第12話 再び
仕事を終えたわたしは近所まで帰って来ていた。途中で沖田さんに会い、家まで一緒に歩く。
沖田さんは手に近くのスーパーマーケットのビニール袋を下げていた。袋の口からネギがにゅっと飛び出ている。「今日の夕食は何にしようか」などと話しながら歩いていた。
すると、沖田さんが急に厳しい顔つきに変わり、声を潜めた。
「みのりさん。振り向いては行けませんよ。あの男がいます。先日、玄関先で暴れた男です」
「うそ……どうしよう」
「どうやらつけられていたようです。その角に入って、少し走りましょう」
沖田さんは目配せして、前方の細い路地を示した。
「わかったわ」
わたしは小さく頷き、カバンを握りなおす。しかし、実行するよりも先に木島に後ろから声をかけられてしまった。作戦は失敗だ。
そういえば、高校時代にも似たような事があった。
下校すると、何故かわたしよりも先に木島がわたしの家の玄関の前にいた事があった。その時は恐ろしさから玄関に近づけず途方に暮れ、裏へ回り塀を登り、ようやく裏口から入って母に泣きついた。
あれから数年経つが、またつけ回されることになるとはとんだ災難だ。
まだ少し距離があるが、木島は沖田さんを思い切り睨みつけている。また、沖田さんも鋭い目で木島を見据えていた。木島は沖田さんの存在に、腹を立てているようだ。
「おい、みのり。どういうことだ。この男はなんだよ! 俺からは逃げるくせに! 」
沖田さんはわたしを庇うように一歩前へ出た。泰然と構える様は凛としている。
「そりゃあ、逃げたくもなるでしょう。こんなに追い回されているんですから」
「うるさい! おまえには関係ない! 」
「ありますよ。みのりさんは怯えています。放ってはおけません」
涼しい顔でやり取りする沖田さんと、怒りでますます顔を紅潮させる木島は対照的だった。
木島は掴みかからんばかりの勢いで、こちらに向かってくる。沖田さんはわたしに買い物袋を手渡すと、木島の正面に立った。すると、急に周りの空気が一気に冷えるような感覚を覚えた。
沖田さんは、いつもの笑顔からは想像出来ないほどの怖い顔をしている。眉はつり上がり、眼孔は鋭く氷のように冷たい。全身から放たれるオーラがとても威圧的で、痛みすら感じそうなほどだ。
わたしは剣のことなど解らない。けれど、もう足がすくんでいる。それもわたしに向けられたものではないのに、だ。殺気の漂うびりびりとした空気が、周囲の緊張感をより高めた。
一方、木島も沖田さんの殺気にあてられたようだ。進むのを躊躇し始めた。もたついているうちに、逆に沖田さんが木島ににじりより、一歩一歩追い詰める。
沖田さんは、視線だけで男を射殺してしまいそうなくらいの迫力と威圧感に満ちていた。まるで、沖田さんそのものが鋭利な刃物のようだ。
幕末の京で沖田さんと対峙した人は皆、これを味わっていたのだろうか。刀は持っていないのに、十分斬り殺せそうなほどの気迫に息が詰まりそうだ。
木島はついに腰を抜かし、へなへなとその場に座り込む。
「もう二度と、みのりさんに近づかないとこの場で誓え。さもなくば――」
沖田さんは言葉を途中で切った。突然言葉を奪われたかのような、歯切れの悪い言い方だった。本人もどこか不本意そうで、表情は変わらないものの、何か違和感を覚える。
けれど、木島を脅すには十分だった。その顔は気の毒なほど青ざめ、今にも泡を拭いて倒れてしまいそうだ。
木島は沖田さんの言葉に一つ頷き、それを確認した沖田さんはくるりと振り返る。わたしの元に戻るその表情は、いつものにこやかな笑顔だった。あまりにも爽やかで、つい先ほど大の男を殆ど目だけで圧倒したなんて想像ができない。
「みのりさん。帰りましょう。もう大丈夫です」
「う、うん、ありがとう。あの、大丈夫かな、あの人」
わたしは並んで歩く沖田さんの顔をを見上げた。沖田さんも視線を一度わたしに向ける。
「ええ。もうあなたに近づかないと約束させました。あとは一人でなんとかするでしょう」
2人してちらりと木島を振り返ると、彼は未だ座り込んでいる。
「ありがとう。沖田さん」
「いえ、私はああいう男は好きません。あなたに何かあってはいけませんし」
沖田さんはにっこり笑った。
今度こそ帰ろうといくらか歩いた時、沖田さんが急に後ろを振り返った。また一気に空気が冷える。木島が真っ直ぐ沖田さんに向かって来ていた。
木島は拳を振り上げて沖田さんに襲いかかる。沖田さんは軽くかわし、木島の攻撃をひょいひょいと避けていく。木島は拳を振り回すが、一つも当てることができない。
「往生際の悪い。いい加減にして下さい」
「お前こそ、みのりから、離れろ」
木島はだんだん息が切れてきた。ゼエゼエしながら腕を振り回しているが、沖田さんには全く歯が立たない。振り子のように身体が腕に降られているだけで、一人相撲も良いところだ。
沖田さんはもう木島を相手にする気はないらしい。攻撃を軽くあしらいながら、分かりやすく嫌そうな顔をしている。早く終わらせたいと言わんばかりだ。
「もう近づくなと言ったでしょう」
「黙れ! 」
木島は沖田さんには適わないと思ったか、今度はわたしに向かって来た。けれど、わたしはそれを認識した途端、動けなくなった。逃げたいのに、身体が動かない。
ぎゅっと目をつぶり、身構えた。しかし、鈍い音が聞こえただけで、何も起こらない。わたしは恐る恐る目を開けた。
「だから止めろと言ったんです。
木島は沖田さんに胸ぐらを掴まれ、近くの塀に叩きつけられていた。木島はそのままの格好でずるずると塀を伝いながら座り込み、茫然としている。
沖田さんが木島を見下ろす目は、それまでよりも一層冷ややかだった。
もう木島は追って来なかった。無事に帰宅し、玄関の鍵を閉めてほっと息をつく。ふと見上げると、沖田さんがわたしのすぐ目の前に立っていた。眉を寄せ、悲しい目をしている。
次の瞬間、沖田さんはわたしを抱き寄せた。彼の両手がわたしの背中に回る。
顔が沖田さんの胸に埋まって動けない。彼の顔を見ようとしたが、少々動いてもびくともしない。苦しくはないが、ドキドキする。
沖田さんは身動きせずに、ぽつぽつと話し始めた。
「かつて私は、大勢の人を斬りました。死んだ後、猫になってしまったことが私への罰ならば、甘んじて受けようと思っていました」
わたしは抱き締められたまま、何とか顔を動かすことに成功した。チラリと沖田さんを見上げる。すると彼は泣きそうなくらいに、憂いのある寂しそうな表情をしていた。
「ですがあなたを知るほど、これほど過酷なものはないと思い愕然とました。以前あなたが泣いたとき、私はこの腕で抱きしめたかった。そして、この手で涙を拭いたかった。けれど、猫の身体ではままならない。それがとても辛かった」
沖田さんは、きゅっと力を込めた。わたしは黙って話を聞く。
「願い続けるるうちに、人間に戻ることが出来ました。あなたのお陰です。あながいなければ、私は猫のままで過ごしていたでしょう」
沖田さんは力を少し緩めて、わたしを見つめた。強い意志を秘めた真剣な眼差しに、吸い込まれてしまいそうだ。
「私はみのりさんが好きです。あなたをずっと守っていきたい」
心臓が一段と跳ねた。けれど、その緊張感すら愛おしく思える。
わたしははっとした。これこそが沖田さんにあって、酒田くんには無いものなのだ。唐突に自覚した。
「わたしも。沖田さんが、好き」
沖田さんは微笑んだ。そしてゆっくり顔を近づけ、唇を寄せた。
沖田さんの熱い唇に、彼の想いを感じる。沖田さんの手は震えていたし、少しぎこちなかった。きっと彼も緊張している。
すべてが愛おしい。沖田さんでないと、こうは思えない。曖昧な、でも明確な違いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます