第8話 お風呂場の青春
僕が脱衣所に入ると既に湯船にはお湯が張ってあるのか、浴室へ続くドアの磨りガラスが湯気で曇っていた。
服を脱ぎ全裸になった僕が扉を開けると、溢れ出る湯気に紛れて檜の香りがほんのりと吹き抜けて行く。
「深音が準備してくれたのかな?」
木材をメインにした4畳ほどの浴室は隅々まで手入れが行き届いていて、檜の温もりと、しっとりとした肌触りが憩いの空間を創り出している。
もし許されるのなら、このままお気に入りの本でも持ち込んで湯船に浸かりながら読書と洒落込みたい気分だ。
しかし生憎と僕が所蔵していた書物は全て実家の本棚に並べてあるので、深音の話を信じるのなら、今頃は無限に広がる虚無の世界を地球の破片と一緒に漂っていると思う。
時間が止まっている所為で疲れは一切感じないのだけど、シャワーを浴びる瞬間の爽快感は昨日までと何ら変わる事は無かった。
僕は汗を流し終え湯船に浸かろうと片足を入れた時、今更ながら右腕にフィットしている腕時計型のコンピューターの存在に気付く。
「この時計、防水加工はどの位までしてあるのかな?」
流石にこれだけの機能を持ち合わせていて野外での使用も考慮しているのだから、日常的な生活防水は施されていると思うけど、防水加工と言ってもピンキリ、このまま湯船の中に入れてしまっても良いのだろうか?
明らかに数世紀先の技術水準で作られているこの時計型のコンピューターが、その程度で故障するとは思えないのだけど、壊してからだと深音が怒るかも知れないので、濡れぬ先の傘と言うことわざに習って確認する事にした。
「深音、聞こえる?」
「ん。」
僕の呼び出しにいつも通りのテンションで深音の声が聞こえた。
「ちょっと確認したい事がるんだけど良い?」
「ん。了解…待ってて。」
「うん。分かった。」
先程、深音は何かのチェックが必要と言い残して去って行った。
もしかしたら今もその作業中なのかも知れない。
僕は邪魔をする気も無ければ急いでいる訳でもなかったので、腕時計がお湯に浸からないように注意しながら寛ぐ事にしたのだった。
待つこと数分、突然浴室のドアが豪快な音を響かせながら開いた。
「ん。お待たせ。」
僕が驚いて反射的に扉へ視線を移すと、そこにはフリルの付いた可愛いらしいビキニ姿に腰からパレオを巻いた深音が居た。
「えっ、どうしたの?」
僕は反射的に股間部分を両手で隠しながら尋ねる。
「ん。真人…呼んだ。」
「えっ、僕が呼んだ?」
「ん。」
「え-っと、呼んだ記憶は無いのだけど?」
腕時計の防水能力について聞こうとは思ったけど、来て欲しいと頼んだつもりは無かった。
「ん。お風呂…呼ぶ…背中…流す。」
「えーっと…」
僕は返す言葉が見つからず詰まってしまった。
深音はきっと僕が背中を流して欲しいと呼んだのだと勘違いしたのだろう。
クールでしっかり者のイメージが定着しかけていただけに新鮮で微笑ましかった。
「ん。背中…流す?」
「うん。いや、遠慮しとく。」
「ん。そう。」
お互い気まずいのか、檜の香る湯気に当てられているのにも関わらず、暫くの間凍り付くのだった。
雰囲気に耐えられなくなった僕は、話題を変えるべくどうしようもない質問をする。
「でも、どうして水着なの?」
「ん。和装…濡れる…嫌。」
「それで水着なのか。似合ってるよ。」
「ん。ありがと。」
やぱりと言うか当然と言うか、ここから会話が発展する事は無かった。
再び沈黙の時間に突入する。
僕は次の話題を振る勇気もなく、水着姿の深音を見ることも出来ずに、もどかしい時間を耐えるしかなかった。
「ん。背中流す…不要…行くね。」
顔を赤らめる僕とは対照的に、透き通るような白い頬のままの深音は、特に用事がないと判断したのか立ち去ろうとした。
「えっ、ちょっと待って。」
「ん。」
「いや、やっぱり何でも無いです。」
「ん。」
僕は咄嗟に呼び止めようとしたのだけど、特に何かできる勇気など持ち合わせているわけでもなく、悲しいけれど言葉をねじ伏せる。
「ん。」
深音は、相槌を残すと未練の欠片も見せることなく立ち去るのだった。
彼女居ない暦17年の僕にとって、用事もないのに女性を引き止めると言うミッションは余りにもハードルが高すぎたと思い知らされるのだった。
暫くの間深音が立ち去ったドアの付近を見ていた僕は、何事も無かったように湯船に浸かり直すと、ぽっかり空いた穴を埋めるように目を閉じ深く息を吐いた。
「背中流してもらえば良かったかな?」
背中を流してもらった時の事を想像しながら、吐く息が後悔混じりのため息に変わる。
未練を断ち切る為に軽く両頬を2回叩き、そのままお湯の中に肩まで浸かった。
目を開けるとお湯の中で揺らめく腕時計に気付く。
「あっ、聞きそびれた。」
既にどっぷり浸かっているので、聞くも聞かないもないのだけど、見た感じ問題なさそうだった。
試しに画面をタップしてみると、3Dホログラムのような映像が浮かび上がる。
「うん。大丈夫みたい。」
色々と複雑な気分ではあったのだけど、ちゃっかりと深音の水着姿は目に焼き付けた僕であった。
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