祝福の風の匂いは甘く 06

 鉄の腕(かいな)が壁を打ち砕く。穿たれた穴を抜けてその先の空間に足を踏み込むと、背後のトンネルが振動に耐え切れなかったのか鈍い音と共に崩れ落ちた。退路は断たれた、前に進むしかない。

「うっ……」

 鼻をつく臭いに思わず口元を覆う。汚れた水の腐った臭い。

「ここは、下水道……?」

「いえ、下水道の一部を隔離して、地下牢として利用しているの。地図にも載っていない、秘匿された場所――愛すべき愚かな弟、マディスがこの場所を作ったのよ……!!出入り口にくまなく亡者除けが焚かれているせいで、こうして地中から侵入するしかなかった」

 てらてらと水苔や黴に覆われたフロアを見回すと、地上に伸びる階段がある。忌々しそうにディオサが階段の登り口に立てられた燭台を指差した。

「あれを壊して!私はあの結界のせいで、ずっとこの階段を下りられなかったのよ!」

 言われるがままに鉄の手で燭台を握り潰す。ぐしゃりというその音に反応して、じゃらじゃらと鎖のなる音がした。四つあるうちの一つの牢に、誰かが繋がれているようだ。結界が無くなったことで自由になったディオサがその牢へ走り寄る。牢の中には、羊のように小麦色の髪の塊となった、一人の女がいた。

「ミレーヌ!!」

 ディオサが鉄格子の隙間から手を伸ばす。

「アァァーーーヴゥゥゥ―――」

壁に枷で張り付けられ、俯いていた女が狂気の呻り声を滴らせながら顔を上げる。床につく汚れきった髪がかさかさと不協和音を鳴らす。髪の間を、油虫が這いまわっている。

「ミレーヌ!わかる!?返事をして!」

 ディオサの声に、するりと卵の殻が剥けるようにミレーヌの纏っていた狂気が消えた。

「――その声はディオサ様……やはり、私は上手くできなかったのですね」

 ミレーヌの顔を見てフォルトは絶句する。光の無い瞳は、暗闇が彼女から視力の殆どをを奪い取っていることを物語っていた。フォルトは気づけば天剣【雲翳】を握って、鉄格子に掛かる錠前に突き立てていた。まるで普段操る砂鉄の一部かのように鉄格子は分解され、あっさりと崩れ落ちた。隔てる物の無くなった牢の奥へディオサは進み、躊躇うことなく汚れきったミレーユを抱きしめる。ぎしりとミレーユを捕らえる鉄の手錠は錆びついて脆くなっており、それを無言でフォルトが剣を叩きつけて壊す。

「ごめんね……ごめんなさいねミレーユ。貴女に私はなんて酷いことを押し付けてしまったのでしょう……」

 ディオサは泣いていた。ミレーユの髪に顔をうずめ、悲しみに涙を零している。

「ごめんねミレーユ……、でも許してあげてほしいの。愚かな弟を、マディスの事を」

 嗚咽を漏らし体を震わせて泣くディオサの頭を、ミレーユの痙攣交じりの手がゆっくりと撫でた。

「泣かないでください姫。すべて私が至らなかったからこそ。ディオサ様の遺骸を、国中に隠しました。王の手から貴女様をお守りするために。安寧に満ちた死に、ディオサ様が静かに漂っていられるように祈っておりました――マディス王子を恨んでなどおりません。彼は姫の願う通り王の能力に編重した戦略に反発し、国を元ある形に戻されようとしておられます。私を捕らえたのも近衛騎士隊への示しをつけるため。そして姫の最期を語らず気狂いを演じていたのは――」

曇った瞳から、一筋の涙がこぼれた。

「――あの場所を、あの光景を誰にも教えたくなかったという私のエゴです。十年鎖に繋がれてなお、姫付きの騎士となって貴女をお守りした日々を悔やむことはありませんでした」

 そこには、自らの境遇を呪う曇りなど一点もなく、ただただ姫の身を案じる騎士の表情があった。フォルトは居住まいを正される思いがした。こんな汚泥に塗れた、油虫と溝鼠が這い回る場所で布一枚すら与えられていないにも関わらず、彼女が自分の尊敬すべき騎士としての先輩だということがわかった。

「マディス様から睦言のように聞かされました。王の妄執は限りない。ディオサ様を死後の世界からすらも呼び戻し、その力を世界の覇権を獲るための道具として支配しようと躍起になっておられる。だから知っていることを教えてほしいと――しかし私は尚口を閉ざすばかりでした。それでも尚、ディオサ様がここにいるということは、王の手が貴方の体にかかったということ……慚愧に堪えないことです」

 ふらふらとミレーユが立ちあがる。骨と傷と、皮しかない体で、牢の外へと歩みだす。

「貴女をお守りしますディオサ様――姫が何の心配もなくお休みできるよう、今度こそ私が――」

「無理だ!そんな身体で!」

 フォルトが慌てて肩を掴んで制止する。ミレーユが呻いた。

「とりあえず、地上に上がろう。階段を上った先はどうなっているんです?」

「武器庫よ、大砲の陰に隠れるようにこの入り口があるの」

 階段を上り、天上にある扉をそっと浮かすと、ぶわっと地上の空気が地下に入りこんでくる。慎重にあたりを窺うが、部屋の中に人の気配はない。扉を開けてミレーユとディオサを外に出すと、ミレーユが鼻をひくつかせ大きく息を吸った。

「何年ぶりの地上の空気でしょうか、肺が洗われるようです」

 ディオサがミレーユの髪につく虫やごみを払っていると「邪魔になりますので」とミレーユが近くにあった剣で髪ごとそれらをばっさりと切り落とした。項が隠れるほどの長さに切りそろえられた髪を掻き回しながら「服は何かありますか?」と裸の身体を隠しもせずに問うてくるミレーユに、ディオサが備蓄されていた軍服を着せた。

「せっかく明るい灯の下に出たのに、ディオサ様の顔が見れないのは、少々残念ですね」

 曇った瞳をそっと閉じて、ミレーユは剣を腰に差して背筋を伸ばす。その柄を手で押さえ、フォルトが首を振った。

「ミレーユさん。貴女はディオサ様と一緒にこの場を離れていてください。ここからは、私一人で行きます」

「しかし……」

「貴女の身体は今戦える状態ではないでしょう。ディオサ姫も剣こそ振るえるが能力自体はほとんど使えない。端的にいうと、貴方方は私の弱点にすらなりえます。ディオサ姫、貴女もそれをよくおわかりでしょう?」

 ディオサは黙ってこちらを見つめている。その視線を受け止め、フォルトは唐突ににこりと場違いな笑顔を見せた。

「それに、今度こそ貴女方はお別れだ。短い時間ですが、一緒に過ごされてはいかがですか?」

「――まったく、そう言われたら名残惜しくなるじゃない」

 ディオサが肩の力を抜いて溜息をついた。緊張の解けたその空気を察したのか、ミレーユも素直に戦闘態勢を解く。

「かたじけない。あなたも優しく立派な騎士なのだな。名前を聞かせてくれるだろうか?」

「フォルト・バーリオル。アビス妃付きの元騎士です」

「ああ、なんだ君も剥奪組か。お互いやんちゃな主を持つと大変だな」

 ミレーユが肩を揺らして笑う。ディオサが「なによ」と子供のように頬を膨らませた。

「行きましょう姫。よく耳を澄ますと城内が騒がしい、そこかしこで戦いが起こっているようです」

「王直属尾騎士と、王族付きの親衛隊との正面衝突ね。今夜が山場だから、もう形振り構っていられないのでしょう」

 確かに剣を弾く音や、怒号が飛び交っているのが微かに耳に入る。ある意味好都合だった。乱戦の最中なら混乱に乗じて塔まで辿り着けるだろう。

「じゃあ、私達はここで」

 ディオサとミレーユが出口の扉に手をかけて会釈する。

「本当にありがとう。ミレーユを助けられて、これで私も心置きなく魂の海に還れるわ」

 そう言って二人は出て行った。まるでピクニックに行くような気軽さで、一歩外を出ればぶち当たるだろう兵同士の戦いなどどこ吹く風で。彼女たちはお互いがいれば最強だと信じきっているのだろう。主とそれに仕える騎士。揺るぎ無い信頼関係がそこにはあった。フォルトにはそれが羨ましい。

 天剣を撫で、軍服の襟を正してから、すこし考えて顔を隠すために備蓄されていた装備からフォルトは軍帽も拝借した。

 塔はすぐそこだ。扉を開け放ち廊下に出る。想像通りそこは戦場だった。

 廊下のそこかしこに剣を打ち合う兵士達がいる。なまじ同じ国の者同士だけに、装備も似通い助太刀しようにもどちらがどちらか分からない。フォルトは兵士達の合間を縫い、風祭の塔へ最短距離を突き進む。通り抜けようとした中庭は舗装されておらず柔らかい土だったので、フォルトは金棒を握った鬼の腕を生やすと邪魔な兵を思いっきり薙ぎ払った。月下に聳える巨大な鉄の腕に、王の親衛騎士隊は目を剥いてフォルトを見る。

「お前……どうしてここうぐおぁっ!!」

 自分の正体に気づいた者をフォルトは容赦なく端から昏倒させる。

「雑魚はもういいんですよ」

ぺんぺん草も生えないような戦い方で敵を一掃しながら、危なげなくフォルトは塔の近くまで辿り着く。予想通り頑丈な扉の前には白と黒の鎧を着た騎士達が百名ほどひしめき合っていた。物量に任せて突入しようとする近衛騎士隊(シロアリ)を、扉の前で王の親衛騎士隊(クロアリ)が能力を駆使しつつ阻止している。目を凝らすと見慣れた同僚の姿があった。

「シエル……!!」

偶然視線が合い、はっとしてフォルトは身を固くする。シエルは驚いたような顔をして、それから剣を持っていない左手で大きく弧を描いた。

「皆、右側から回り込め!そっちは手薄だ!」

 混乱した状況では誰が上げたか分からぬ号令も鶴の一声となる。盲目的に反応した近衛騎士隊(シロアリ)が塔の側面にまで広がろうとすると、慌てて王の親衛騎士隊(クロアリ)が追随した。

今しかない、フォルトは手薄になっている塔の左側に回り込んだ。最小限の音で地面から砂鉄を呼び出し、階段を作って駆け上がる。三階の高さまで鉄の階段が届かず、フォルトは最後の段を踏み切って大きく跳躍し、三階の窓硝子に向かって思いっきり腕を振り上げた。

「火炎隊、打て――!」

 まるで計ったかのようなシエルの声と共に、轟音と光が闇夜を焼いた。フォルトの打ち下ろした腕が窓ガラスを割る音など一瞬で掻き消され、誰もそれには気づかない。塔の中に転がり込むとともに、鉄の階段は砂鉄に戻り地面に吸い込まれていった。

 ごろごろと転がり壁際で止まると、頭を抱えたままフォルトは数秒固まっていた。

 脳裏に浮かぶのは、シエルの腕のサイン。あれは、駆り出された白兵戦で良く使っていたものだ。敵を攪乱して囮になってくれる時の、自分に向けたサイン。シエルが騎士達を誘導してくれたから、こうして自分は無用な戦いを避けて塔に侵入することができたのだ。

「馬鹿野郎……ここが正念場だって、お前が言ってたくせに」

 シエルもディオサ復活の反対派だ、だからこうして助けてくれたのだろうか。だが、手柄を取りたいと言い募る親友が、こうして自分に塩を送るようなことをしてくるのはやはり心に触れる。

「絶対に――助けてみせる」

 フォルトは塔を上りだす。

地上から離れ、もう砂鉄はここまで届かない。

能力を憎む刀鍛冶の少女の言葉を思い出す。

覚悟はあるか。彼女は何度もそう聞いた。

天剣の柄を握り締めて、フォルトは呟く。

「覚悟ならあるさ――彼女を救う、そのためなら」

 その瞳は、光を失ってなお真っ直ぐだった、ミレーユの瞳と良く似ていた。

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