第9話 寅次郎
お風呂から出た僕がリビングに入ると、ソファーの向こう側で頭の天辺がちょこんと見え隠れしているのに気付いた。
考えるまでもなく深音の頭なのだろうけど、ソファーとテーブルの間に座って一体何をしているのだろうか?
気になったので声を掛けようとすると、深音は僕に向かって人差し指を口に当てながら静かにするようにとジェスチャーして見せ、そのままソファーに向かって視線を落とした。
僕がソファーを覗き込むと、先程の虎縞模様の猫が気持ち良さそうに眠りこけている最中だった。
「ん。検査…大丈夫。」
猫の首輪には携帯型のコンピューターが取り付けられていて、深音はそれを操作して猫の状態をチェックしていたようだ。
「その機械は僕と同じ物?」
「ん。是…同じ。」
「やっぱり動物も僕と同じで、時間が動きだしたら一気に反動が来るんだ。」
「ん。是…同じ。」
「それって、この星にある物全てって事?」
「ん。是…全て。」
「そうなんだ。」
いまいち想像できないのだけど、仮に星が弾け飛ぶ事こそが始まりだとするのなら、今眠りに付いているこの時間は清算の準備なのかも知れない。
僕は深音の存在によって対応する事ができるけど、他の破片に生きる人々はそんな事情を知るはずも無く、その星が活動を開始した時にそれまでの反動が一気に押し寄せ消えてしまうのではないだろうか?
思い浮かべるだけで寒気が全身を駆け抜ける感覚に見舞われるけれど、この星が弾け飛ぶと言う現象を汚染されてしまった環境のリセットだと考えれば、あながち非現実的な推測でもないと思う。
地球だって生きている。
生きているのであれば、種の保存は本能的な行動だと思う。
弾け飛ぶ事が寿命を全うすると言うのであれば、次の世代に出来るだけ優秀な遺伝子を残そうとするだろう。
地球にとって、地上に生きる者は言わば寄生虫だ。
子孫にバトンタッチする際には、是非とも駆除したいと思うのではないだろうか?
「…」
そう考えると僕のような存在は許されるのだろうか?
僕にとっては珍しくシリアスな思考を巡らせていたのだが、深音の一言が全てを掻き消すのであった。
「ん。寅次郎。」
「寅次郎?」
「ん。寅次郎。」
深音は相変わらずの無表情な声で、気持ち良さそうに眠っている猫をこちょこちょと撫でながら囁く。
「何故に寅次郎?」
「ん。虎縞模様…オス…虎次郎。」
「うーん…」
知れば知るほど、深音に対して僕が抱いていたイメージが崩れていく気がする。
「ん。寅次郎…だめ?」
「いや、良いと思うよ。」
寅次郎も名前を嫌がっていないのか、深音が囁くと尻尾を軽く振って応えている。
僕としては、正直猫の名前は何でも良かったのだけど、よりによって何で寅次郎なんだろう?
浴室での事と言い、もしかして深音は天然ちゃんなのかな?
僕は内心そう思いながらも、口元が緩んでいる事に気付いた。
良く考えてみれば、妹以外の異性とこれだけ長い時間一緒に過ごしたのは初めてだ。
今日出合ったばかりだと言うのに、もう何年も同じ時間を過ごしてきたと錯覚さえしてしまう。
これは深音の人柄がそうさせているのだろうか?
それとも…
僕は人生で初めて感じたかも知れない感情を押さえるのに必死になった。
何故押さえなければいけないのかは分からないけど、必死に押さえなければいけなかった。
「ん。真人?」
いつの間にか真剣な面持ちとなっていたのか、深音が僕の顔を覗き込んで来た。
「うん。別に、なんでもないよ。」
きっと僕は素っ気無い態度だったと思う。
「ん。」
深音も特に気にする必要は無いと感じたのか、深く追求する事は無かった。
「ん。見る。」
深音が付けている時計型のコンピューターを操作すると、3Dホログラムのような映像が浮かび上がる。
「ん。計画。」
浮かび上がった映像には、題名に真人と書かれたタイムスケジュールが掲載されていた。
「これは?」
「ん。真人…実行。」
内容を読んでみると、朝7時に起床、9時まで畑仕事、10時まで休憩、12時まで畑仕事、13時まで食事休憩…
「何これ?畑仕事ばかりじゃない?」
丸一日畑仕事のスケジュールだった。
「ん。準備…必要。」
「食料なら地下の倉庫に大量にあったけど?」
「ん。栄養…大切。鍛える…大切。」
要するに保存食では栄養が偏るから野菜を栽培するって事なのだろう。
ついでに農作業と言う重労働を行う事で、筋力も付き運動不足も解消され一石三鳥で超お得なのだそうだ。
「うーん。仕方ないか。」
僕は少々納得いかない気分ではあったものの、深音の言う事はもっともだし、今後の事を考えると不慮の事態に備えるのは必要だと思う。
それに別荘の外は大地の緑と空の青の二色しかない。
野菜を栽培すれば花も咲くだろうし、花が咲けば蜂が蜜を求めてやって来るかも知れない。
今は何処かに身を隠している生き物だって姿を現すかも知れない。
最悪、既に僕達以外何も居なくなってたとしても、この殺風景な景色に彩りを添える事はできると思う。
こうして、僕のリアル箱庭ゲームは幕を開けたのだった。
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