初夏の夕べ

 自己主張の激しい蝉どもが鎬を削る声の響く境内をいつも通り掃除し終え、照り返しのきつい石畳を避けるように手水場の掃除へ向かう。

「久しぶり!」

 ぎょっとして振り返ると副部長がいた。何故ここでアルバイトをしているのがばれたのか訝しんだが、彼女は深く考えさせる隙を与えてくれなかった。

「ねえ、夏休み暇な時ある?流星群見に行かない?」

「えっ?平日だったらいいですけど」

「と言っても、場所はここの神社なんだけど。この神社の裏側に森があるでしょ?それが街の明かりを遮っていい感じに見えるらしいよ」

「あの、こんもり茂った森のところ確かにありますね」

「ちょっと面白そうじゃない?」

「マムシとか出てこないか宮司さんに聞いておきますね」

 結局、何故ばれたのか聞く機会を逸してしまったが、副部長は私が巫女業をやっていることを吹聴したりはしないとその晩に伝えてくれた。

 お札授与所は、扇風機のモーター音と姦しい蝉の声が反響して鬱陶しいことこの上ない空間になっていた。うだる暑さに宿題の内職もやる気が出ず、ネコが三和土で涼んでいるのを眺めながら頬杖をついて照り葉の煌めきに目を細めて時間をやり過ごしていた。

「アイス、なにか食べたいのある?」

 買い物帰りのTシャツ短パン姿の奥さんの御厚意に甘え、アイスを頂く。黙って食べるのも申し訳ない気持ちになったので、三日後の流星群観察について尋ねることにした。

「あの、拝殿の裏の森って結構いい感じに見えるらしいんですけど」

「え?ああ、そうね。たまに自由研究でちびっことかくるし。でもあそこ、マムシは出ないけど幽霊出るらしいよ」

「神社の敷地内にですか?」

「噂だけどね、女の幽霊が出るんだって。ありきたりよね」

 奥さんはアイスのパッケージを雑に剥きながら話を続ける。

「去年見た人がいたんだって。たからかな?今年は、なんか白い火の玉が光っているのを見たって近所の小学生が言ってたけど、それたぶん旦那の懐中電灯なのよね。見た!って辺りで明かりつけて遅くまでなにか作業してたし。流星群見れると良いね」

「幽霊の正体見たり枯れ尾花ですね」

「ねぇほんと、幽霊の正体見たり宮司さんよね」

弾指の間に尾を引き消滅する光は、夜空を覆う星々よりもはるかに繊細で幻想的な光景に思えた。

「でもさ、あの川辺りは凄い藪蚊が出るから虫よけはしないとね?あと、悪いけど念のため、誰と行くか教えてくれない?」

「弓道部の知り合いです。その人から誘われて」

「ふーん、よく知ってたね。自転車は社務所の裏に留めて良いから」

「はい、六時待ち合わせの八時解散なので御迷惑にならないようにします」

「お願いしときますね?いちおうあの森も鎮守の森ってことでうちの敷地なので」

 最後に一言、冗談めかしてにやっと笑った奥さんは、二人分のアイスの殻を持ってクーラーのきいた部屋へと立ち去って行った。

 それから夏日が続いて、夕立が何度か通り過ぎていった。その日の、雲ひとつない青空に夕日が溶かされていく頃、社務所裏でネコを撫でながら副部長を待っていた。日中は蝉声で騒然としていた森も今はカエルの鳴き声が響いているだけだった。

「ねえ?西瓜食べていかない?」

 ネコの腹を揉みしだくのに夢中だったが、差し出された食欲をそそるみずみずしい西瓜の一切れに、思わず手を伸ばした。ネコは私を見上げ、滴る甘い汁の匂いを嗅いだ。種が多い真ん中の果肉に差しかかる頃、副部長が到着した。

「遅くなってごめん、あっ西瓜食べてる!」

「こんばんは、あなたも良かったら食べていかない?」

「えーっ?良いんですか?じゃあお言葉に甘えていただきます」

 奥さんが無造作に西瓜を振る舞い、それを無邪気に食べ始める副部長を見て、ネコのように人懐っこいひとだなあと私も西瓜を齧りながら思った。

 社務所を後にして、懐中電灯を手に人跡の僅かに残る草むらを進む。かさっとゆれた笹藪にライトを向けると、双眸がライトで光る鯖虎のネコがにゃあと鳴いた。

「かえるでも食べに来たのかなあ」

 そうだね、と言ったがネコがゲテモノを食べているのを見たことがなかったので内心不気味に思った。幽霊話が頭をよぎる。

 ネコはつかず離れず小川まで同行し、川の流れに口を浸し始めた。

「まだ、流れないのかなあ?」

「藪蚊もいないからもう少し待っていようか」

 水辺に転がった丸い岩に腰かけ懐中電灯を消す。

「ねえ、見て、空、すごいよ」

 夜空には満天の星が密集していた。

「すごい、オリオン星雲にスバル星団も見える。言ってた通り天体観測の穴場ですね」

足にとまった蚊を打ち殺しながら返事をする。

「今度望遠鏡担いで天体観測しにこようかなあ」

「望遠鏡をお持ちなんですか?」

「彼氏がね。でもさ、こんなひっそりとした夜中に二人で天体観測とかちょっと不気味かな?」

 ロマンチックでいいですねとやんわり返して水底に目を向けた。見上げっぱなしで痛くなった首の筋肉を休めるついでに水草が水面に揺らぐのを眺めていた。

「あぁっ!すごい!すごいよ!」

 それは前触れもなく始まった。音もなく光もない宵闇に尾を引く光が現れた。軌跡を残しながら無機の命が潰える様を、息をするのも忘れて魅入った。

 ネコがにゃあと鳴いた、それを合図に蛙が鳴きだす。世界に音が戻ってきた。

「すごいね」

「うん」

「もう少しいようか」

「うん」

 再び一夜限りの狂乱の空へと目を向け、気まぐれに星が流れるのを幾度か堪能したころ、どちらからともなく声をかけ元来た藪の道へ足を向けた。

「ねぇ」

 明らかに副部長の声ではない囁きが耳を掠めた。そもそもそれは人間の声だとは思えなかった。ざらついた低音と掠れた高音の声がもう一度囁いた直後に、内臓が氷水を浴びたように冷えていくのを感じた。

それでも脳味噌が、立ち止まること、振り返ることを固く禁じていたので社務所に何とかたどり着くことができた。その後は別段変った風もない副部長に別れを告げ、帰りにコンビニでお茶を買った。

 一息ついて、自転車にまたがると、黒猫が目の前を横切った。ぞくりと背中に冷たいものが這う感覚に胆をつぶしたが、その日は無事床に着いた。

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