意だ。不本意だが、返す言葉が出てこない。
思い起こせば、冒険者デビューの時が、公園デビューの時でもあった。
公園では、暑い晴れた日はマントで日差しを避け、寒い雨の日はマントで雨粒を避け、昼はマントを日干しし、夜はマントに包まって寝た。
冒険者を続けているアレクにとって、公園とは切っても切れない関係だ。もはや自宅と言ってもいい。
認めるしかなかった。認めざるを得なかった。これまでもこれからも、毎日公園に行くだろう。
「とても大事な話があってね。アレクにだけ伝えておこうと思って来たんだ」
「大事な話?」
アレクの隣に立ったカイルは、肩に手を回し、耳元に顔を近づけてきた。
汗の匂いが直に感じられる。そこに男臭さなどない。フルーティでフローラルでフレッシュな香りだ。
ふわっと、目の前にお花畑が広がる。それは、イケメン補正とでも言うべき、不可思議な現象だ。
だが、この手の現象は、女性に対してのみ効果を発揮するもののはずだ。
何故、男であるアレクにもお花畑が見えてしまったのか。背筋に冷たいものが走った。
「おい、カイル!? 急にどうしたんだ!?」
「いいかい、落ち着いて聞いて欲しいんだ」
「おおお、落ち着いてるさ。ああ、見りゃ分かるだろ?」
カイルが一言しゃべる度に、アレクの耳には吐息がかかる。
ギルドでマリーから向けられた殺意とはまた違った恐怖。それがアレクの声と体を震わせる。
ギルドではビンタされ、殺意に怯え、居酒屋では高いパンに涙を流し、そして今えもいわれぬ恐怖を感じている。
厄日だ。アレクは、そう感じずにはいられなかった。
「大丈夫かい、アレク? 震えているようだけど?」
「あ、ああ、大丈夫だ。それより何の用だ?」
「うん、そのことなんだけどね」
「ひいいぃぃ!?」
カイルがさらに顔を近づけてくる。
その距離は、もはやアレクの耳にカイルの唇が触れそうなほどだ。
アレクは生唾を飲み込むと、覚悟を決めたかのように目をぎゅっと瞑った。
まぶたの裏には、イケメンとのめくるめく腐の世界が映し出される。
(親父。御袋。俺は今日、一歩大人の階段を昇るよ。相手は、その、同性の友達だけどな)
こんなことなら、どさくさに紛れてマリーとキスしておけば良かったと後悔する。
だが、あの時キスをしていたら、どうなったのか。もしかしたら、アレクは今頃この世にいなかったかもしれない。
「南の森にダンジョンが出来たみたいなんだ」
「……へっ!?」
「聞こえなかったかい? 南の森にね、ダンジョンが出来たみたいなんだよ」
それは、とても小さな小さな声だった。それはもう、耳元でなければ聞き取れないくらいに。
周りの人に聞かれないように、小さな声でも聞き取れるように。
そのために、カイルは顔を近づけていただけだった。
その事実に、アレクは心から安堵した。
「ははっ、そうか、ダンジョンが。そうかそうか」
「ちょっと、アレク? 声が大きいよ?」
「あっ、す、すまない」
他の人たちには悟られないように、そっと周囲を確認してみる。
パンを頬張る常連客の姿に、変わった様子は見られない。たぶん、聞かれてはいないだろう。
ダンジョン。それはアレクにとって、心から欲していた冒険者としての仕事だ。
血がたぎるとでも言えばいいのか。体中が熱を帯びるのが分かる。
「アレク、すぐに店を出るよ」
「ああ、そうだな」
カイルが、すっとアレクから体を離した。
アレクはパンを全て口の中に捻じ込むと、コップの水を飲み干し、まとめて喉へと流し込んだ。
それは、さっきまでちびちびと食べていたのとは打って変わって、なんとも豪快な食べ方だった。
そこに、もはや味なんて感じない。満腹感がどうとかも、気にしてはいない。
すでに意識はダンジョンへと向けられている。それが空腹感を消していた。
食べ終わったアレクは静かに立ち上がった。
その動きは、ややぎこちない。右手と右足が、左手と左足が、同時に動いている。
演技など出来ないのだから、仕方がない。
こんなことなら、店を出てから聞けばよかったと後悔するが、そんなの今更だ。
とにかく、不自然さがないように、周囲に勘付かれないように、ゆっくりとした動きでイスを戻した。
「ぷっ、うくくっ」
「笑うなよ!?」
「いや、だって。ここまでひどいなんて思わなかったからね。あははっ……げほっ、ごほっ」
「むせる程かよ!?」
お腹を押さえて必死に笑いをこらえていたカイルが、突然むせ始める。
もうこうなったら、悟られないように自然な感じで店を出るなんて言っていられない。
ここに残る時間が長いほど、不自然な印象を与えてしまうだろう。
二人は会計をするために、急いでカウンターへと近づいていった。
「マスター、会計を頼む……マスター?」
カウンターに目を向けるが、さっきまでここにいたはずのマスターの姿が無くなっている。
何かおかしい。問いかけたのに、返事すらないのだ。
トイレかと思い、そちらに目を向けるが、トイレのドアには鍵が掛かっている様子はない。誰も入っていないだろう。
二人が顔を見合わせていると、突然、バタンと豪快にドアが開く音が聞こえてくる。
その音は、カウンターのさらに奥。お店の裏口があると思われる方向だ。
「おい、まさか!?」
「聞かれたのかもしれないね」
「ちぃっ、急ぐぞ」
店のマスターが、客に何も言わず店を出るなんてありえない。
そんなありえない行動に出る理由があるとすれば、ダンジョンの話を聞かれた以外に思いつかなかった。
アレクは、まるで駒を指すかのように、カウンターの上にパチリと金貨を置いた。
本当なら、きちんとお釣りをもらいたいところだが、肝心のマスターがいない上に、いつ戻ってくるのかも分からない。
高い飯を食わされた上に、お釣りももらえないことに、ひどい憤りを感じる。
しかし、今はそんなことを言っている暇はなかった。
「走るよ」
「ああ、分かってる」
二人は店を出ると、南の森に向けて、猛烈な勢いで走り出した。
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