第1話 黒い猫

 大雨の夜、それは突然現れた。

 仕事を終え、帰宅したわたしはリビングに入る。鞄を足元に置いて、ほっと息をつく。その瞬間、視界の端で何か黒い物が移動した。はっとして部屋の明かりを点けると、見覚えのない黒猫がソファの上にひらりと飛び乗ったところだった。

 その猫は真っ黒というよりも、僅かに紫がかった色をしている。その猫はこちらを振り向き、金色の丸い瞳でじっとわたしを見つめた。室内はざあざあと雨音が響いている。


「おかしいわね。戸締まりはしてあったはずなのに。お前、どこから入ってきたの? 」


 猫は、にゃーんと鳴いた。こちらを警戒しているのか、尾をゆっくりと揺らし、耳を立てる。わたしとの間に一定の距離を保とうとしているようだ。

 猫には首輪がない。恐らく飼い猫ではないのだろう。けれど、この艶やかな毛並みは野良にしては美しい。

 一戸建てならまだしもここは地上三階、マンションの一室だ。この猫は雨に濡れていなければ、見たところ傷もない。部屋のどこかが壊された様子もなければ、玄関も窓もベランダも全ての鍵が閉まっていた。どこから、そしてどうやってこの部屋に入ってきたのだろう。


「ま、聞いてもしかたないか。猫だし。」


 雨はだんだん激しくなっている。わたしの独り言をかき消すように、雨粒がけたたましい音を立てて窓ガラスを叩く。こんな夜に外へ放り出してしまうのも忍びない。取り敢えず、今夜は家に置いてあげようと思った。


 わたしは下ろしていた髪を後ろで一つに括り、雨に濡れた上着を脱いだ。代わりにエプロンをつけて、夕食の準備に取りかかる。


「猫ちゃん、あなたは牛乳でいいよね」 


 お皿に牛乳を注いで、足元に置いてみた。しかし、猫は近づこうともしない。


「お腹、空いてないの? 」


 猫はこちらを気にしながらじりじりと近づくも、牛乳を一瞥するとそっぽを向いてしまった。


「牛乳、嫌いなの? やっぱり猫缶がいいのかしら。でも、うちにはそんなものはないの。贅沢言わないでね」


 猫は「そんなことはお構いなし」といった風情で、再び部屋を歩き始めた。どうやら牛乳はお気に召さなかった。


 食事の用意をしながら様子を見ていると、猫はその後もしばらく部屋を歩き回っていた。

 だが、猫はある場所で足をピタリと止めた。何やら神妙な顔つきをして、一歩出しかけた足を宙に浮かせたまま固まっている。

 一点に集中する猫の視線を辿ると、壁に掛かったタペストリーに行き当たる。それは、以前両親から貰った京都土産だった。


 羽織の形をした浅葱あさぎ色の生地の袖口は、白いだんだら模様で縁取りされ、背の部分に「誠」と書いてある。彼の有名な、新撰組の隊服を模したものだ。猫はそれを食い入るようにじっと見ていた。

 わたしが猫の動きに気を取られていると、ふと火にかけていた鍋の煮える音が変わった事に気付いた。慌てて火を止めたが、中の味噌汁はすっかり煮え立ってしまっていた。


 夕食が出来上がった。わたしがテーブルについて食事を始めると、今まであれほど食べ物に無関心だった猫が、いつの間にか空いているもう一つの椅子の上にいる。テーブルを支えに立ち上がり、わたしが食べる様をまじまじと見ていた。


「もしかして、これが食べたいの? 」


 猫は返事をするかのように、にゃーんと鳴いた。

 今日のおかずはアジの開き、味噌汁、ごはん、ほうれん草のお浸しだ。アジはともかく、猫にほうれん草なんて食べさせて大丈夫だろうか。

 とはいえ、いくら猫でもあまり見つめられるといささか食べにくい。猫が尚もじいと見つめ続けるので、わたしは少し分けてやることにした。


「仕方ないわね。お皿に分けるから、ちょっと待ってて」


 皿に出してやると、猫はペロリと平らげた。

 何故か必死で前足を使おうとしていたようだが、どうも上手くいかない。結局口を皿に運んで食べに行き、ようやくありつけたようだ。けれど「しぶしぶ」、「仕方なく」といった様子で、未だにそのことに戸惑っているらしい。

 どこの猫かはわからないが、こんなに食べることが下手で生きて行けるのだろうか。わたしは少し心配になった。


 食事を終えた猫は、わたしの手の中でごろころごろと喉を鳴らしてすっかり寛いでいる。ひとしきり食べて満足したようだ。

 少し遊んでみようか。そう思ったわたしは猫をひょいと持ち上げる。

 猫の身体はなんとも柔らかく、よく伸びた。最初の警戒心はどこへやら。もはやどうでもいいのか、猫はされるがままだ。けれど猫は抱かれたままでも、視線は新撰組タペストリーへ向いている。

 わたしは、猫を頭からしっぽまで眺めた。


「あ、オスだ」


 そう呟いた瞬間、猫は弾かれたようにわたしから離れ、ソファと壁の間に隠れてしまった。

どうしたんだろう。非難めいた目線でちらちらとこちらを伺って、まるで「何を言ってくれるのだ」とでも言わんばかりだ。どういうわけか、恥じらっているようにも見える。ともかく、暫くは出て来る気配はなさそうだ。

 毛の色も、食べ方も、恥じらうのも、変だと思った。けれど、愛嬌はある。


「ねえ、猫ちゃん。あなた、うちの子になる? 」


 猫はソファの陰からそうっと顔だけを出すと、返事をするかのように「にゃあ」とひと鳴きする。意思の疎通が出来たような気がして、わたしは嬉しくなった。


「よし、決まりね。じゃあ、とりあえずお風呂に入れてあげるわ」


 やっぱりお風呂は嫌がるものなのかしら、などと思いながら、猫を風呂場まで連れて行く。

 どうせなら一緒に入ってしまおうかと服を脱ごうとすると、それまで大人しかった猫は急に走り去ってしまった。慌てているようだったけれど、何だったのだろう。

 わたしはひとまず脱ぐことを諦め、猫を探すことにした。


「猫ちゃん、どこ?お風呂に入ってよ」


 猫は、またソファの影に隠れていた。金色の瞳が電灯に反射して光っている。


「どうしたの? とりあえずあなただけ洗っちゃうから出て来てちょうだい。そんなところにいたら、埃だらけになるわ」


 猫はこちらの様子を伺いながら、そろそろと出てきた。わたしはそっと抱き上げ、今度は脱衣場を素通りして直接お風呂に向かった。


 逃げるくらいだから抵抗されることも想定していたが、入ってみれば案外素直だった。

 猫の体を洗ってやると、とても気持ちよさそうに目を細める。そして、流し終わると自ら湯船に飛び込んだ。けれど、深さに驚いたらしい。猫は溺れそうになっていて、わたしは慌てて猫を引き上げた。どうやらこの猫は、水が嫌なわけではないらしいことは理解した。




「きれいになったね」


 にゃーん、と猫は鳴く。気持ちよさそうに目を細める猫はとても幸せそうだ。タオルで身体を拭いてやり、ドライヤーで乾かす。

 身体が温まったからか、猫はうとうとし始めた。彼はわたしに気を許してくれたらしい。乾かし終わる頃には、猫はぐっすりと眠ってしまった。



「かわいいなあ。そうだ、名前つけないとね」


 何がいいかな、と考えながら猫をベッドまで運ぶ。わたしと猫の、共同生活の始まりだった。

 この時、まさかこの猫が本当に普通の猫でないなどとは微塵も疑わなかった。

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