あなたが愛する玩具の庭は 03
麓に広がる深い深い樹海を抜け、馬を操って山を登る。偵察隊から徴収した軍馬はフォルトより余程山慣れしていたので、傾斜のきつい山肌もぐいぐいとリードして登って行く。五合目のあたりから樹木が疎らになり、7合目まで辿り着く頃には空気がぐっと冷え込み、高山植物が低く茂るのみとなる。
土地勘のあるアビスの先導で行程は順調だったが、途中で思わぬ落とし穴が二人の足を阻んだ。
「……なんだか、頭が痛いです」
しきりにこめかみを押すような仕草をフォルトがし始めたのを見て、アビスがしまったと表情を険しくした。
「まずい、高山病なの」
すでにフェルゼンの街並みもすでに下界に望む場所だ。標高も二〇〇〇メーターを越えている。自分の足ではなく馬の速度で一気に駆け上がれば、自ずと山に慣れていない人間にはその環境変化に身体が不調を訴え始める。
「大丈夫です……」
とは言ったものの、頭を抑えるフォルトは前方すらまともに捉えられているように思えず、馬の揺れにも顔を青くしている。
「今日はもう休むの。日も暮れるしこれ以上頑張っても大して変わらない」
フォルトが何か言う前に、アビスはもう馬を下りて少し先にある大岩に向かって馬を引いていた。
「あそこで休もう」
大岩の陰で焚き火の準備をする。一晩夜を明かすために、フォルトも精細を欠いた動きで荷解きを始めた。馬に括りつけられている荷物は水と食料と毛布だ。アビスも今回は樹海に入る前に軍服の前をきっちりと留めて、その上から毛皮を縫い合わせた防寒具を着込んでいる。
「王は僕達の集落に突くのに三日三晩かかったなんて言っていたけど、実際は休息を一晩めば十分辿り付けるの。だから安心して」
フェルゼンで買った弁当を、水を沸かして作ったスープと一緒に食べ、毛布を被って寄り添って二人で眠る。暖を取ったことで体力が回復し、時間の経過によってフォルトの身体も高地への順応が進んだのかフォルトは次の日には元気になっていた。ただ、アビスの無防備な寝息や甘い匂い、柔らかな体の感触に幻惑され寝入るのが遅くなり、若干の寝不足は否めなかったが。
「さあ、もう一踏ん張りだ!行くぞ!」
アビスは目に見えて高揚している。身体に馴染んだ空気に触れ、故郷の気配を感じて喜んでいるのだろう。再び馬に跨ると二人は懸命に岩肌を進む。雲海が下に見えるほどに登り詰め、ついに頂上近くまで辿り着いた。
「僕達は、最も天に臨む一族だと言われている」
アビスの吐く息が白くたなびく。それほどまでに空気が冷えている。
ここが地の果て。空に手が届きそうなこの場所は、この世から最も遠く、あの世に最も近い場所。
見上げれば深くどこまでも奈落のように続く青。眼下には雲海。
音が無い。なんて寂しい場所。
ここが自分のいた戦場と、地続きの同じ世界だなんて、正直フォルトには信じられない。
都会に出て世の中を知るのとは訳が違う。
世界というものの認識が、この場所では変わる。フォルトはそんな気がして僅かに身震いした。
「「「ひいさま~~~~~!」」」
静寂を打ち破る幼い三重奏。はっとして道無き道の先に目を凝らすと、ハリネズミの背のように無数に生えた丸い岩の棘の間を転がるように、ころころと小さな子供が三人走り寄ってくる。全員が、アビスと同じ万華鏡の髪をしており、空を映して青く輝いていた。ふっくらとした動物の毛で編まれた衣服を身に纏っているので子羊の群れのようにも見える。
「おかえりなの!」
「うわーでっかい馬なの!」
「この人誰なの?」
「そんなに次々質問しない。僕の口は一つしか無いの」
どうやらアビスの少し変わった話し方は、口癖ではなく方言だったらしい。三人の子供に取り囲まれて、降参とばかりにアビスは馬を下りる。
「「「乗りたいの!」」」
子供を抱き上げて馬の背に乗せる。
「一人、あの向こうまで乗せてあげて欲しいの」
アビスはそう言って二人の子供がよじ登った馬の手綱を持ち、ゆっくりと岩の棘の林へと歩き出す。フォルトは目をきらきらさせて両手を差し出してくる残った子供を抱き上げて自分の前に乗せた。
「ありがとー」
丸い棘の林は、近づくと一本一本の間隔が広く開いており、馬でも簡単に進むことができた。子供はあったかいので懐炉代わりになるかと思っていたが意外と冷たい。フォルトは逆に子供を暖めるように手を回して、道を進む。
棘の林を抜けると、そこは拓けており目と鼻の先に集落が見えた。正方形に切り取った岩を積んで造られた質素な家々が、集落の中央の小さな湖を囲むように建てられている。窓にガラスは無く、草花で染められた布で覆われている。昔は色鮮やかだったのだろうが、強い日差しで色褪せており、全体的に彩度の低い印象を受けた。
馬の蹄の音に誘われて家から人々が顔を出し、皆一様にアビスの姿を見て顔を輝かせる。
「ひいさまだ!」
「ひいさまがお帰りなさったぞ!!」
老若男女みんなが、歓喜に満ちた声を上げ家から飛び出してくる。わらわらと馬を囲んで喜ぶ集落の住人たちは全員万華鏡色の髪をしており、空や石壁を反射して目を焼く程だ。臆病な馬を宥めながら地面に降り立つと、住人たちはフォルトに恐れをなしたように一歩だけ後ろに下がった。
「僕の家はあそこだ」
アビスの家は他の家より一回り大きく、立派な作りだったが、入ると中は埃っぽく、何より無人となった家特有の空気を鼻に感じた。
「面目ない、最近掃除ができておりませんで……」
申し訳なさそうに肩を縮める女性に「気にしないわ。みんなその日を食べるだけでいっぱいいっぱいなのは僕が一番わかっているの」と優しく声をかけ、部屋の中央に積み重ねられたクッションに腰を下ろし後ろにぼふんと倒れた。埃がまた派手に舞い上がる。ついでに、また胸元が限界を迎えたのかコートのボタンが弾けて宙を舞った。
「――ああ、帰ってきたという感じがするの」
アビスの目が低い天上を見上げて細められる。石が積まれているのは家の外壁だけで、中は布で間仕切りされているのみ、決して大きくも豪勢でも無い住処。だがアビスにとってはここが生まれ育った場所であり、故郷なのだ。
王城を思い出し、其処と此処の落差にフォルトは目を伏せた。この厳しくも美しい浮世離れした場所で、一生を過ごすはずだった小さな部族の姫君は、その能力だけを見初められて王都に連れ去られ、王の妻として忌まわしい戦の道具となり災厄と腐臭を振りまいて嗤う。なんという理不尽だろう。
もう高山の環境には慣れたはずなのに、フォルトの気分は悪かった。自らが仕え、すべてを捧げてまで汚名を雪がんと、栄誉を勝ち得んとした国のしていることに、初めて嫌悪を覚えていた。それと同時に、今までもやもやと蟠っていた疑問も形を成していく。
王は、何故このような少女に無体を働くのか。戦に勝つため、そう言ってしまえばそれまでだが、能力者だって石を投げれば当たる割合で増えているのだ。確かにアビスは強い。だがそれだけで、こんな秘境まで踏み入って姫君を攫い、さらには妻にしてまで囲うというのは腑に落ちない。アビスの一件は、国の内外から糾弾されている事案だ。直接王に直訴する者こそいないだけで、命を弄び踏み躙る行為だと、軍や役人からも眉を顰められているというのに。
「お待たせいたしました」
考えにふけっていたところを、盆を持って戻ってきた女性の声に引き戻される。
出された茶は水かと思うほど色が薄く、茶葉が古いのか香りも殆どない酷いものだった。王都で紅茶を飲みなれたフォルトは思わず顔を顰めそうになったが、ゆるゆるとそれを飲み干す。寒さの深まる高地の中では、暖をとれることがまずありがたい。
空になった湯呑を置いて一息つくと、ついに我慢できなくなったのか、戸口の陰で様子を窺っていた子供達が飛び出してきた。
「ひいさま、遊ぼう!」
「かくれんぼ!」
「鬼ごっこ!」
アビスを取り囲んでおねだりを輪唱する子供達。不意にぷっと彼女は噴出すと、腹を抱えて笑い出した。
「降参降参!!僕達は本当に元気なの」
笑い続けるアビスの手を子供達が引っ張って立たせると、その背を押して出ていった。家に取り残されたフォルトは胡坐かいて頬杖をつく。
「――一体、ここに何があるっていうんだ?」
麓の街での、あの青い髪の少女とアビスの寸劇はただ事ではなかった。最初の街からするりと懐に入り込むようにあの少女は二人の側にいて、そしてアビスは魅入られたかのように気づけば彼女と打ち解けていた。親衛騎士があれだけ近づくなと――
「――はっ?」
フォルトは自らの記憶に動揺し、驚愕した。そして思う。一体これで何度目だろうかと。
アビスだけに起こっていると思っていた変調が、自身にも起こっている。多分、アビスよりも自分のほうが記憶の齟齬に対して正気に戻る割合が高いのではないだろうか。
嫌な予感がした。のこのこと誘われてここまで来たことにも危険を感じるが、同時に皆して何かを隠している王都にすごすごと戻るのも気が引ける。
どちらも油断ならないとして、じゃあ騎士としてフォルトはどうすればいいのだろう。
「隙ありー!」
懊悩を繰り返し、眉間に皺を寄せていたフォルトの側頭部に、ばちんと小さく固いものが命中する。「いたっ!」とすぐに飛んできた方を睨み付けると、窓の外でいたずらに成功した子供たちが笑っている。転がっているのは、アビスのコートのボタンだ。
「この悪戯小僧が!!」
フォルトが家の外にかけ出ると、子供たちはけらけら笑って逃げ出した。その中にはアビスの姿もある。見るからに娯楽の少ない地だ、きっとこうやってそこそこの年齢になるまで集落中を駆け回っていたに違いない。
「こらっ!待てっ」
地の利の全くない中での鬼ごっこは、大人と子供の運動能力など容易くひっくり返される。フォルトは右に左に子供たちに振り回され、集落中を走らされた。子兎のように素早く動く子供たちを追いかけて集落の外れまで行くと、急に子供達がぴたりと動きを止める。チャンスと手を伸ばそうとすると、子供が真剣な表情でそれを制した。
「しっ!」
ぴんと張り詰めた空気に気圧されてフォルトも動きを止める。子供たちの視線の先には、猪のような小さな生き物が草を食む姿があった。
「スカイウォークだ」
子供達が緊張と――わずかに期待をもった表情で小さな生き物を見つめている。
「捕まえるんですか?」
「もちろん。肉なんて年に一度食えるか食えないかなの」
「しくじるなよ。あいつは空を駆けるように逃げちまうんだ」
「まかせるの」
確かにこの高山地帯に、動植物――特にタンパク源となる畜産物があまり多くいるとは思えない。彼らの必死の表情に同情すら覚え、フォルトが砂鉄を呼ぼうと指を伸ばすと、後ろからアビスの手がそれを押さえ込んだ。
「アビス様!何を!」
「ここで生きていくのに、過ぎた力を使ってはいけないの」
「なぜ?滅多に合えない獲物なんでしょう?一匹くらい」
「そうやって、出会った一匹を必ず殺していたら、いつかその一匹すらいなくなってしまうの。過酷な環境を生きているのは人も獣も同じ、能力や魔術は、人が人に対して振るう力でしかない」
吐息のような小さな声でアビスが諌める。甘い黄泉の香りが鼻先を掠めた。二人の大人がそうして押し問答しているうちに、身を低くして小岩の陰に隠れていた子供が岩に足をかけて跳躍する。
「てぇい!」
スカイウォークは大きく飛び上がり逃げようとしたが、上空から降ってきた子供にあえなく捕らえられた。
「あいつは真上に跳ねてからダッシュするから、上空からの奇襲が一番うまくいくんだ」
残りの子供達が駆け寄り、腰に巻いていた帯でスカイウォークの肢を縛り上げた。
「やったー♪今日は肉入りのシチューだよひいさま!!」
「すごい?僕達すごい?」
「ああすごい、たいしたものなの」
アビスは子供たちの頭を順繰りに撫で、優しく微笑みかけた。年長者としての姉のような表情は、いつもの不遜で不健康そうなそれとは想像できないほど魅力的で、フォルトは思わず見入ってしまう。
「な?こうして僕達は生きているんだ」
夜に食べたシチューは塩気が薄く、フォルトの知らない風味の強い野菜や乳でできておりとても美味しいとは言えなかったが、教訓と言うスパイスが効いていたのか、フォルトは文句ひとつ言わずに良く噛んでそれを平らげた。
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