第17話 あれから
後の聴取で知ったことだが、木島はわたしの新しい家の近所にある小さな病院で事務として勤めていた。逃げたつもりが、却って近づいてしまっていたのだ。
今更後悔しても仕方がない。けれど、運の悪さに恨めしさすら覚える。
わたしも関係者として、事情を話しに何度か警察へ行った。他にも沖田さんを看病したり、沖田さんの戸籍問題のために奔走したりして、あっという間に二週間が過ぎてしまった。けれど、沖田さんは未だ目覚める気配がない。
沖田さんの病室の窓を開けた。そよそよと入って来る風が白い部屋を満たす。来る途中で買ったコスモスを活けて、ベッド脇の椅子に腰掛けた。
沖田さんから外した首輪をぎゅっと握りしめる。彼が急に人間に戻ったので、大慌てて外した。そのために金具が壊れ、ベルト部分も破れてペラペラしている。
沖田さんを見つめながら、深いため息をついた。
「せっかく貰った命なのに。こんなのないよ……」
沖田さんは青白い顔をして横たわっている。失血し過ぎて一時は命が危なかった。何とか一命は取り留めたものの、意識は未だ戻らないままだ。
生きているのか心配になるくらいに、沖田さんは静かに眠っている。以前に黒猫が見せた結核で弱った沖田さんの姿を思い出す。
いつ目覚めるのか、それとも、もうこのまま目覚めないのか。それは医師でもわかりかねるそうだ。あとは本人の生命力を信じるしかない、とも。
もう涙も出ない。何も考えたくない。殺風景な白い壁が、余計に不安をかき立てる。
すうっと風が吹き、コスモスの花びらを揺らした。その秋風はわたしの身体の中までも吹き抜けて行くかのように、ただただもの悲しさに暮れている。
にゃーん――
そんな時だった。どこからともなく、猫の鳴き声が聞こえた。ハッとして顔を上げる。
「猫……? もしかして! 」
気位の高い黒猫を思い浮かべたと同時に、何処からともなく例の黒猫が現れた。猫は沖田さんの胸の上に座って、しっぽをくるりと持ち上げる。そして、再度にゃーんと鳴き、わたしを見つめた。
わたしは握っていた首輪に視線を落とす。これがあれば、また話が出来るはずだ。曲がった金具が折れないように慎重に戻し、やや不恰好ながらも猫の首に付けた。
「やあ、お嬢さん。また会ったな。元気がないようだが、大丈夫かい? 」
「大丈夫なわけないでしょ。殺されそうになったし、沖田さんもこんなだし。大変だったんだから」
「ああ、だから来たのだよ」
猫は相変わらずだ。飄々として、何でもなかったかのような口調だ。わたしはまた深いため息をついた。
「言っておくけど、沖田さんは殺さなかったわよ。その上で撃退したんだからね。刺されていたのに! 」
わたしはじろりと黒猫を睨み付けてやった。恨み言を言ったところで何も変わらないが、どこかにぶつけたかった。
「もっと、もっと早く人に戻してくれていたら、こんなことにはならなかったわ……! 」
最後の方は、だんだん涙声になってしまった。鼻をすすりながら、黒猫に訴える。
「吾輩は間違った事は言っていないさ。しかし、こんな事件に巻き込まれるとはな。吾輩も責任を感じるからこそ、こうして出向いたのだ」
「呑気なこと言わないでよね」
わたしはぷい、とそっぽを向いてやった。完全に猫のせいというわけではないけれど、責任の一端はある。
「そう怒らんでくれよ、お嬢さん」
「だって……このままじゃ、沖田さん……」
今度こそ、本当に沖田さんは死ぬかもしれない。そう言いかけて、わたしは俯いた。口に出すとまた泣きたくなる。それに、言霊という言葉もある。これ以上言ってしまうと本当にそうなってしまいそうで、どうしても言いたくなかった。
そんなわたしの様子を見て、黒猫は自信満々といった風に胸を張った。もしも、彼が人間だったなら、ドンと胸を叩いていただろう。
「吾輩だって、ちゃーんと考えているのだ。任せておきたまえ。安心していいぞ。ところで、お嬢さん。牛乳を頼めるかな」
「そんなものないわよ。ここ、病院だもの」
「腹が減っては戦はできぬ、と言うではないか」
猫はベッドから降り、わたしの脚にすり寄る。
「もう、分かったわよ。しょうがないわね。買ってくるから、そこで待ってて」
「すまないね。お嬢さん」
「よく言うわよ」
全く。いつもいつも、この猫は牛乳をせびるんだから。などとうそぶきながら涙を拭い、わたしは売店まで急いだ。
それにしても、あの黒猫。普段は何を食べて生きているんだろうか。現れた時はいつもお腹を空かせている。とはいえ、まさかいつも死人の魂を食べているわけでもないだろう。食べていたら毎度牛乳牛乳とは言わないはずだと、わたしは勝手に結論付けた。
そこまで考えたとき、後ろから声がした。「出来れば低脂肪乳にしておくれよ」と、黒猫が更に注文を付けてくる。図々しいのも変わらない。
けれど、いつかの時と同じだ。手掛かりはあの猫しかない。牛乳一本で沖田さんを助けて貰えるのなら安いものだ。
「ああ、うまかった。
牛乳をたらふく飲んだ黒猫は、満足そうに前脚でお腹をさすった。表情も緩みきって、そのまま昼寝でもしてしまいそうだ。
ちょうど昼時だったので、わたしもお弁当を買って一緒に食べた。最後にとってあった厚焼き玉子を食べ終えて、一緒に買ったお茶を一口飲む。
空になったお弁当の容器を捨てると、わたしはまたベッド脇の椅子に座り直した。
「よし、では始めるとしよう」
黒猫はさっと立ち上がり、ベッドに飛び乗った。沖田さんの胸の上をうろうろと歩き回り、彼の身体の真ん中あたりに座り込む。にゃーと鳴いて、しっぽをくるりと一振りした。
すると、わたしは突如として猛烈な眠気に襲われた。どうにも目蓋が重い。とても開けていられる状態ではなくなった。あっという間に意識が遠のく。わたしはそのまま眠ってしまった。
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