第11話 名前

 薄暗い空を仰ぐと一番星が見えた。夜、というにはまだ早いが、そろそろ夕暮れ時も終わろうとしている。ぞろぞろ歩いている仕事帰りのサラリーマンやOL達に混じって、家路につく。

 終業後すぐにオフィスを出て来た。少々暗くなっても、都会だといつまでも明るい。これは都心に出て来て良かったことの一つだ。けれど以前わたしが沖田さんにそう言うと、彼は「星が見えない」と少し寂しそうにしていた。

 とは言え、沖田さんは「その分道が明るい」とも喜んでもいた。今どき斬り合いにはまずならないが、彼には血生臭い経験もあったのだろう。わたしが夜一人で歩いている事を知った時の沖田さんの表情は、卒倒しそうなほどの驚きと心配で溢れていた。

 そんな事を思い出しながら歩いていると携帯が鳴った。すぐにポケットから取り出すと、画面には「お母さん」と出ている。わたしはすぐに受話ボタンを押して応答した。


「もしもし……お母さん? 」

「あ、みのり? 元気? 」


 ここのところ、まともに電話もしていなかった事を思い出した。本当に、いろいろと目まぐるしかった。

 信号が赤に変わった。立ち止まると、目の前を車が数台通りすぎて行く。


「うん。今帰りなの」

「気を付けなさいよ。あの男また来たんでしょ? いくら都会でもね、ううん、都会だからこそ――」


 しばらく母の説教を聞くことになった。木島のことも、また心配させる事になってしまった。もう引っ越したけれど、この世に絶対などない。故に母の心配も尽きない。

 ちなみに、沖田さんの事は母といえどもまだ秘密にしている。初めは猫だった筈が、今や人になってしまった。端から見れば同棲と変わらない。大騒ぎされるのが関の山だ。


 青信号に変わった。わたしはまた歩き始める。横断歩道を渡ると街灯が増えて、さらに明るくなった。


「それにしても、面白いものねえ。おばあちゃんはその辺りの出身なのよ」

「そうなの? うちからはちょっと遠いわよね」


 母の話では、父はいわゆる江戸っ子だ。今でも親戚は都心にずっと住んでいる。

 両親は父の仕事の都合で田舎へ引っ越したが、わたしは逆に就職のために都心へ出て来た。だからうちの場合、「田舎のおばあちゃんの家」ではなく「都会のおばあちゃんの家」だった。


「お父さんの代で離れたのに、あなたの代でまた戻って行くなんてねえ。なんだか不思議」

「そう? 就職の事を考えたらそんなものでしょ? 」


 それはそうだけど、と言いながら、母は勝手に感慨に浸っている。


「そういえば、ひいひいおばあちゃんも『みのり』さんだったのよね」

「へえ、そうなの。偶然ね」

「それがね、偶然じゃないのよ」


 わたしが「え? 」と思わずこぼすと、母は父方の祖母の話を始めた。


「みのりおばあちゃんはね、おばあちゃんの育ての親だったらしいの。それでおばあちゃんは、みのりおばあちゃんを凄く尊敬してたんだって」


 祖母は戦争のために、幼くして両親を亡くしていた。みのりおばあちゃんが祖母を引き取って大事に育ててくれたと、生前の祖母はいつも語っていたそうだ。けれどその祖母はわたしが幼い頃に亡くなっているので、わたしはよく覚えていない。


「それでおばあちゃんは、子どもを産んだら『みのり』と名付けたかったんだって。みのりおばあちゃんは、もうその頃には亡くなっていたし。でも……」

「ああ……伯父さんばかりだもんね」


 父の兄弟を思い出す。父は三人兄弟の末っ子だ。そして、名前は――


「そう。女の子を諦めたおばあちゃんが、お父さんにみのると名付けたのよ」


 わたしは祖母の執念に驚いた。そんなに拘っていたのに、残念ながら性別は選べない。難しいものだ。


「それでねえ、みのりが……あなたが生まれた時に、お父さんが自分と似た名前をつけたのよ。そしたらね、おばあちゃんがものすごく喜んじゃって。理由を聞いたら、ずっと『みのり』と名付けたかったんだ、って」

「ようやく叶った名前だったんだ……」


 一生分の親孝行した気分になったわ、と母は電話の向こうでそれは嬉しそうに笑った。わたしも何だか暖かい気持ちになった。

 帰ったら沖田さんに話そう。彼ならきっと同じような気持ちで聞いてくれるだろうな、とわたしは勝手に、でもなぜか確信を持って期待した。


 沖田さんは最近ますます家事が板についてきた。初めこそ葛藤があったようだが、今では本人も楽しんでいる節がある。沖田さんは特に食べることが好きなようで、家事の中でも、彼の料理の腕はメキメキと上達している。

 帰ったら晩ごはんができている。これは至上の幸せだと、独り暮らしだった時に身に沁みた。それの幸せを享受するためにも、電話を切ったわたしはいそいそと歩みを早めた。

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