第7話 コンドーコーポレーション営業部

 夕焼けを通り越した空が今にも闇に包まれようとしている。人もまばらになったオフィスに、電話の呼び出し音が響く。2コール目で留守番電話のアナウンスが始まった。


「こちらは、コンドーコーポレーションでごさいます。本日の営業時間は終了いたしました。なお――」


 無機質な声を聞きながら、わたしは荷物を片付けていた。黙々とデスクの上に散らばっている物をかき集める。

 デスクの引き出しを開けて、机上の筆記用具とメモを所定の位置へ戻した。書類の束は、整えてファイルに挟む。

 沖田さんが待っている。なるべく早く退社しようと手早く整頓していると、酒田くんがやって来た。


「福岡さん。明日にでもコピー用紙の発注しといた方がいいと思うよ。さっき芹沢部長が資料を大量にコピーさせてた」

「えっ、そうなの? ありがとう」


 デスクの上は大方片付き、家から持ってきた水筒を残すのみとなった。わたしは茶を飲もうと、水筒に手を伸ばす。

 酒田くんはきれいになったデスクを見ると口を開いた。


「今から帰り? 」

「うん。酒田くんは、残業? 」

「そうなんだ。この間の製薬会社……ええと、石田散薬だね。その企画書、今日中に提出しないといけなくて」


 今からもう少し推敲するのだと、酒田くんはコピー用紙を数枚ヒラヒラさせる。下書きを印刷してきたらしい。


「そっか。じゃあ、がんばってね。お先に」


 わたしがそう言うと、酒田くんは手を振りながら席に戻って行った。すると、今度は背後から別の人に声をかけられる。


「みのりちゃーん。お疲れー」


 声の方を振り向くと、恵子先輩が立っていた。3つ上の仲良しの先輩は、既に帰り支度を済ませている。後は帰るだけ、と言った塩梅だ。

 わたしは手に取ったまま忘れていた水筒の蓋を開けた。


「お疲れ様です。恵子先輩」

「なあなあ、みのりちゃん。前から、ちょっと気になってんやけど……」


 恵子先輩は、何やら聞きにくそうにもじもじし始めた。いつもハキハキしているのに、今は何だか別の人のようだ。


「どうしました? 」

「酒田くんとは、その……」


 恵子先輩はさらにもじもじしている。わたしは黙って続きを待ちながら、お茶を一口、口の中に入れた。

 恵子先輩は回りを見回してから急に声を落とすと、内緒話をするようにわたしの耳元で囁いた。


「あんたら付き合ってるん? 」

「ぶっ」


 わたしは飲み込みかけたお茶を、危うく吹き出すところだった。必死で耐えたが、代わりに咳き込んでしまった。


「あ、ごめん。大丈夫? 」

「変なこと言わないでくださいよ……」


 わたしは乱れる呼吸を整え、ハンカチで口元を拭った。


「ただの同期ですよ。わたしはそんなつもりありませんし」

「そうなん? 仲良さそうやから、そうなんかと思ってたんやけど。なーんや違うんか。そーかそーか」


 つまらんわー、などと言って、恵子先輩はさもがっかりしているかのようなポーズを取る。けれど、その表情は何だか妙に嬉しそうに見えた。

 お茶を飲み終えたわたしは、水筒を鞄に仕舞った。


「ほんなら……ちょっと良いなあ、とかは、ないん? 」

「うーん……何か、違うと言うか……。うーん」


 頭を捻って考える。だが、思い浮かべたのは沖田さんだった。他は特に何も思い付かない。酒田くんの何が嫌だとか、どんな人が好みだとか、そういうものは全く出て来なかった。

 それに今、わたしは沖田さんを放っておけない。彼は一度人に戻ってからというもの、日によって猫の姿になったり、人の姿になったりを繰り返している。この時代への適応力も今一つだ。彼が人のままでも、猫のままでも、現代を一人で生きるのはまだ難しい。

 わたしが思い悩んでいると、恵子先輩がどこか満足そうに笑った。


「まあ、無理して恋するもんとちゃうわな。ボランティアやないし」


 わたしはまだ恵子先輩への答えも、酒田くんの誘いを断るだけの明確な理由も見付けられない。けれど、恵子先輩は勝手に色々納得してくれたらしい。そして、やっぱり嬉しそうにしている。


「では、お先に失礼します」

「気い付けてなー」


 恵子先輩は上機嫌でわたしに手を振った。わたしも軽く会釈を返して、オフィスを後にする。


 酒田くんのことは、決して嫌いな訳ではない。よく助けてくれて、ありがたい同期だ。でも、それだけだった。どういうわけか、それ以上の気持ちにはなれない。

 もし、先輩の言うように酒田くんがわたしに好意を持っていたとしても、お付き合いをしようとは思わない。好きでもないのに付き合う方が、よほど失礼だ。いつも良くしてくれるからこそ、尚のこと良くない。


 わたしは会社のエントランスを出た。頬を撫でる風がぬるい。そろそろ夏も終わりだなと思った。

 そういえば酒田くんにメールをもらったことを忘れていた。沖田さんが現れてから、どうしてもそちらに気を取られている。とはいえあまり乗り気でないのも確かで、返信するのも億劫なのが正直なところだった。

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