第10話 面影
しゅうしゅうとやかんが音を立てていた。
すぐそこの廊下では、誰かの話し声が絶えず響いてくる。この会社の景気が伺えるようだ。
やがて湯が煮え立つ音に変わると、わたしはコンロの火を止めた。予めインスタントコーヒーの粉を入れておいたマグカップに、熱湯を注ぐ。香ばしい香りが漂う、仕事の合間の至福の時だ。
香りを堪能していると、廊下から人影が現れた。紺のスーツを着た酒田くんが、ひょこっと顔を覗かせる。そのくりくりした丸い目が、わたしの瞳を捉えた。
「福岡さん。メール、見た? 」
「あ……ごめん」
狭い給湯室なのに、二人でいると余計に狭い。距離の近さが苦痛だ。わたしはマグカップを確保すると、そそくさと廊下へ逃れた。
酒田くんメールの事は、一度思い出した。なのに、いつの間にかすっかり頭から消えていた。言い訳もできずにおろおろしていると、酒田くんは「やっぱり」とため息をこぼす。けれど、彼に諦める様子はない。
「じゃあさ、明日はどう? 」
行きたくない。
正直な気持ちだが、そうは言えなかった。バッサリ切り捨てるようで、はっきり言うのは憚られた。となれば、言い訳を考えるしかない。どうにかして捻り出す。
「猫が、心配だから……ごめんね」
「え? 猫? 」
真っ先に浮かぶのはやはり沖田さんだった。結核はもう大丈夫だけど、現代への戸惑いはまだ残っている。ちなみに彼は、昨日は猫の姿をしていた。だから、これは決して嘘ではない。多少の無理はあるけれど。
酒田くんは意表を突かれたような顔をした。けれど、それで諦めるわけではない。彼の視線は、わたしに詳細な説明を求めている。
「最近、病気したの」
「それは心配だね……わかった。また誘うよ」
酒田くんはそう言うと、残念そうに去っていった。それを見届けて、わたしはほっと息をつく。我ながらひどい女だと自分で毒づいた。
酒田くんとデート。はやり、とても考えられない。何が悪いわけでもないが、何が良いわけでもない。
「ひとを好きになるの理由はいらない」などとはよく言われる事だ。だが同じように、どうしても恋にならない理由も、明確なものはないのかもしれない。
今は人の波も去っている。ようやく訪れた静寂に安堵し、カップに口をつけた。たった一口でも、コーヒーの程よい苦味が身体をシャキッとさせてくれるようだった。
早くオフィスへ戻ろう。動こうとした時、ふと視線を感じた。振り返ると、走り去る恵子先輩の後ろ姿が見えた。
帰宅して、沖田さんと食事を終えた。ソファーに座ってのんびり飲むコーヒーはまた格別だ。饅頭を一口食べて、ゆっくりと咀嚼する。再度コーヒーを口に含んだ時、昼間の酒田くんとのやり取りを思い出した。
酒田くんはまた誘うと言っていた。何度も断るのは心苦しいけれど、かといって流されるのも嫌だ。中途半端なことはしたくない。
どうしたものかとため息をつくと、ふと視線を感じた。そちらを振り返ると、隣に座る沖田さんがわたしの顔を見ていた。ちなみに、今日は人型だ。
沖田さんの目の前には、彼の好物の饅頭が皿に鎮座している。なのに饅頭そっちのけで、穴が開くのではないかと思うほどわたしを見ていた。
わたしが沖田さんを振り向くと、彼もはっと我に返った。
「すみません。不躾に」
「ううん。気にしないで」
ぱっと目を逸らした沖田さんは、恥ずかしげに頭をかいた。わたしは笑顔で首を横に振る。本当に気にしていないけれど、あまりの凝視っぷりは気になった。
「でも、どうしたの? 」
「……知り合いに、少し似ているなあ、と」
沖田さんは黒い瞳を懐かしそうに細める。一つ一つ思い出すように、ゆっくり話し始めた。
沖田さんがまだ江戸にいた頃のことだ。彼が世話になっていた道場の近所に住んでいた女の子が、その知り合いらしい。
女の子は庄屋の一人娘だった。その家は、武家といえど貧乏だった沖田さんの家よりも、ずっと裕福な家庭だった。
女の子の名前は忘れてしまったそうだが、顔は覚えているらしい。わたしとそっくりというほどではないが、どこか面影はあると沖田さんは言う。
女の子は黒猫を飼っていた。いつも一緒という訳ではなかったが、沖田さんも何度かその猫に会うことがあるそうだ。
初めて女の子の黒猫を見たとき、沖田さんは猫の名前を聞いた。
「熊吉というのかい? 猫なのに? 」
「はい。……変でしょうか? 」
女の子は猫を抱いたまま首をかしげると、沖田さんと黒猫を交互に見比べる。
「うーん、猫又の方がよかったでしょうか。実は迷ったんです」
女の子がそんなことを言うものだから、沖田さんは吹き出してしまった。
「あはは! 面白いお人だ。猫又だと化け猫のようだけど、それもいいなあ」
二人はたまにばったり会えば少し話をする程度だったが、会うと話が弾んで楽しかったそうだ。
それから程なくして沖田さんは上洛、女の子は婿養子を迎える事が決まった。二人はそれきり会っていない。
「私はてっきり、
見るからに乗り気でない様子で、結婚が決まった頃は暗い表情をしていたそうだ。祝言を挙げると聞いて祝いの言葉を口にしたのだが、本人はどことなく取り繕うようにして微笑んだだけだったらしい。
「そんなに似てたの? 」
「いいえ、そんなに。でも、先程のような憂いのある表情はそっくりだったなあ。それで思い出したくらいですから」
へえ、と返事してわたしはコーヒーをまた一口飲んだ。
その人も、もしかしたら今のわたしと似たような気持ちだったのかもしれない。乗り気でない相手とのデートだけでもこんなに気落ちするのに、ましてや結婚だなんて嬉しいはずがない。
沖田さんは話を終えて、すっきりした顔をした。饅頭を頬張った彼は、頗る幸せそうだ。あんこの甘さを堪能している。スーパーのタイムセールの品でこんなにも喜んでくれるなら、お安いご用である。
「ほんと、おいしそうに食べるわね。買ってきた甲斐があるわ」
「ええ。本当に美味しいですから。この甘さが堪らない」
沖田さんはうっとりしたような顔をしている。饅頭を味わうのに夢中、と言った風だ。
沖田さんが言うには、現代のお菓子は幕末の頃に比べて砂糖がふんだんに使われているそうだ。甘党の彼には、とても魅力的らしい。
「あの方、あの後どうしたんだろう。もう確かめようもないが……」
沖田さんはそう言うと、饅頭をごくりと飲み込んだ。割りといつも微笑んでいる沖田さんが、珍しく真顔になる。
「そうね……」
無意識のうちに、自分の境遇とその人を重ねていたことに気付いた。わたしはコーヒーカップを手に、ため息をつく。
「ああ、美味しかった。ご馳走さまでした」
いつもの笑顔でそう言うと、沖田さんは立ち上がった。彼はいつの間にか、饅頭を平らげ、一緒に出したお茶も飲み終えている。彼はわたしの空になった小皿もひょいと掴み、自分の皿に重ねて台所の流しまで食器を運んで行った。
「ありがとう。沖田さん」
いいえ、と返事しながら沖田さんはささっと皿を洗ってくれていた。
台所から戻ってきた沖田さんは、またわたしの隣に座った。目を合わせるようにわたしの顔を覗き混むと、優しく微笑む。
「無理にとは言いませんが」
「え? 」
「話して楽になるなら、いくらでもお聞きしますよ」
沖田さんはそう言うと黙って急須を取ると、お代わりのお茶を入れて啜った。
わたしが何かに悩んでいる事は、沖田さんにはお見通しらしい。でもわたしが何も言わないから、彼も追及しない。今はその気遣いがありがたかった。
「……ありがとう」
「いいえ」
お互いににっこり笑い合うと、心が少しほどけて軽くなったような気がした。
少し前までは、夜の時間が寂しくて仕方がなかった。もしも今一人だったら、余計に暗い気持ちになっていたところだった。沖田さんが来てくれて本当によかったと、またコーヒーを啜った。
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