その者は赤き奈落と共に生まれ出ずる 11

 薄暗い馬車の中は、甘い匂いと微妙な沈黙に満ちていた。対面上に据え付けられたソファは堅い木の上にベロアのクッションが敷かれたもので、血に濡れればすぐに取り換えができそうだ。フォルトは片側へ行儀良く座り、向かいではアイビスが頬杖をついてそっぽを――窓の外を眺めている。

 戦場への移動中、兵士は黙るか喋りっぱなしかの両極端な奴が多い。フォルトはおしゃべりに興じるタイプなので、この空間は居心地が悪かった。適当にウィズダムから渡されたマニュアルを捲ったりしてみると、なぜか五振りある天剣のうちの四つしかそこに込められた魔術の説明が無かった。あいつも適当だな、と小猿のような刀鍛冶を思い出してフォルトは溜息をつく。

 本当であれば初めて共に戦うのだ、昨日渡された剣の能力を机上で学ぶより、目の前の相手と戦術やお互いの能力、性格まで、知れる事は今の内に知っておきたい。仲間を知る事は敵を知る事より大切だ。敵のことを知っても、自分の事しか分からなければ編める戦術の幅は著しく狭まってしまう。

「――お妃様」

「皮肉?アイビスでいいよ」

「じゃあアイビス様……向かっているモワノーのご経験は?」

「モワノーは三回。一回は大規模な盗賊団の殲滅だったけど」

 掌ほどの窓から飽きもせずに遠くの山並みを眺めていたアイビスが視線をフォルトに向ける。その顔を見て彼女の機嫌は悪い訳ではないのだとフォルトは理解する。

 どこまでも透明な、一見すると眠そうにも見える万華鏡の瞳。そこに映るのは何時も自分自身だ。沢山の自分が映り込んだ瞳を見ると、相手に伝えまいと胸の奥底へ押し隠している感情すらも、無数に映った自分の数だけ増殖しているような気がする。

「別に、僕に心を読む力なんて無いの」

 すいっとアイビスはまた視線を窓の外に向けた。

「そういう事おっしゃられていると、みんなに誤解されますよ」

「――そうかしら」

 良く言われるの、と呟いたその横顔は神秘的で、絵画のように美しい。城で見かければ話し掛けるのも躊躇うほどの美貌だが、残念な事にここは消しきれない死臭を甘い匂いで飾りつけただけの、棺桶めいた馬車の中だ。そしてこれから始まるのは小さな戦争。死の気配が近づけば近づくほど、人は無自覚に無遠慮になる。フォルトも例に漏れずいつしか王妃に対して屈託無く接するようになっていた。

「私も去年に一度戦っています。モワノー平原は見通しがいいので奇襲はあまり考えられません。いつも正面からぶつかってお互いの兵力を削り合い、そうしているうちに政治的取引がなされて兵を引かされる」

「そう、隣国の【進軍による抗議】。あそこは別名クレーム平原なんて言われているの。この場所を本気で奪い取ろうなんていう気概をもつ国なんていないわ。去年なんて“小麦の1ブッシェルはふすまがついている状態で計測させろ”なんていう交渉での小競り合いだった」

「それで、私の同僚は死にかけました。軍人なんてこれだからやるもんじゃない」

 フォルトが乾いた笑いを漏らすと、アイビスが不思議そうな顔で見つめてくる。

「君は僕の騎士で軍人だろう?そして僕はこの国の皇族の血統じゃない輿入りの妃だ。更に言えば僕も軍人だよ」

「ええ、お互いに貧乏くじです」

 何も考えずに、フォルトはそう言っていた。明らかに異質なお妃であるアイビスの抱えるものも、置かれた立場も知らなかったから。

 きしり、と馬車が音を建てる。おもむろにアイビスがフォルトの隣に席を移したから馬車のバランスが傾いたのだ。肩が触れるような距離に近づかれ、フォルトはぎょっとして上半身を捻り彼女へ背を向ける。

「戦場を巡って、今更嫁入り道具を集めてこいと、夫は言った」

 敵国どころか本国でさえ腐り姫と忌避される妃が、肩越しに大きな目で、探るように見上げてくる。

「――愛されていますね。時間とお金をかけて、すべて特注して揃えてくれているなんて」

「何言ってるの?僕を戦場に送り出す王が、僕を愛していると思うの」

 苛立っているのか、彼女の軍用ブーツの爪先が、床を小突く。

「貴女が掛け替えの無い能力をもっているからでしょう。若く美しい妃に、城でぐらい軍服では無く美しく着飾って欲しい――そう考えるのは愛する夫だからこそなのではないですか?」

 アイビスは困ったような、途方に暮れたような顔をしている。そして不意にフォルトの背中に詰め寄った。自分が先日至近距離で拝ませていただいたあれが、自分に密着しているという事実に激しく動揺してフォルトは石のように固まる。

 人妻だ。しかも国の主の妻だ。

 冷や汗がどくどくと流れ出す。今この瞬間に御者が振り返って自分達を見たら?

 人の口に戸は立てられまい。やっとの思いで叶った御家再興が、一夜にして汚名に塗れ下手をすれば国外追放、いや処刑台へと送られても文句は言えない。

 狼狽えるフォルトの耳元に、アイビスの甘い声が響く。ぞわりと背筋をなでられたかのような心地良さ。

「本当に僕は愛されているの……?僕は皇帝と寝たことなどないよ――――僕は、ただの腐って呪われた、戦いの道具なの」

 アイビスはそう言ってフォルトにさらに胸を押し当てた。多分アイビス自身は話に夢中でそのことに気づいていない。その無防備さに任命されたばかりの騎士は、さらにくらりとする。

「僕を誰だか知ってる?敬愛されるべき美しく誇り高い帝国皇族の中で、唯一穢れを戴冠し腐臭を羽織る后妃なのよ――寝室どころか、同じ空間に居た事だって婚姻の儀の一度しかないのに」

 フォルトの猫っ毛に鼻をくすぐられながら、アイビスは溶ける声で囁く。

「僕は愛されてなんていないの。君も、国から見捨てられた」

 甘い声に似合わない、やけっぱちの言葉。三文芝居で娼婦が言うような台詞を、誰にも抱かれた事の無い妃が言うのだから皮肉なものだ。

「君と僕は似ているの――こんなに若いのに、もう満足しきった顔をしている。全うしたと、そう言えるほどに――ねえ、微睡む余生を揺蕩うのは楽しい?」

 だけど、まだ死にたくはないね。そう笑うとアイビスはフォルトの背に耳を押し付けた――早鐘のように喚く心臓の上に。

「――そろそろ戦場だ。君は今、生きている――僕も、生きているの――」

 小さな窓の向こうに、開けた広大な平原が広がっている。彩度の低い芝が申し訳程度にところどころ生えた、乾いた大地。

「これが僕達の脈動、僕達の呼吸、僕達の体温」

 高鳴る鼓動で心臓は今すぐにでも破裂しそうだ。柔らかな感触に背筋が粟立つ。黒い箱の馬車の中、世界で二人だけのような数十秒の静寂の後。アイビスは穏やかに微笑みながら悠然と立ち上がった。

「さあ行こう。生と死が午睡の果てに混濁するはこの世の深遠。僕達が歩くのは彼岸の境界――そこにあるのは、奈落に落ちる魂ばかりさ」

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