第9話

校舎の五階は特別科目の教室だけがある。視聴覚室やら、図書室、パソコン室、美術室、音楽室を横目で見ながら、目的地である隅のトイレを目指す。

 五階隅のトイレは綺麗だった。普段あまり使われていないからなのか、あまり使用された痕跡が見られない。

「んじゃあ、入ってみるか」

「よろしく」

 比空はいつものように片手を挙げて奥苗を見送る。

 今回は男子トイレだから、比空が入れないのも当然ではある。

 中に入った。正面奥に小窓が一つ。小便用のトイレが三つと、その向かいに個室が二つ。

「今福誠治いるか?」

 呼びかけるが反応がない。個室を奥から順に調べていく。使用頻度が少ないからなのか、どの個室も手入れが行き届いていて綺麗だった。

「おーい。いないのか?」

 奥苗の声だけが男子トイレに響く。何も発見できず、奥苗が諦めて戻ろうとしたとき、

「き、きゃーっ!!!!」

 悲鳴。比空の声だった。奥苗は地面を強く蹴って男子トイレから飛び出す。

 トイレの外に比空の姿はなかった。

「おい! 比空! どこだ?」

 呼びかける。首を巡らせて比空の姿を探すが見つからない。なんだ。比空の身になにかあったのか。不安が頭を過ぎる。とにかく近くにある部屋を調べようとしたら、比空が女子トイレからよろよろと姿を現した。

 慌てて駆け寄る。

「どうしたんだよ比空?」

「い、今福誠治がいた」声がわずかに震えている。

「なんだ? そいつになんかされたのか?」

 比空はぷるぷると首を振る。

「掃除、掃除してたの」

「は?」なにを言っているんだ比空は。頭でも打ったのだろうか。

 比空は女子トイレの中を指出す。

「今福くんが女子トイレの中を掃除していた」

 どういう反応をすればいいのかわからなかった。しばらく呆然とただ時間が経過するに任せていたら、女子トイレの中から人影がでてきた。

「あ、あのー」

 奥苗はその声にびくりと反応する。女子トイレから出てきた男。自然と身構えて比空を自分の背後に隠す。

「そんなに警戒しないで下さい。俺、べつに変なことしてたわけじゃないっすから」

 今福誠治は身長はやや奥苗よりも高いが、姿勢が悪く猫背になっている。笑顔と言えば笑顔なのだが、その顔は上司に揉み手をする部下のような他人に気に入られようとするいやらしさが見て取れるものだった。

 肩越しに比空と顔を見合わせる。

 女子トイレの中に男子生徒がいたことは変なことではないのだろうか。

「な、なんで今福くんは女子トイレの掃除をしてたの?」

 比空は奥苗の背に隠れながら言った。声は動揺からなのか震えている。

「俺の名前知ってるんっすか? 何か頼まれごととかっすか?」

「先にわたしの質問に答えてよ」

「ああ、そうっすね。俺、このトイレを守ってたんっすよ」

 思考が停止する。意味不明の言葉に返すべき言葉がなかった。こいつはいったい何を言いたいのだろうか。助けを求めて比空を見やる。比空の表情は、驚きやら戸惑いやら呆れやらがごちゃ混ぜになっているようだった。

 戸惑いに追い打ちをかけるように今福誠治は続ける。

「このトイレ。俺がいないとだめみたいなんっす」

 そう悲しげにトイレを見る今福は、やはりどこかおかしいとしか言いようがなかった。

 比空は奥苗の袖を引っ張って、にこやかに笑っている今福と距離を取る。

「女子トイレを掃除する委員会とかあんのか?」

 奥苗は今福に背を向けて、声をひそめて比空に訊ねた。

「えっ? そういうのあるの?」

 比空は眉間にしわをつくって、考えを巡らせる仕草をする。

「相談部があんだからトイレ掃除部があってもいいんじゃねーか?」

「言われてみればそうだけど……ちょっと待ってて、確認したいことがある」

 言うと比空は振り返って今福誠治に近寄った。何か一言二言会話を交わして足早に戻ってくる。

「隣の男子トイレも掃除してるみたい」

「なるほど。っで、それは重要な情報なのか?」

「当たり前じゃない。女子トイレだけ掃除してたら完全に変態でしょ」

「ああ、言われてみればそうだな」

 顔だけ振り返って今福誠治を観察する。今福はトイレの前に直立して微笑みながらこちらを見ている。爽やかと言われればそうなのだが、この状況でにこにこと笑っているのは少し不気味だった。

「でも、女子のブルマを切るような奴には見えねーな」

「えー? そう?」比空も首をよじって今福に目をやる。「うーん。わかんないや」

「とりあえず訊いてくるわ」

「何を?」

「いや、綾瀬のブルマを触ったかどうかをだよ」

「ああ、そうだったね」

 今福の予想の斜め上をいく言動に比空も当初の目的を忘れそうになっていたらしい。

 奥苗は考える。先ほど作延好道からもらった助言を思い出し、いい質問はないかと思考を巡らせる。

「単刀直入に、綾瀬真麻のブルマに触ったことがあるか訊いていいか?」

 比空は目を下に向けて、ぶつぶつと言葉を漏らす。

「そうね。それなら大丈夫だと思う。なんでかって訊かれたら適当にはぐらかせばいいし、嘘とかついたら怪しいし」

「んじゃ、訊いてみるわ」

 奥苗は比空から離れて今福に歩み寄る。

「えっと、大丈夫っすか? 俺なんかしちゃったっすかね?」

 怯えるように今福は視線を泳がせている。怪しいと言われれば怪しい挙動だった。

「一個変な質問に答えてもらいたいんだが、大丈夫か?」

「はい。いいっすよ」今福は笑ってはいるが、よく見るとその笑顔はどこかぎこちなかった。

「あのさ、お前と同じクラスにいる綾瀬真麻知ってるか?」

「ええ、まあ、なんとなくっすけど」

「お前、その子のブルマに触ったことあるか?」

 今福の表情の変化を見逃さないようにじっと見る。今福は何度か目を瞬かせたあと、笑みを崩さずに言った。

「はい。このトイレに忘れていったときに届けたことがあるっす」

 予想の遙か上空を行く返答だった。思わず仰け反ってしまう。

 今福誠治には人を離れさせる何かがあった。

 なぜ、そこまで嬉しそうに綾瀬のブルマに触った話をするのか。なぜ誉められるのを照れている少年のような顔をしているのか。奥苗には理解できなかった。

「この、女子トイレにか?」

「そうっすね」

 どういうことだ。パンツをトイレに忘れるなんてことあり得るのか。いや、あり得ないだろ。どんな体勢で用を達したんだよ。

 いや、ちょっと待てよ。

 奥苗は今福に別れを告げて比空の元へ戻った。

「それで、どうだった?」

「歩きながら話す」

 遠くから、また遊びに来て下さいね、という今福の声が聞こえた。遊びに来てって、まるでトイレが自分の家でもあるかのような言いぐさだ。

 四階へと続く階段を下りながら、奥苗は今福とのやりとりを比空に説明する。

「あやしい」比空は低い声でそう言った。

「そんで比空に訊きたいことがあんだけど、女ってトイレでパンツ忘れることあんのか?」

「ない。パンツは忘れない。他のどんなものを忘れてもパンツだけは忘れない」

「んじゃあ、嘘か?」

 確かに今福の言葉は真実と信じるより、嘘だと思えた方が安心できる。

「断言はできないけど、わたしは嘘だと思う」

「そうか」

 今福の姿を思い出す。確かに変な奴だったが、下着を切るような奴なのだろうか。

「とりあえず、最後の人にも話を訊きに行こう」

「そうだな」

 綾瀬真麻のブルマに三日以内に触った人間は三人いた。一人は奥苗の友人でもある作延好道。彼の言い分は妹に弁当を届けに行くときに、間違って綾瀬のロッカーを開けてしまい、その時に手に触れたであろうということ。

 二人目は今福誠治。教室にはいずにトイレを守ってるなんて言う変なやつ。綾瀬真麻と作延の妹である美世と同じクラス。トイレに忘れていった綾瀬のブルマを届けたと言ったが、挙動不審な態度からどこか怪しい。

 そして最後に会いに行くのは、奥苗と同じクラスである久住佑だ。同じクラスではあるが、奥苗はまだ挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかった。

「それじゃあ、わたしたちの教室に戻ろう」

 比空が前を歩き、二人は二年三組へと足を向けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る