その者は赤き奈落と共に生まれ出ずる 04

 考えすぎて城の屋上にまで登り詰めてしまったことを、木枯らしに前髪を撫でられてフォルトは気づく。本当ならアイビス妃の控えている奥の宮まで一階下の廊下を通ってもいけるのだが、面倒なのでそのまま屋外の渡り廊下を歩き出した。枯れた鉢植えが物悲しく、豪奢な屋内と違って屋上はみすぼらしいとすら感じる。

季節が冬に掛かる頃で良かった、とフォルトは思う。今なら寒さが多少腐臭を抑えてくれるはずだ。湿気だらけの夏が来るまでに慣れておけばそれに越したことはない。

 目の前に一人の鳶色の髪をした侍女が立っていた。おろおろとその場を行き来して道を塞いでいる。

「失礼」と声をかけると、侍女はいよいよ困った顔をこちらに向けてきた。細い体を精一杯伸ばして背後の何かを隠そうとしている。

「あの……しばしこちらの道は」

 軍人相手に委縮しているのだろう。両手を組んで懇願するようにフォルトを見つめてくる。道を引き返すのは良いが、フォルトは彼女の困り顔の理由が気になって会話を続けた。

「この先に何かあるのですが?」

 王宮は魔窟、要らぬ好奇心が蛇ではなく竜を起こす危険に繋がるのも分かっていたが、ちょっと侍女を茶化すぐらいなら大丈夫な筈だ。彼女の後ろは空中庭園となっているようで、石造りの大きな花壇がいくつか見て取れた。華奢な猫足のベンチもあり、春になれば色とりどりの花を愛でながら城に住まう者達が憩うのだろう。

「いやぁ、素晴らしい庭ではないですか!レイズドベッドですね。ぜひ華やぐ季節に見たいものだ!」

 知った風を装い、フォルトは侍女の横をすり抜けて庭に踊り出る。寒々とした灰色の庭園に向かって大手を広げ――そして固まった。

「なっ……?」

 酷い有様だ。これなら茨の冠を被せられた神のほうがまだ痛ましくないだろうに。

 フォルトは自分が目の前の凄惨ささえ覚える光景に、言葉も無く立ち尽くしていた。

 彼女は、枯れた庭園の中、薔薇の花壇に大の字になって寝転がっていた。年の頃は二十歳前後、自分と同じくらいだろうか。美しいバランスをもって育った手足が伸びやかに広がり、水分を失って乾ききった薔薇の棘が、彼女の白く柔な肌を掠り遠慮なく赤い線を引いている。分厚い軍服の上着を着ているので胴体は無事だが、袖は半分以上捲り上げられている。下半身にいたっては膝下までブーツで覆われているものの、そこから上はショートパンツ一枚で、太ももにまで棘が突き刺さっていた。結い上げられた豊かな髪は無残にほどけ、プリズムのように無造作に光を反射しながら枯れた茨と絡んで扇のように広がっている。

 何だこの女は。仮にも軍服を着てこの振る舞い、流石にフォルトにも看過できない。頭のいかれた軍人を諌めようとフォルトが近づくと、その腕に侍女が縋り付いてきて押し問答となる。

「おやめください騎士様!!」

 侍女の必死の剣幕に気圧されていると、二人の脇をすっと一人の青年が通り過ぎた。髪色こそラービーナ・ニウィス王国に良くある菫色寄りのくすんだ青だが、その顔には見覚えがあった。驚きで立ち尽くすフォルトを不審がって振り返った侍女が顔を蒼白にする。

「――――あぁ、またお咎めですよ、アイビス様……こんな」

 フォルトはさらに頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

「は……アイビス妃……?」

 冬空の下薔薇の花壇に突っ込んでいるこの女が?

「また気狂いのようなことをして……ここは墓場ではないぞ!!狼藉も過ぎれば処刑の理由になると常々言っているだろうが!」

 フォルトの動揺を余所に、女の前に立った青年が怒気の籠った声を放った。まるで言葉自体が鋭い刃となったような、凛とした声。これが王者の品格か――フォルトはこの国の第一王子ラービーナ・ニウィス・マディスの背中を見ているだけで手の平に汗が滲むのを感じていた。流麗な風の文様を削った翠玉で埋め込んだ銀の鎧は、まだ幼さを残す青年の清廉な雰囲気によく似合っており、風にはためくマントに刺繍された国章の重圧も易々と撥ね退けるほどの気合をその若々しい体に秘めているようだ。

「起きろ腐り姫!」

 白銀に光る剣を目の前数センチに突き出され、ぴくり、とアイビスの睫が震えた。ゆっくりと、眼球だけを動かして近くに立つマディスの存在を視認する。何度か瞬きし、その度に大きな瞳に映った王子が明滅した。

「誰だ、僕の根城に入ってくる奴なんて珍しい……ねえリアンシ、お前が見張るまでもなく、そもそも城の住人はここに踏み入る事なんて無い筈なのに」

 彼女は茨の這い回る地面に手を突いてむくりと上半身を起こした。軍服から乾いた土や、小さな団子虫や、乾燥して硬くなった棘がぱらぱらと落ちる。前の肌蹴た軍服の下は胸だけを水着のような服で隠している状態で、滑らかな曲線を描く胴から腰へはその肌の一切が露になっている。女っ気の少ない戦場を駆けずり回っていたフォルトには目の毒で、彼の視線は不自然なほどに泳ぐ。

 耐性があるのかマディスは冷静で、剣の腹でアイビスの顎を持ち上げる。

「立て」

 ああ、触れるのが嫌なのだなと、言葉と刃の威嚇だけで事を進めようとするマディス所作ですぐにフォルトは理解した。そして相対しされるがままの腐り姫の顔をまじまじ見て、その表情にフォルトは怖気が走った。全く感情が伝わってこない、瞳を開けたままで眠っているかのような亡羊とした表情。瞳孔は開ききって、万華鏡のような光彩の輝きを端に反射するのみで、生者の息吹を感じない。

「あまりお養母さんに乱暴はどうかと思うの。それに、ラービーナ・ニウィス家の者なら、風で僕を抱き上げるくらいしなさいなの――あらごめんなさい。それができないから、今僕が戦っているのね」

マディスの目が怒りにかっと見開き剣を持つ手が戦慄くと、次の瞬間剣の柄がアイビスのこめかみを薙ぎ払っていた。鈍い音と共に、酷くゆっくりとアイビスが宙を舞い再び枯れ果てた花壇に倒れ込む。

「なんてことを……」

 フォルトは豹変した王子の気配に驚き、指一つ動かす事ができなかった。そのまま十秒ほど経った頃だろうか、アイビスがゆっくりと立ち上がった。パキパキと小骨を折るような音を立てて、頑丈なブーツのヒールが花壇に散った茎を踏み締める。相変わらず痛みも怒りも伝えてこないアイビスの揺蕩うような表情だが、彼女のこめかみは赤く腫れ、僅かに血が滲んでいる様は十分痛々しかった。

「良い腕ね、今度お父様にぜひお見せするといいわ」

 腕を首元に差し込み、王妃はばさりと光を弾く髪を払った。甘い、甘い匂いがする。熟して腐り落ちる一歩手前の果実が醸し出す、芳醇な香りがする。姫の躯から、特徴的な色の髪から。長い睫が瞬いた微風にさえその匂いが乗っているかのようだ。

「お前……必ず近いうちにこの国から葬り去ってやるからな……」

 悪鬼のような表情で呪いの言葉を吐き、マディスが去っていく。アイビスは溜息をついて頭を振った。継母ではあるが、アビスの方がマディスより四五歳は若いだろう。それなのに、なぜか精神的には年齢が逆転して見えるのが不思議だった。

 そのやり取りを呆然と見ていたフォルトにアビスが気づき、軽く手を振って近づいてくる。顔には縄張りに踏み入られたことによる警戒と、諍いを見られていた不快感が僅かに見て取れる。

「ここは、僕の居場所だよ騎士よ。新参者なの?」

「はい、辺境の没落貴族です。戦地から貴女を守るべく招集されました」

「それはそれは可哀想に――大砲飛び交う戦場の方が、余程幸せだったの」

 土煙に汚れてなお、灰青い冬の空や、灰色の庭園を映しこんで刻一刻と色を変える髪が、無骨な軍服を着ているアイビスを艶やかに装飾している。フォルトの目の前に立った腐り姫は精緻な芸術品のように美しかった。わずかに目の下に滲む隈さえも、彼女を完成させるために神がわざわざ刷いたかのようだ。

「君、お化けとか大丈夫?」

 万華鏡の瞳が、フォルトを映しこんで無限に分裂させる。

 魔性、という言葉がフォルトの脳裏を掠めていった。

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