第一話 冒険者ギルドは超絶ブラック企業です
テーブルが無造作に並べられた、殺風景な建物の屋内。
そこには一人の妙齢の女性が、カウンターの上にうつ伏せになって寝ていた。
「何もない、か」
その女性をよそに、建物の中を物色する男性の影が一つ。
なかなかに質の良さそうな鎧を身に纏い、腰に剣を携えた男性の姿は、とても物取りのようには見えない。
ぼーっと壁を眺めてみたり、屈んでテーブルの下を覗いてみたり。
その様子は、本来なら壁にあったであろう何かを探しているようにも見える。
「ぶえっくしょん! ったく、床にホコリが溜まってるじゃねえか。少しは掃除しろよ」
床に這うようにしていた男性が、ホコリに鼻を刺激されたのか、大きくくしゃみをした。
床にうっすらと積もっているホコリは、掃除をしていないだけでなく、ほとんど人の出入りが無いことを物語っている。
男性は服についたホコリを手で払いながら、女性の様子を確認した。
すぅすぅと気持ち良さそうに寝息を立てている女性は、くしゃみの音にも一向に起きる気配がない。
妙齢の女性が、こんな無防備な姿を晒していいものなのか。男性は深くため息をついた。
「えへへー。もうお腹いっぱいで食べられないよぉ」
「うおっ!? って、寝言か。びっくりさせんなよ。
それにしても、随分とまあ幸せそうな夢を見てるみたいだな。
こっちは食費を稼ぐだけでも、いっぱいいっぱいだってのに」
よだれを垂らしながら口元を緩ませた女性は、なんとも幸せそうな表情をしていた。
その傍らで、ホコリまみれになりながら一人でなにをしているんだろうか。
そう考えたら、無性に馬鹿らしく思えてくる。
「はぁ。やっぱり、起こすしかなさそうかな」
きっと良い夢を見ているのだろう。それを無理に起こすのは、なんだか可哀想な気もする。
だが、一人で探していたのでは埒があかない。もう散々探し回ったのだ。
話を聞くにしても、一緒に探してもらうにしても、起こさなければならない。
そもそも、こんな所で寝ていること自体がおかしいのだ。
男性は女性の肩にそっと手を置いた。これは、断じてセクハラではない。
いけないことをしているような気になってしまうも、男性は女性の体をゆさゆさと揺らした。
「よお、マリー」
「ふえぇっ!?」
あまりにも気の抜けた声。
視力が悪いのか、女性は寝起きで腫れぼったい目を細め、男性をじーっと見返していた。
机の上には、赤縁のメガネが置かれている。寝る際に外したであろうそれは、最初から寝る気満々だったことが伺える。
(うおおぉぉい!? 近い近いっ!? この距離で見えてないのかよ!?)
立ち上がり、どんどん顔を近づけてくる女性。その距離は、口を開けば吐息が顔にかかりそうだ。
男性はどぎまぎしながらメガネに手を伸ばすと、女性の顔の前に差し出した。
メガネを受け取った女性は、改めて男性の顔を見つめる。
その顔は真っ赤に染まり、その瞳は大きく見開いていた。
「きゃあぁっ!?」
「ぶほぁっ!!」
突然、女性の痛烈なビンタが、男性の頬を打ち抜いた。
男性は豪快なひねり技を見せながら、部屋の隅へと吹き飛んでいく。
その衝撃で、部屋中のホコリというホコリが、ふわりと舞い上がった。
「もうっ! アレクさんが悪いんですからね!」
「なんでだよ!? どう考えても、こんな所で寝てるマリーが悪いだろ!」
「それは……そうですけどぉ。いえ、そうじゃないんです!」
受付の女性マリーは、ぷくーっと頬を膨らませている。
その表情は、私は怒ってるんですからね、と必死にアピールしているかのようだ。
冒険者の男性アレクは、マリーの目の前で、頬に咲いた真っ赤な紅葉を手でさすった。
ここは冒険者ギルド。
ありとあらゆる依頼が難易度順に管理され、冒険者の実力に応じて仕事を斡旋する場所だ。
冒険者であるアリクも、受付嬢であるマリーも、ここにいて何ら不思議ではない。
アレクからしてみれば、受付で寝ていた受付嬢を起こしたに過ぎなかった。
確かに、いくら知り合いとはいえ、目が覚めた時に目の前に男性がいた時の女性の気持ちを考えると、少々迂闊だったようにも思う。
ただ、ビンタすることはないんじゃないか。アレクは頬のひりひりとした痛みに、涙目になっていた。
そもそも、アレクはマリーのことを異性として意識していない。
確かにマリーは受付嬢をやっているだけあって、美人でスタイルも良い。
初めて会った時には、胸がときめいた。その気持ちに、嘘偽りは一切ない。
だが、そのずぼらであけすけな性格から、いつしか異性としての意識は微塵もなくなっていた。
アレクにとっては女友達、いや、近所のおばさん的な存在になりつつある。
ちゃんとしていればいい女なのに、実にもったいない。
「だって、アレクさん! その、私に、キ、キスしようとしてきたじゃないですか!」
「俺からじゃねえよ!? 近づいてきたのはマリーの方じゃねえか!」
「はあ!? 私がアレクさんにぃ? ありえません! 絶対に、120%ありえません!
そもそもアレクさんは、学なし職なし甲斐性なしのろくでなしじゃないですか!」
「お、おう……」
もちろん、アレクはマリーのことを意識していないのだから、どう言われようが全く構わない。
構わないのだが、さすがにこうもはっきりと言われると、正直凹む。
というか、冒険者ギルドの受付嬢が、冒険者を相手に職なしって言うのはどうなんだろう。
アレクの心の中は、納得できないもやもや感と、男として見られていない悲壮感で埋め尽くされていった。
「はぁ。口元、よだれの跡が残ってるぞ」
「ええっ!? 嘘!?」
袖でごしごしと口の周りを拭くマリー。その姿には、色気のかけらもない。
仕草だけを見たら、完全におっさんのそれである。
「どうですかぁ? よだれの跡、消えてますぅ?」
「ああ、消えてる消えてる」
マリーがアレクをジッと見つめてくる。確かによだれの跡は消えていた。
ところどころ赤くなっている箇所が見受けられるのは、うつ伏せで寝ていたからだろう。
だが、どうせ時間が経てば消えるものだ。面倒くさいこともあり、それは言わないことにした。
「っと、そんなことはどうでもいいんだ。それよりも、仕事のことで相談があるんだが」
「どうでもよくないですよっ!? 淑女の口元に、よだれの跡ですよ! 重要じゃないですか! それに余計な話をしてるのはアレクさんですよね!?」
「なんでだよ!? 元はと言えばマリーが……いや、これ以上は止めておこう。仕事を探しているんだ。何かないのか?」
「ありませんよぉ。仕事なんてあるわけないじゃないですかぁ」
マリーが指差す先には、巨大な掲示板がある。
冒険者への依頼があれば、この掲示板に依頼書が貼り出されるはずだ。
だが、そこには一枚の依頼書も貼り出されてはいない。まっさらな掲示板が置かれているだけだった。
すでにアレクは、マリーが寝ている間に掲示板を確認していた。
もしかしたら、貼り方が甘くて床に落ちてる依頼書があるんじゃないかと、それはもう念入りに探した。
もちろん、何一つ見つからなかったのは言うまでもない。
「平和ですねぇ」
「平和じゃ冒険者の腹は膨れないんだが? それに、ギルドとしては、それでいいのか?」
「私に言われても困りますよぉ。いいじゃないですか、平和。私は好きですよぉ」
「それだと、受付の仕事もなくなるんじゃないか?」
「うっ、それは困りますねぇ」
頬杖を突きながら、気怠そうにしているマリー。
本来ならば、仕事を選ぶ冒険者たちで賑わっていてもおかしくない時間だ。
にも関わらず、ここにはアレクとマリーの二人しかいなかった。
冒険者はみんな、ギルドに来ても仕事がないことを理解しているのだ。
前回仕事を受けたのはいつだろうか。アレクは、もう幾日も仕事を請け負っていなかった。
やる気がなくて、やらなかったわけではない。仕事がなくて、やれなかったのだ。
ちらりと自分の荷物を確認する。すでに所持金が心許ない額となっている。
さすがに、もう何かしら収入を得ないことには、生活することすら厳しくなりそうなのだ。
「別にモンスター討伐じゃなくても良いんだ。盗賊が出たとかないのかよ」
「ないですねぇ。商人さんたちの移動も至ってスムーズですよぉ」
「貧乏人も多いと思うんだがな」
「そんなに盗賊に身を堕とす人が出てきて欲しいんですかぁ?」
「いや、そういうつもりで言ったわけじゃないんだが」
「まぁ、盗賊行為なんて自殺に等しいですからねぇ。アレクさんみたいな冒険者がうじゃうじゃ群がるでしょうしねぇ」
マリーがくすくすと笑う。
随分とひどい言われようだが、アレクはそれを否定できない。
盗賊討伐なんて依頼書が貼り出された日には、それこそ、数百、いや、数千の冒険者が総出で依頼にあたり、ほんの数刻で討伐されるだろう。
アレク自身も、そんな依頼が出たら、すぐに飛びつくに違いないと思っている。
「護衛の依頼とかはどうだ?」
「私がここに勤めてる間、護衛の依頼書なんて見たことないですねぇ」
「マリーが勤めている間って。あれ、マリーいくつだっけ?」
「女性に年齢を聞くなんて、アレクさんも良い度胸をしてますねぇ?」
「い、いや、ごめんなさい」
突如目の前に膨れ上がる圧倒的強者の気配に、アレクは体を震わせた。
気配の主であるマリーは、女性らしい柔らかそうな体つきの、おっとりとした感じの美人だ。見た目に怖さは感じられない。
だが、その目尻の下がった優しげな瞳の奥には、ドス黒いものが渦巻いている。完全に捕食者の目だ。
殺られる。そう感じたのは、勘違いなんかではないだろう。
モンスターもいない、盗賊堕ちする奴もいない状況で、護衛の依頼がないのは当たり前だ。
襲われる脅威が皆無となった昨今、護衛をつけるという習慣は次第になくなっていった。
現に商人たちも、護衛なしで行き来するのが当然という風潮になっている。
モンスターの討伐も、盗賊の捕縛も、商人の護衛も。
冒険者にしか出来ないような依頼は、生まれてこの方、一度たりとも見たことがなかった。
見たことがあるのは便所掃除のような、誰にでもできるけど誰もやりたがらない、そんな依頼ばかりだ。
ただ、そんな依頼ですら、あり余る冒険者たちによって取り合いになっている。
アレクの身につけている鎧も、腰に下げている剣も、飾りではない。
大枚をはたいて購入し、常日頃から手入れを欠かさない代物だ。
それにギルドでは、冒険者の実力や実績に応じてランク分けを行っている。
もちろんアレクも、ランクアップするために、より良い依頼を受けられるように、毎日のように剣を振り体を鍛えている。
だが、それを活かした仕事など、一度も受けたことがなかった。
「やれやれ、まぁ仕方ないな。仕事もないみたいだし、俺はもう行くよ」
「えーっ、もう行っちゃうんですかぁ? もう少しお話ししましょうよぉ」
マリーは、立ち去ろうとしたアレクの腕を掴んで強引に引き留めようとする。
その様子は、とにかく必死だ。絶対に逃さないといった気迫が、ひしひしと伝わってくる。
一体、女性らしい細身の腕のどこにそんな力があるというのか。
馬鹿力とでもいうべき握力に、アレクの腕がみしみしと悲鳴をあげた。
「ぎゃああぁぁ!? 腕が、腕がもげる! 離して、離してください、お願いしますぅぅぅぅ」
「暇なんですよぉ。本当に暇なんですぅ。アレクさんも暇ですよねぇ? もう少しいいじゃないですかぁ!」
アレクもマリーも暇だ。それは間違いない。だが、両者には決定的な違いがある。
受付の仕事は給料制であって、冒険者の仕事は基本給ゼロの歩合制だ。
冒険者は何かしらの成果を上げなければ、一文たりとも収入を得られることができないのだ。
知識のある人からすれば、その給与体系はとてつもないブラック企業に見えるだろう。
給料制の受付嬢マリーは、この場にいるだけでも給料がもらえる。
歩合制の冒険者アレクは、この場にいたところで一切収入がない。
アレクからしてみれば、マリーの暇に付き合う利点がないのだ。
アレクの涙目に、マリーの手が一瞬緩む。
その隙に、アレクはマリーの手を振りほどいて、素早く飛び退いた。
きつく掴まれていた腕には、その赤い手形がはっきりと残っている。
命の危機に瀕した際の、その判断、その身のこなしは、さすが冒険者と言えるだろう。
「じゃ、じゃあな、マリー。また来るよ」
「絶対ですよ! 絶対来てくださいね!」
「お、おう」
マリーの気迫に押されたアレクは、へっぴり腰になりながら冒険者ギルドを後にした。
建物を出る瞬間、マリーがメガネを外す姿が見えた。
更なる被害者が出ないように、次に来る冒険者は女性であることを切に願う。
ビンタされた頬は、まだ微かに痛みが残っていた。
「はぁ。今日はどうすっかな」
行く宛てなど、どこにもない。今日も公園で一日を過ごすことにでもなるのか。
その公園は、昼も夜も仕事のない冒険者のたまり場になってる。アレクも常連の一人だ。
遠い目で空を見上げる。雲の少ない良い天気で、絶好の公園日和とも言える。
その背中には、リストラされたことを家族に言えずにいる父親のような、深い深い哀愁が感じられた。
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