困ったときの神頼み
湿気が鬱陶しくなる季節、手水場のわきのアジサイが色づくのを眺めながら明日の練習試合のことについてぼんやりと考えていた。今にも雨粒が落ちて来そうなほど分厚い雲を見上げながら、新発売の猫缶を頬張るネコの咀嚼音を聞いていた。
「雨、降らないといいけどにゃ」
耳の後ろを撫でてあげると動物はリラックスするらしい。ネコにもその方法は有効で、食事を邪魔されたと感じることなくマグロとささみの香り豊かな猫缶に夢中だった。
天気予報では深夜から雨が降り出すと言っていたが、果たして業務を終えて、夕方六時からの練習に合わせて弓道場へ到着するまでは雨が降り出すことはなかった。
支度して神棚の前で、このごろ大分様になったと言われてきた二礼二拍手一礼を終え、的前に立った。私は街の弓道連盟の一員ではあるが、現在、弓の握り皮が湿って思うような手の内の力加減が分からず調子を落としていた。五段範士の段位を持つ師匠からは来月の審査会までに一本でも中てるよう言われていたし、その為に目をかけた指導を行ってくれていた。
射場に入る前に手の内を確認してもらう。大前にたち鏡で自分の射を確認する。上半身と両腕でめいっぱい引き絞り、離れの瞬間を待つ。カンと音がして安土に矢が刺さる。乙矢も同様に外れる。
「押しがやっぱり足らないかな?巻き藁で練習しようか」
明日は審査会前最後の試合ということもあり、皆よく的中していた。ただ、私だけは結局どこが悪いのか分からずにひたすら巻き藁に向かって矢を射続けていた。
「うーん、こうなったら神頼みするしかなくない?巫女さんやっているんでしょ?」
「おっ!?女子高生巫女さん?やるねぇ」
「いや、そんな、私なんて遊ぶ金欲しさにやっているだけですよ」
先輩たちが調子よく軽いノリで囃したてたので、慌てて冗談めかした返事をする。
「そういえば、あの神社って勝負事の神さんが祀られているから、まあ神頼みしてもいいんじゃない?」
師匠まで可々として放言するので、へらへらと愛想笑いをうかべたままその日の練習を終えた。最後まで雨は降らなかったが、髪が湿気をはらんで少し不快だった。
翌日は射場で言われた通りアルバイト先の神社へお参りをして、弓道場へ向かった。こんなことで調子が上向くなら誰だってお参りに来るだろうなと、掛けをつけながら思った。
隣町の高校の弓道部との練習試合は成績が伯仲し、私の射もかろうじて一本中っていた。お昼ご飯を食べながら、次の大将戦で決着がつかなかったら近中てになるねと心配していたが、残念なことに近中てになってしまった。
チーム内では勝敗の行方より、私が本当に神社へお参りに行ったことの方が面白かったらしく、御利益があるのか検証する為に射手を務めることになった。
「近中て苦手なんですけど」
「今日は一本中てたし負けても文句言わないから」
背中を押され的前に立つ。先にむこうの大将が枠ギリギリに的中させていた。それより中心に中れば勝ちとなる。
気息を整え弓を引く。大三、引き分け、離れ。どんよりした重たい空気を切り裂いて、放物線を描いて飛翔する私の矢は正鵠に突き刺さった。
残心を終え、弓を戻し的前から退出するまでの間に、胸にすとんと、これでいいのだという思いが湧いてきて、浮つくでもなく沈み込むでもなく、その中間のような精神状態で歩を進めていた。
掛けを外しながら、正鵠に中てたのはまぐれだろうなとぼんやり考えていた。昨日の調子を思い出せば偶然以外の理由が見当たらない。帰り際に師匠が、最後の射は迷いがなくて良かった上出来だったと褒めてくれたので、一層自分の状態が分からなくなった。
わだかまりを抱えながら勝利の余韻に浸るわけでもなく、帰り道に神社へ寄った。明日のゴミ出しに備え、戸外のゴミ箱に向かう宮司さんとすれ違う。
「試合どうだった?」
「お陰様で勝ちました。それでちょっとお礼参りに」
「お参りして試合に出たの!?そうなんだ、勝って良かったね」
朗らかに答え、ざりざりと砂利を踏みわけ去って行った宮司さんを背に拝殿へ向かう。朝と同じように本殿にお参りをして、二礼二拍手一礼の後に手を合わせ今日の御礼を述べる。自転車に跨って帰ろうとしていたところを宮司さんに呼び止められた。
「梅雨開け、明後日くらいになるんだって」
明日から晴れるから、これで洗濯ものが干せるなあとぼやきながら、気をつけて帰ってねと言われた。
背負った矢筒の中から、軽やかなジェラルミンの触れ合う音が聞こえる。近中ての真っ最中のあの空間で、特殊加工されたアルミニウムは確かに私の中に潜む得体のしれないエネルギーを受け取っていた。その残滓が私の背中で跳ねるのを確かめながら、もしかしたら正鵠を射たことは必然だった気がしてきた。
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