第2話 改めてよろしく

「ただいまー」


 わたしは小さな同居人に声をかけた。彼はとことこと短い廊下を歩き、毎夜わたしを玄関まで出迎えてくれる。

 大学を出て、就職を期に一人暮らしを始めて約半年。慣れてはきたものの、少し寂しい。毎日の出迎えは、思いの外嬉しかった。

 同じ物を食べ、同じ布団で眠る。猫とわたしは、正に寝食を共にする仲である。


「ただいま、ムサシ」


 ムサシの顎下をくずぐってやると、彼は目を細めて気持ちよさそうにしている。


 いつまでも呼び名が「猫ちゃん」ではいけないと思い、わたしは猫に名前を付けた。

 最初は、体が黒いので「クロ」にしようとしていた。だが、試しに呼んでみると「それは自分のことか」とでもいいたげな顔をして、ぷいとそっぽを向いてしまった。

 次いで「コジロウ」と呼んでみたが、これもあまり良い反応ではなかった。下を向いて首を横に振る様には、哀愁すら感じた。

 最後に「ムサシ」と呼んでみた。これは許容範囲だったらしい。しばらくの間じっと私を見て、考えるような素振りをした後、にゃーと鳴いた。これを了承と捉え、以来わたしはムサシと呼ぶことにしている。


 ムサシは時々、言葉を理解しているのではないかと思う事がある。とは言うものの、彼はにゃーとしか鳴かず、確かめる術はないのだが。


 「ムサシ。今日はお土産があるんだよ」


 わたしは鞄から小さな包みを取り出した。ムサシのために、首輪を買って来たのだ。薄い紫色のベルトに、小さなリボンがついている。それに小さなアメジストを自分で取り付けた。


「どう? 可愛いでしょう。ムサシの毛の色に合わせたのよ」


 首輪を見るなり、ムサシは引きつった顔をした。しかし、わたしとしてはこの子がうちの子である目印を付けておきたい。わたしは今にも逃げ出しそうなムサシを素早く捕まえた。

 ムサシは鋭い悲鳴のような鳴き声を上げ、逃げ出そうと暴れ始めた。必死で抵抗しているが、ここはわたしも譲れない。

 激しい攻防戦の末、わたしはムサシに首輪を付けた。


 とっても可愛いと思うのに、首輪をつけたムサシは酷く気落ちしたようにしょげている。首もしっぽもこれ以上下がらない、という程ぺたんこに下げ、どう見ても元気がない。ムサシの周りだけが、急に真冬の夜にでもなったかのような雰囲気だ。こんなに落ちこむとは思いもよらず、さすがに心配になってきた。


「ねえムサシ。首輪……そんなに、嫌? 」

「そりゃあ、嫌に決まっているでしょう。それに、私はムサシでもコジロウでもないと何度も言えば分かってくれるんです」

「……え? 」

「……あれ? 」


 わたしは耳を疑った。目も疑った。そして、わたしと同時に驚きの声を上げたのはどこの誰だろう、と。


 ここはわたしの家で、わたしの他に喋りそうなものは何もない。残る可能性としてはムサシだが、猫が喋るなんて考えられない。けれど、混乱するわたしをよそに、ムサシはさらに喋った。


「私ですよ。他に誰もいない」


 さも当たり前かのようにスラスラと話すムサシを、わたしはじっと見つめる。吹き替え版の映画を、生で見ているかのような光景だ。


「どうして……」

「私だって不本意なんです。猫だなんて」


 ムサシは大げさな程、大きくため息をついた。


「どういうこと? ムサシ、猫に見えるけど」

「だから、私はムサシじゃありませんよ。そして、猫でもない」


 ムサシは名前ばかりか、猫である事までも否定した。わたしはますます混乱する。もともと不思議な子だったけれど、その上喋るとは思いもよらなかった。


「……猫でないのなら、何なの? まさか……妖怪とか、化け猫とか、言わないでよね」

「はははっ。妖怪か。近いかもしれませんよ」

「えええっ。嘘っ! 」


 わたしは思わず後ずさる。けれど、狭い部屋の中だ。あまり逃げ場はない。すぐに背が壁にぶつかって、尻餅をついた。


「あはは、そんなに怖がらないでください。私、あなたには感謝しているんですから」

「そ、そんなこと言われたって、びっくりするわよ」

「そうか、それもそうですね、すいません。冗談が過ぎました。ほら、落ち着いてください。取って食いやしませんよ。私も人間なんです。元は」


 ああ、やっと声が出た、と言って猫はわたしに近づき、目の前でちょこんと座った。しかしこの状況だ。その冗談は、冗談にはならない。


「私は沖田総司といいます。改めて、どうぞよろしく」


 猫は涼しい顔で、ペコリと頭をさげた。

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