第16話 赤心を尽くして

 小気味よく晴れた秋の日のことだった。

 そろそろ暖かいものが恋しくなる。わたしはスーパーマーケットで食料を調達してきたところだ。「今夜は鍋にしようかな」などと考えながら、いそいそと家路につく。

 しかし、どうやらわたしは待ち伏せをされていたらしい。気づいた時には既に遅かった。わたしは家の玄関を開けるなり、例のストーカー男・木島によって、玄関に押し込められていた。


 乱暴に腕を掴まれ、引っ張られる。持っていたスーパーの袋は壁にぶつかって、落としてしまった。その拍子に入っていた卵が割れて、玄関を汚してゆく。 割れた卵が、まるでわたしの分身のように見えた。

 黄色い水たまりをぼんやりと見つめていると、木島は袋ごとそれを踏み潰した。そして彼は後ろ手で玄関の鍵を閉め、にやりと笑う。

 木島の手には、鈍く光る物が握られていた。何を持っているかを理解するよりもわずかに早く、部屋の中から沖田さんが飛び出した。

 沖田さんは、ばっと木島の右腕に飛び付く。木島の気が逸れた隙にさっと離れ、わたしはとりあえず部屋の中へ逃げた。


 木島は包丁を握り締め、刃先をこちらに向けた。血走った目は、じろりとわたしを睨みつけている。沖田さんは頭からしっぽの先まで全身の毛を逆立てて、フーッと唸るような声を出した。相当怒っている。

 沖田さんはずっと猫のままだ。人間には戻っていない。いくら沖田さんが強くても、これではさすがに分が悪い。


 木島が玄関から一歩踏み出した。土足で廊下をずんずん歩き、距離を詰めてくる。わたしはさらにリビングに逃げ込み、ゴクリと唾を飲み込んだ。


「みのり。今日は一人なのか。あの男、今日はいないんだな」

「だ、だったら、なんだっていうのよ……! 」


 わたしが震えながら言い返すと、木島はまた笑った。嘲笑うかのような嫌な笑い方だ。

 沖田さんがわたしの前に出た。爪をぴんぴんに伸ばし、今にも跳びかからんばかりの形相で木島を睨みつける。庇ってくれようとするのは嬉しいが、猫のままでは心許ない。

 今度ばかりはさすがに命の危険を感じる。黒猫に「今後の生活次第だ」と言われたことは気がかりだが、もうそれどころではなかった。


 木島は行く手を阻もうとする沖田さんを蹴飛ばした。全身を壁に打ちつけられて、沖田さんはぐったりしている。

 木島は遂にわたしの目の前までやって来た。わたしは後ずさりし、じりじりと壁際に追い詰められていく。木島の目と包丁が、ギラリと嫌な光を放った。

  わたしはチラ、と沖田さんを見た。

 沖田さんの目はしっかり開いている。けれど、まだ動くことはできないようで、鋭い視線だけをこちらへ寄越した。


 わたしは冷や汗をかきはじめた。全身の血液が逆流しているかのような感覚だ。このままではいけない。それはわかっている。けれど、足が竦んで動けなかった。

 口がからからに乾き、声も出ない。目はだんだん近づく刃先と木島の目とを往復している。膝はがくがくして震えが止まらない。

 わたしが腰を抜かしそうになった時、木島が急によろめいた。どうやら沖田さんが体当たりをしたようだ。 いつの間にか沖田さんが目の前にいた。しかし、やはり猫の力では男に及ばない。


 沖田さんは包丁を振り回しながら襲いかかる木島に、爪を使って応戦する。猫の素早さで翻弄しながらしばらく格闘したが、今度は首根っこを掴んで投げ飛ばされてしまった。

 床に落ちた沖田さんは、カエルが潰れたような声を上げてうずくまる。それでも立ち上がろうと懸命に手足をバタつかせていたが、うまくいかない。斬られてしまったのか、身体の所々に赤い線が滲んでいた。


「沖田さん! 」

「変な名前だな。生意気な猫め」


 木島は忌々しそうに沖田さんを睨み付ける。木島は包丁を握った手の甲で、額の汗を拭った。そして、ねちっこい瞳をわたしに向ける。


「おい、みのり。猫よりも、俺がいるだろう。もうずっと、離さないからな」


 木島はそう言うと包丁を構えた。刃先は真っ直ぐにこちらを向いている。わたしはギュッと目をつぶり、身構えた。いよいよ、もう駄目だと思った。

 わたしが一体何をしたのだろう。何故こんなことになるんだろう。そう簡単に人生を諦める事などできない。どうして、どうして。心も意識もぐちゃぐちゃだった。

 やがて嫌な音が聞こえ、わたしは体の奥底からぶるりと震えた。しかし、何も感じない。痛くもないし、死んだにしてもまるで実感がない。

 恐る恐る目を開けてみると、眼前の惨事に血の気が引いた。わたしと包丁の間に、沖田さんがいたのだ。


 沖田さんの黒い右脇腹がみるみる赤く染まり、苦しそうに表情を歪める。これには木島も驚いている。すっかり動きが止まってしまっていた。


「お、沖田、さん。嘘……嘘よ。そんな……」


 わたしはよろよろとその場に座り込んだ。沖田さんもわたしの膝の上にずり落ちてくる。わたしは彼を必死で受け止め、抱きしめた。 着ていたカーディガンを脱いで傷口に当て、止血しようと試みる。その時、ぼんやりと沖田さんが淡く光った気がした。

 錯覚かと思っていると、光のベールが幾重にも現れ、どんどん明るくなっていく。やがて目を開けていられない程に強く青白い光に変わり、眩い光が彼の全身を覆ってゆく。さらにもう一度強く光ったと思ったら、直ぐに光が消えた。


 沖田さんの姿が再び見えたとき、彼は人間に戻っていた。 わたしは慌てて首輪を外す。大怪我をしているだけでも充分危険なのに、窒息までさせたらますますまずい。

 沖田さんのお腹は真っ赤だ。血の気の引いた青い顔をして、寒そうにしている。


 木島はますます驚いて、沖田さんの変化に目を白黒させていた。けれど、現れたのはいつか自分を撃退した沖田さんだ。我に返った木島は「今なら勝てる」と小さく呟いた。包丁を構えなおして、沖田さんに向ける。


「狂ってる。あんた、おかしいわ……もうやめて」


 木島は鼻で笑った。わたしはの訴えはいともあっさり無視されてしまった。

 足に力が入らない。立ち向かったところで適うはずもない。わたしは倒れた沖田さんを抱きしめ、今度こそ殺されると思った。


 木島が振りかぶったその時、沖田さんがカッと目を見開いた。次の瞬間にはわたしの腕を振りほどき、立ち上がって木島と対峙していた。

 沖田さんは片手で木島の包丁を持つ手を抑え、動きを封じる。さらにもう一方の拳で木島の顔を殴り、その手から包丁を取り上げた。そして、奪った包丁の柄で木島の首にもう一発お見舞いし、完全にのしてしまった。

 とても怪我人とは思えない沖田さんの身のこなしに、わたしは呆気にとられた。

 新撰組として生きた沖田さんは、こんな修羅場をきっと幾度も繰り広げてきたのだろう。こんな事んど、できれば経験しないにこしたことはない。だが、彼の人生の苛烈さを垣間見た気がした。


 木島を取り押さえることに成功した。けれど、同時に沖田さんもその場に倒れてしまった。

 わたしは慌てて沖田さんに駆け寄ったが、足がまだ震えている。もつれるようにしながらなんとかたどり着いて、沖田さんの顔を覗き込んだ。


「沖田さん、ごめんなさい。庇ってくれたのね。どうしよう……血が止まらない」


 血がどくどくと流れて、床に染みをつくる。押さえても押さえても、溢れて止まらない。

 涙が零れて、沖田さんの頬に落ちた。


「あなたが無事で、良かっ……た」

「でも、沖田さんが……」


 声を聞いて、わたしは沖田さんの左手を握った。冷たい手は力無く、ひどく重たい。


「私……今まで、大きく斬られた……ことなんて、なかったのにな。まさか、この時代に来て、刺されるなんて……思いも、しませんでした」


 沖田さんはわたしの無事を確認すると、ほっとしたような表情をした。けれど、話し方は「息も絶え絶え」と言った風た。


「私が斬った連中も、こんな気分だったのかな」


 沖田さんは弱々しく微笑んだ。苦しそうに肩で息をしながらも、どこか吹っ切れたような顔をする。


「黒猫が言ってたの。人を傷つけたら、沖田さんは今度こそ許してもらえなくなっちゃう。ごめんなさい。わたしのせいよ。わたし、わたし……どうしたらいいの」

「良いんですよ、みのりさん。それに、あなたのせいでも、ありません。私は……既に罪を、重ねてきましたからね。当然の報い、です」

「そんなこと、言わないで……」


 涙でよく見えない。沖田さんの顔も歪んで見えた。


「私は、あなたに幸せを沢山……沢山もらいました。そして、あなたを守る、ことができた。十分過ぎるくらいです」


 沖田さんは目を閉じた。右手でわたしの頬をするりとひと撫ですると力が抜け、バタリと床に落ちた。

 わたしは必死で沖田さんに呼びかける。時々ピクリと反応するけれど、それだけだった。

 その後、沖田さんは病院に運ばれ、木島は警察へと連行されていった。

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