第14話 夢のまた夢(前編)

 わたしは黒猫を追ってリビングに入り、パチンと明かりを点けた。鞄を置き、羽織っていた上着を脱ぐ。

 前を歩いていた黒猫はくるりと振り返ると、ピンとしっぽを立ててわたしに甘えるように摺り寄った。


「吾輩は少々腹が減った。お嬢さん、教える前に我輩に牛乳をくれまいか」


 朝食をほとんど食べなかったのだから、さぞお腹が空いていることだろう。わたしは冷蔵庫を開けて、牛乳を取り出す。


「そうだ。今朝あなたが残した物もあるけど、食べる? 」

「いや、牛乳だけでいい。人間の食べ物はあまり好きでなくてね」


 わたしは牛乳を皿に入れて、猫の足元に置いてやった。 猫は夢中で牛乳を飲む。

 余程空腹だったのだろう。器になみなみについだ牛乳は、あっという間になくなった。猫は最後の一滴まできれいに舐め取り、満足そうにゴロゴロと喉を鳴らしている。


「ああ、生き返った。ありがとう、お嬢さん」

「いいえ。ねえ、それより沖田さんは? 」

「ああ、そうだったな。ではお嬢さん、始めるとしよう」 


 黒猫はわたしに向き直った。わたしの真正面に座り、しっぽを大きく回したと思ったら、世界がぐるぐると回り始めた。

 まるでひどい目眩を起こしたようで、立っていられないほど頭がぐらぐらする。そのうち吐き気まで催して、もう駄目だと思った瞬間、急に穏やかになった。

 わたしは何が起きたのかが分からない。暫くは目が回り続け、ついに座り込んでしまった。


 少し落ち着いた頃に顔を上げると、わたしは知らない場所にいた。辺りを見回すと、どうやらここは土間のようだ。どこの家かわからないが、土間なんて今時珍しい。わたしはしげしげと眺めた。

 かまどの上に、古いすすだらけの鍋が乗っている。物といえばはそのくらいしかない。寂しいほどに閑散としていた。

 他の家財道具も極端に少ない。掃除は行き届いているようだが、生活感がない。母屋は別にあって、ここはその普段は使っていない離れ、といった感じだ。


 キョロキョロしていると、背後の入り口から着物姿のお婆さんがぬっと現れた。ぶつかるのではないかとわたしは驚いたが、お婆さんはすっとわたしをすり抜けてしまった。まるで、わたしがこにいないかのように。

 信じられない思いで、再度自分からお婆さんに触ってみる。だが、やはりすり抜けてしまい、どうしても触る事ができなかった。その上、お婆さんはわたしの存在に全く気付いていない。

 どういうことだろう。もしや、あの沖田さんそっくりの黒猫のせいなのだろうか。

 わたしが動揺しているうちにお婆さんは草履を脱ぎ、奥の方へ入っていった。いつまでもここにいても仕方がない。わたしも後をついて行く事にした。


 奥には小さな部屋がひとつ。襖は半分開いており、布団の端が見える。縁側が付いていて、そこからも土間にも通じていた。

 部屋は明るく、きれいに掃除されて一つの塵もない。物がほとんど無く、がらんとした部屋だ。布団の他には縁側に吊された風鈴と、葛籠つづらが一つ置いてあるだけだった。


 お婆さんは、中にいる人に声をかけて部屋に入る。わたしも後に続くが、その人の顔を見てぎょっとした。 思わず駆け寄ろうとしたが、おばさんとの会話が始まった。わたしはひとまずそれをじっと聞くことにした。


「お加減はどうですか」

「ええ、今日はだいぶ良いようです」

「お食事は……おやまあ、また残したんですか」


 殆ど手のつけられていないお膳を見て、お婆さんはため息をついた。


「饅頭が食べたいなあ、私」

「菓子ばかり食べていたって、治りやしませんよ」


 お婆さんはそう言いながら残ったものを片付けて、また土間に戻って行った。カチャカチャと鳴る食器の音が、だんだん遠ざかっていく。


 寝ていたのは沖田さんだった。

 沖田さんは、寝間着であろう浴衣を着て、長い髪を頭の後ろで一つにまとめている。思わずぞっとするほど、げっそりと痩せ細っていた。

 顔色は悪くやつれて生気が感じられない。正に骨と皮だけ、という表現がぴったりだ。「死相が出る」とはこういうことかもしれないとさえ思った。

 わたしは元気な沖田さんしか知らない。目の前の彼はまるで別人のようだ。けれど、あの涼しげな目はそのままで、むしろ更に澄んで見える。


 お婆さんがいなくなってから、沖田さんは遠い目をしてぼそりと呟いた。


「……どうせ、もう治らないのだから」


 風鈴がちりんと鳴った。


 わたしは、もう見ていられなかった。縁側に出て部屋から目を背け、壁にもたれて項垂れる。

 するとその時、縁側に黒い猫が現れた。きっとあの黒猫だ。わたしは黒猫を追いかけようとする。 しかし驚いたことに、わたしよりも沖田さんの方が早かった。


 沖田さんは布団の脇に置いてあった葛籠の中から刀を取り出し、畳を這うように移動した。やっとの思いで縁側まで辿り着き、黒猫に斬りかかる。

 けれど、猫はあと少しのところでひらりとかわした。そのまま猫は留まらず、あっという間に逃げてしまった。

 沖田さんは脱力し、刀を握ったまま縁側に倒れ込む。


「ああ、また……また、駄目だった。こんなことでは、私は何の役にも立てない」


 沖田さんは目を閉じ、ため息をついた。荒く、浅い呼吸をして、身体中が汗ばんでいる。倒れたまま、動けなくなってしまった。

 物音を聞きつけて、先ほどのお婆さんが慌てて戻って来た。お婆さんは沖田さんの姿を見てもさほど驚く風でもなく、淡々と彼を布団に戻していく。


「今度はどうしたんです。また猫ですか」

「ああ……斬れない。……斬れないよ、婆さん」


 沖田さんは布団に倒れ込み、うなされるかのように呟いた。それを聞きながら彼に手を貸すお婆さんは、「はて」と首を傾げる。


「罰が当たりますよ。猫を斬ろうだなんて」


 お婆さんは沖田さんから刀を取り上げた。彼の手に届かないように刀を自身の背後に隠し、沖田さんに布団に入るように促す。


「それにしても、どこの猫でしょうねえ。この辺りに猫を飼う家なんてなかったはずだけれど。野良もあんまり見かけなかったのに」

「さあ。でも、最近よく現れますよ。黒い猫だった」 


 沖田さんはようやく布団の上に腰を落ち着けた。後は横になるだけだ。


「さあさあ、いいから寝てください。こんなことばかりしていたら、治るものも治りませんよ」


 沖田さんは不本意そうに口を尖らせているが、もはや抵抗する力もないようだった。

 沖田さんは突然咳込んだ。力の無い、乾いた咳だった。沖田さんの口から、ごぼっと赤いものがこぼれる。口元を押さえた手からもだらりと血があふれてゆく。

 ゼイゼイと息をする沖田さんを支えながら、お婆さんは手拭いを取り出すと慣れた手付きで血を拭った。


 沖田さんが横になった時、また黒猫が縁側に姿を見せた。沖田さんは、目を瞑ったまま、お婆さんに言う。


「婆さん、あの黒猫は……また来てるだろうなあ」


 お婆さんは縁側まで見に行った。辺りを見回し猫を探しているが、猫はずっと縁側にいる。

 猫はお婆さんの前で寝そべって、じっと沖田さんを見ていた。どうやらお婆さんには、猫が見えていないようだ。


「何にもいやしませんでしたよ。それよりも、しっかりお休みなさいな」


 沖田さんはそのまま布団を被って寝た。お婆さんは沖田さんの枕元に座り、彼をうちわで扇ぐ。


 黒猫はわたしをじっと見つめ、縁側で壁に凭れていたわたしの方へやってきた。


「お嬢さん。吾輩は、彼の思念なのだよ。吾輩は毎日彼を見舞っていたが、もう3度も襲われた。彼は遂に吾輩を斬ることはできなかったがね」


 わたしは頷いた。涙が一粒、頬を伝って落ちていく。

 外は太陽がキラキラと輝く。柔らかな風が軒先の風鈴を揺らし、遠くで蝉の声がする。のどかで穏やかな時間が、ただ流れていた。

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