昔のことをネコは語った

 お盆がやってくる前に綺麗にしておかなきゃねと奥さんがジャージで手水場の裏で草むしりをしていた。

「あなたにはいつも通り境内のお掃除をやってもらっていいかしら。あ、旦那が通りかかったら私が手水場にいることを言っておいてくれる?」

二つ返事を返して、竹ほうきを手に境内へ向かう。たしかに石畳の隙間から雑草がぴょこぴょこ生えてきていて、奥さんの言うようにそろそろ草むしりが必要なのかもしれないと思った。

「こんにちは。おかげさまで、どうも」

 除草剤をかければ楽なのにとかぼんやり考えていたら後ろから声をかけられた。参拝者だろうか、でもお陰様で?氏子さんかな?とよくわからないまま振り返れば、品の良いお婆さんがにこやかに会釈した。つられて会釈し、こんに「暑いなか、御苦労ねえ」

 麻の涼しげなブラウスにしゃりっとした生地のズボン。パンプス風の歩きやすさと履きやすさを兼ね備えた高齢者用の靴。一体どちら様だろうか。

にゃぁ

 境内の端で日向ぼっこをしていたネコが甘えた声をだしてお婆さんの元へ駆け寄ってきた。

「あらぁ、あなたお久しぶりね。元気にしていた?」

 ごろごろと喉を鳴らしながらお婆さんの足元に肢体を優美にくねらせてじゃれつく。お婆さんの正体を訝しみながらも、ネコの甘え方が私に対するそれと違いすぎて少し嫉妬を覚えた。

「あっ、義母さん、ここは暑いから社務所で休んでいて下さい」

 雑草が満載のてみを抱えながら、奥さんが上品なお婆さんに声をかけた。

「え?あの、宮司さんの」

「はい。お世話になっております」

「あっ、その、こちらこそお世話になっておりまして、その」

 お婆さんの正体が分かって受けこたえがしどろもどろになる。私の前にネコを可愛がっていた人。だから、ネコの態度が豹変したのか。ネコは、眼前のお婆さんのことをまだ覚えているようで足元から離れようとしない。

「境内の掃除は、もういいから義母さんと一緒に社務所に戻っててくれない?」

「あっ、その、まだでも」

「宮司が除草剤撒くついでに掃除もやっておくから気にしないで」

「そうなの?じゃあ、先に行っておくわね」

 私に軽く会釈して、お婆さんはネコを引き連れて社務所へ向かった。

 社務所に入ると玄関の三和土にネコが寝そべっていた。

「こっちへいらっしゃい。暑かったでしょう?アイス食べる?ネコちゃんには鰹節でいいかしらね」

「あっ、その、ネコのおやつありますよ」

 鰹節は腎臓に良くないとかでネコには与えていなかった。言葉がとっさに口をついて出たことに少し後悔した。

「まぁ、あなた良いものをもらっているのね。よかったわね」

 お婆さんは差し出したかりかりをにこやかに受け取って、一粒ずつネコに与え始めた。皺皺の手に置かれたおやつを、ネコは規則正しくかりかり、かりかりと音を立てながら一心に食べた。お婆さんはいい子だねぇ、いい子だねえと背を丸くして食べるネコを愛おしそうに撫でていた。

 お札授与所の番をサボり昼食の時間まで、私はお婆さんと二人でひっそりと玄関の隅にいる獣を観察していた。

 奥さんにそろそろお昼にしようと言われて、近所の定食やさんからうどんとちゃんぽんを出前で取った。空の岡持ちを持って去っていく定食やさんにお婆さんは慇懃にお礼を述べていた。

 奥さんと、お婆さんと三人で社務所奥にあるテーブルで昼食を取った。ネコは満足そうに三和土で横になっていた。

「ここのおうどんを食べるのは本当に久しぶりねぇ」

 カツオの出汁が効いたスープに口をつけ、どんぶりに浮かぶとろろこんぶをくるりと箸でかき混ぜる。

「義母さんも、お元気そうで」ちはと挨拶を返した。

 箸を置いて、奥さんはお婆さんのコップに麦茶を注ぐ。お婆さんは丁寧な仕草でお礼を返した。

「ええ、久しぶりに帰ってきて、神社も変わっていないしネコちゃんも元気そうでよかったわ」

 引き戸の開く音がして、外出していた宮司さんが帰ってきた。

「ああ、戻るの遅くなってごめん。ホームセンターで除草剤がいっぱいあってさ」

慌ただしくテーブルに着いた宮司さんはお婆さんの隣に腰かけ、そそくさとちゃんぽんを食べ始める。

「涼しくなってから除草剤撒くけど、おかあさんの送迎頼める?」

「いいよ。じゃあ、義母さん何時くらいに戻りましょうか?」

 どんぶりの底をれんげでかき回しながらお婆さんはゆったりと口を開いた。

「そうねぇ、六時くらいに向こうに着けばいいから」

「じゃあ、五時ごろにここを出ましょうね」

 はい、よろしくねとおじぎして、少しスープの残ったどんぶりを奥さんに渡す。奥さんが空になったどんぶりを二つ重ねて入口へ持って行った。

 昼ご飯を食べ終えた後、ずっとお札授与所にいてぼんやりしていた。その日の業務が終わり、着替えてネコを撫でようと外に出ると、お婆さんが石段のところでネコを抱いていた。ネコは心地よさそうにお婆さんの枯れ枝のような腕に抱かれて大人しくしていた。

「あら、もうお帰り?お疲れ様」

 去り際の挨拶としてぺこりと頭を下げたら、こちらへいらっしゃいと招かれる。

「このネコちゃんね、三、四年前に仔猫の時に迷い込んで、それから私がなんとなくお世話をしていたの・・・・・今は、あなたがこの仔を可愛がっているのかしらね?」

「はぁ、その、猫が好きでして」

「そうなの?私も猫が好きよ。大人しくてやわらかくて」

「名前、とかつけたのですか?」

 おそるおそる尋ねてみた。この人がネコの元の飼い主であると知った時から気になっていたこと。

「いいえ、このネコにとって名前がそんなに大事なものでない気がして付けていないの。私が言う猫、ってこの神社にいる猫のことだもの。他と区別するための名前なんていらないわ。私のネコちゃんは、この仔一匹だけ。だから名前も要らないの」

「そう、なのですね」

「あなたは?ほかにも可愛がっている生き物がいるのかしら?」

 少しずつ温度を失っていく空気。木々は色彩を鈍くし木組みの本殿には静謐が満ちている。日は陰り草木に落ちる影が伸び始める。昼間とは違うにおいを纏った風が吹く。

「いいえ、私にとっても、猫といえばこのネコくらしか知り合いがいなくて」

 夏が、赤い色をした夏の気配がそこにはあった。遠方に霞む山々は湧きたつ白雲を背負い、空は遥かに蒼さを増すばかり。

「そう、だからあなたもこの仔のことを指す時はネコ、としか言わないのね」

 ロマンスグレーの短い髪が風に揺れる。本殿から伸びる影がネコとお婆さんを包む。

「何故、施設に?」

 この口から出た言葉は私にとってもお婆さんにとっても予想外だった。お婆さんのネコを撫でる手が一瞬止まる。蝉がどこかで啼きはじめた。

「そうねえ、まだ自分に余裕のあるうちに、息子夫婦に迷惑をかけないような形で生活しようと思ったからかしら」

「そう、なのですか」

「ええ。なにもかも手遅れになってしまってからでは、すべてが壊れちゃう気がしてね。だから、たまにこうして我が儘を言ってもあの二人は聞いてくれるの」

いたずらっぽく笑うお婆さんの目元には深々と笑い皺が刻まれた。

「お盆前に一度帰ってきて、神社を見られてよかったわ。こんなに可愛らしい巫女さんが私の後任になってくれているし、ネコちゃんも可愛がってもらえているし」

照れくさくなって、いやそんなことはあのそのともごもごしてしまい、お婆さんの笑い声が聞こえた。

「まあ、私が先かネコが先かっていう心配もなさそうだし、よかったわ」

「いや、そんなことないですよ、お元気そうですし」

「まあ、でも私こう見えて今年で九十二歳なのよ」

「ええっ!!?」

 思わず大きな声をあげてしまい、ネコがこちらを向く。

「女の子ばかり三人も産んじゃって、最後に授かったのが今の息子なの。随分歳をとってからの子供だからあの子にはいろいろ大変な思いをさせたと思うのよ」

 だから一層、私はあの子に心配をかけたくなくてねと言うと、面を落としてお婆さんはネコの背中を撫で始めた。ネコはうっとりとした表情でじっとしている。

「ほんとうに、今日はあなたとおしゃべりできてよかったわ。この仔にまた会えて、あなたに会えた。それだけで今日はとてもいい一日だったわ」

 遠くで義母さん、と呼ぶ声がして、あらあら、もうそんな時間かしらとお婆さんは腰を上げた。ネコがにゃぁと鳴いて膝から降りる。

「今、四時ちょっとすぎですけど」

「まぁ、もうそんな時間なの?帰る途中に買い物をしようと思っていたの。あらあら、大変ね。じゃあ、これで。あなたも、健勝になさってくださいね。それとネコを可愛がってあげてね」

「はい、あの、お婆さんもお元気で。さ、さようなら」

「はい、左様なら」

 薫風駆け抜け、天いよいよ高く。雀は遊び、猫はまどろむ。日の下に出て矍鑠と歩くお婆さんの小さな背中を見守りながら、私は彼女に小さく会釈する。にゃあとネコが鳴いて、私の足首にそのとろりとした毛皮を押しつけてきた。

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