第4章−[8]:心を揺さぶる魅力的な誘惑

試合も4回裏が終わって今のところ3対4で負けている状況だ。

1回から3回途中までの間はストレートとすっぽ抜けで凌げたのだが、打者も2巡目以降になると面白いように打たれまくっている。

まぁ、ストレートとすっぽ抜けといっても球の軌道に落差があるだけで、そもそも遅い球速では打たれて当たり前だろう。むしろ打者1巡目は奇襲的に成功したようなものだ。

ただ、守備陣が上手く打球を処理しているので失点こそはなんとか4点で収まっているといった感じだな。


う〜ん。それにしてもこのままだと9回が終わる頃には何点取られているか分かったものではない。

確か野球では大量の得点差がつくと途中で試合が終わるコールドというルールがあった筈なのだが、幸か不幸か俺のチームも得点を稼いでいて点差もそれ程ないのでコールドはなさ気だ。


しかし、このチームはこれだけ打てるのだからピッチャーが良ければそれなりに成績も良いのではないだろうか?

そう考えると俺がピッチャーをしていることが申し訳なく感じてくるな。


俺がそんなことを考えながら、会長さんの方に視線を向けると田村さんを含む数名の人達が集まって何やら相談ごとをしているのが目に入ってきた。


うん?みんな集まってなんの相談をしているのだろう?

あっ、ひょっとするとこの辺でピッチャー交代とかかな?うん。きっとそうだろう。

ここまで面白いように打たれる奴をピッチャーとして使い続けるのは愚の骨頂だ。

俺ですら良いピッチャーがいたら勝てると思えるのに、野球をしている人達がそれを考えない筈がない。折角の勝ち試合をみすみす捨てるなど勿体無いしな。

でもただ1つだけ問題があるとすればメンバーが助っ人の俺を含めて9人丁度しかいないということだろうか。こうなると守備の誰かがピッチャーに入ることになるのだが、その誰かが内野手だったらそれはそれで俺にとっては最悪だったりする。

まぁ、事前に俺が野球経験がないことは言ってあるので、上手い具合に守備をローテションしてもらえることを期待するしかないところだが。


俺がそんな期待を寄せていると4回表の此方の攻撃が終了したようだ。

4回表の攻撃では打者6人中ヒット3本で得点1。

なんとか同点には追いついたようが、このままでは4回裏にまた点差が開いてしまうだろう。

よし!守備に出る前に会長さんのピッチャー交代の宣言を待とう。


「新見君、どうしたんだい?早くピッチャーマウンドに行かないと試合が始められないよ」


俺がベンチに座ってピッチャー交代の宣言を待っていると、不思議そうな顔をして田村さんが声を掛けてきた。


「えっ?でも俺、結構打たれてますし、そろそろピッチャー交代かと思ったんですが?」

「あはは。何を言ってるんだい。うちには他にピッチャーをできる奴なんていないよ」

「えっ?いや、でも、俺の球も速くはないですよ?それにすっぽ抜けまでしちゃってますし」

「あっ、そんなことを心配してたのか?」


別段心配している訳ではない。少し心苦しいだけなのだがそれを言える訳もないしな。


「あっ、いや、心配というか、他の人が投げた方が良いんじゃないかと………、それに先程会長さんとご相談されていたようなので」

「ああ、さっきの相談は別件だよ」

「別件、ですか?」

「あ、うん。商店街の仲間内の相談」

「あっ、そうだんですか?」

「あはは。新見君面白いね。『そうだんです』って」


ちがーう!今のは素だ!そこまで親父ギャグに精通してないから!


「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。それに会長が最初に言ってなかったっけ?うちのチームは伊藤さん以外はピッチャー経験はないし、誰が投げても新見君と変わらないからね」

「は、はぁ。それでも90キロの球を投げられる人もおられるんですよね?」

「ああ、八田(やだ)さんのことだね。うん。八田さんは投げられるけど彼はサードで守備の要だからね。彼がピッチャーをやると今度はサードが空くんだよ。それに今の新見君の球より少し速い程度だからそれ程変わらないよ」

「はぁ、そうですか? まぁ、そういうことでしたら………」

「うん。そういうことだから宜しく頼むよ」


う〜ん。この田島さんの話からするとピッチャー交代はないようだ。というか、ピッチャー交代ができないと言った方が正しい気がする。

でも、そうなると負け戦確定だぞ?!

って、あれ? でも、そもそも素人をピッチャーに起用している時点で勝つ気はないんじゃないのか?だって、この状況だと助っ人の人が出来る出来ないに関わらず否が応でもピッチャーをやるしかない。

ということは………、この試合は最初から消化試合だってことにならないか?


おぉ、な〜んだ。そういうことか!

それならそれで早く言って欲しかったところだ。

これなら心苦しいと思わなくても良いので気が楽になる。

よし!それじゃあ、思う存分俺のモブを演じようではないか!


◇◇◇


『プレイボール!』


俺達が各自の守備位置に着くと審判の開始の合図が告げられる。

この回の先頭バッターは4番バッターからだ。

この4番バッターの人からは見るからにパワーヒッターという感じが滲み出ている。ユニフォームの上からでもボディビルダーと言われても疑わないぐらい鍛えられているのが分かるからな。


確かこの4番バッターとの今までの戦績は、第一打席はサードゴロ、第二打席はセンターフライだった筈だ。

他のバッターは俺の不安定な投球による落差に対応するために長打狙いからヒット狙いにシフトしてきたが、この4番バッターだけはブレずに長打狙いを続けている。

このおかげで今のところ俺が打ち取れていると言った方が正しいな。


しかしまぁ、今となってはその辺も気にする必要はない。4回裏までは少しでも打たれないように考えながら投げていたが、何しろ消化試合と分かったので今は好きなだけ打ってもらって構わない。

それよりも今の俺にとって重要なのはモブアピールの方だ。

ここはバッターを気にせず、これまで通りストレート時々すっぽ抜け投球を継続するのが一番だろう。


ビュン! カキーン!!


おぉ、飛ぶ飛ぶーーー!………、っと、落ちる落ちるーーー!

ああ、惜しい!レフト前ヒットだ。

第2打席の時も思ったのだが、俺が球速とバックスピンを落としているので、どうしても打球の飛距離が4番バッターの腕力に依存してしまっている。

あれほど筋肉がついていても腕力だけでは飛ばないもんなんだな。

もっと上手くボールの下半分を打てばもう少し飛距離が伸びそうな気もするが、俺の球の落差に対応してアッパースイング気味になっているから上手く合わせられないのかもしれない。

この感じだと横に曲がる球を織り混ぜて揺さ振ったら三振にできそうな気もしてくるが………、まぁ、俺には関係ないか。


その後、5番バッターをセカンドゴロに打ち取ったが、6番バッターにセンター前ヒットを打たれて塁に出ていた4番バッターがバックホームに返って1失点。

また点差が開いてしまった。果たして何点差まで開くのだろう?


◇◇◇


結局、5回裏は4ヒット2失点で終了。トータルで4対6の2点差になってしまった。


うん。やっぱりこれは負け試合確定だな。

でも、恨むなら今日参戦できなかった伊織先輩のお父様にしてくださいね。

それに素人の俺にピッチャーをさせなきゃならない選手層にも問題がありますからね。

俺は決して悪くないですよ!っと、俺は何を言い訳してるんだろう?!


俺がそんなことを考えながらベンチに戻ると、サードの八田さんが声を掛けてくる。


「おう、新見君、なかなかやるじゃないか!」

「えっ?そうですか?2点も取られましたよ?」

「いやいや。2点なら御の字だ。伊藤のオヤジさんが休みって聞いた時は負け試合確定だと思ったが、この点差だとまだまだ挽回できるからな」


えーっと、八田さん?あのぉ………、バカですか?

確かに今は2点差ですが、まだ5回終わったところで2点差ですよ?

しかも毎回得点を許していて点差が開いていってるんですよ。このままだと単純計算でも9回が終わる頃には6点差ですからね。足し算してます?


「いや。俺がピッチャーですからね。これ以降も打たれますよ」

「ああ、でも心配するな。その分打てば良いだけだ!」


おぉ、男前!カッコいい!

八田さんは熱血スポーツ魂全開で自信満々に語っている。

けどまぁ実際此方のチームの人達も結構打っているので冗談とも言い切れないか。


う〜ん。でもなぁ、何か大切なことを忘れてるんですよねぇ。残念ながらこっちにはノーヒット確定の俺がいるんですよ。一人分不利なんですよねぇ、これが。

申し訳ないですが、ここは素直に最初の予定通り諦めてください。


「おっ、そうだ!」

「えっ? いきなりどうしたんですか?」

「いや。良いことを思いついてな。よしっ!この試合に勝ったらお礼に1年間無料で野菜を提供してやるぞ」

「えっ?野菜をですか?タダで?でも、どうしてですか?」

「ああ、うちのチームは3部リーグ昇格を目指しててな。さっきも言ったが今日の試合は諦めていたんだが、この調子だと勝てるかもしれないからな。それぐらいの褒美があってもいいだろう」


ええーーー!?重い!いきなり重過ぎる話を聞いてしまった気がする。3部リーグ昇格って何?

えーっと、こういう時は………、

あーあーあー、今日は晴天なり晴天なり……。うん。俺の耳は日曜日で何も聞こえてない。


「いや、でも野菜1年分って凄い額になりますよ?」

「ああ、それなら大丈夫だ。俺の家は商店街で八百屋をやっているからな。売れ残りで悪いが勝ったらそれを1年間提供してやるって話だ」

「おっ、八田さん、面白そうな話をしてますね。それじゃあ、私はお肉を1年間無料で提供しますよ」

「あっ、牛山(うしやま)さんはお肉ですか。それじゃあ、私は魚ですね」

「何々?! みんなして提供するんだったら俺もしない訳にはいかないな。じゃあ、俺は乾物と味噌を提供するわ」


何処から湧いたのか何時の間にか俺と八田さんの周りに人が集まってきていて、何故かしら勝手に盛り上がっている。

おーーーい。俺を置いてきぼりにしないでくださーーーい。

それに皆さんそんなことを言っていると破産しますよ?


「??? えーーと、皆さん何を盛り上がってるんですか?」

「あ、ああ、そうか。まだ言ってなかったね。彼等はうちの商店街の店主さん達なんだ。八田さんが八百屋で、牛山さんがお肉屋、魚沼(うおぬま)さんが魚屋で、乾(いぬい)さんが乾物と味噌を売ってるんだよ」

「は、はぁ」

「そうそう。だから遠慮しなくても売れ残りで良ければ1年間ぐらい大したことないよ。まぁ、俺の店は眼鏡屋だから提供できそうなものはないけどね」

「田村さんがそれを言うかねぇ?」

「あはは。乾さん、すみません」


そう言えば会長さんは商店街の会長という話だったな。

なるほど。このチームは商店街の人達がメインでチームを作っているのか。

通りで大盤振る舞いとも思える超豪華景品をいとも簡単に懸ける訳だ。


って、ちょっと待て!

この話が本当だとすると試合に勝ったら1年間タダで食品を貰えるということか?

さっき八田さんが言っていた売れ残りという話ではあるが、それでも充分に豪勢な食品だ。

俺の家では魚のアラですら年に1回食べられるかどうかぐらいだからな。

しかも、肉に魚に野菜に乾物と味噌。これに米が加われば完璧と言える布陣だぞ!

それに今の我が家の晩飯の食費を100円として計算すると、月3000円、年間で36000円もの出費が浮く計算だ。おぉ、すげー!諭吉さん3枚に一葉さん・漱石さんまで着いて来る!凄い豪華メンバーが我が家でお寛ぎになられることになるではないか。

肉に魚に野菜に乾物と味噌、それと一緒に諭吉さん一葉さん漱石さんが俺の家で楽しく踊っている絵が浮かんでくる。これはまさに宮廷の舞踏会というやつだ。何これ、楽しそう!


「おぉ、ニー……、おほんっ!に、新見君、良かったじゃないか!」

「あっ、伊藤先輩。いやまだ勝った訳じゃないですからね」

「いや。これは勝つために全力で臨むしかないだろう!うん。大丈夫だ!新見君なら絶対勝てりゅ!」


うん?伊織先輩は一体どうしたんだ?

さっきまで沼地の底に沈んだような感じだったのに、急に嬉しそうにはしゃいでいる。最後なんて舌が回ってなかったし。

まぁ、自分のお父様が欠場してその助っ人に後輩を呼んでおいて負けたとあっては気分も良くないだろうし、皆さんがまだやる気だと知って嬉しくなる気持ちも分かりますけどね。


しかし、ようやくモブルートの安定攻略の兆しが見えてきて、しかも消化試合だと思って気を抜いていた矢先に一点して勝戦ムードになっても、これはこれで困ってしまう。

いきなり今から球速を練習投球の時に戻すわけにもいかないし、かといって直ぐに方策なんて思いつかないからな。

う〜ん。一体どうしたものか………?


「新見君、次は君の打席だから準備しておいた方が良いよ」


あっ、ついつい豪華景品に気を取られていたが、次は俺の打席だった。


「あっ、田村さん、すみません。直ぐに行きます」

「おお、新見君!頑張ってこい!!」


伊織先輩、本当にどうしたんですか?目がキラキラ輝いて気合入り過ぎで気色悪いですよ?

まるで今にも自分が打席に立ってホームランでも打ち噛ましそうな勢いだ。

伊織先輩大丈夫かな?またイッてないかな?


っと、今はそれどころじゃなかったな。


そして俺がバッターボックスに立ってバットを構えると………、

初球から絶好球が飛んでくる。


ビュン! カキーン!


よしっ!ジャストミートだ!

おぉ、上がる上がるーー!っと、落ちる落ちるーー!


バシッ! アウト!


今、俺が綺麗に打った打球は空高く舞い上がり俺の後ろに立つキャッチャーのミットの中に綺麗に収まった。

どうも相手のピッチャーも少し疲れてきたのか球が少し浮き気味のようだ。


俺がキャッチャーフライに倒れてベンチに戻ってくると、伊織先輩が顎が外れそうな勢いでボケーっとした顔を晒して呆然と立ち尽くしている姿が目に入る。

伊織先輩、ダメですよ!その顔は年頃の少女が見せる顔ではないです!

それはさすがに編集でカットしておいてもらった方が良いですね。俺ならカットせずに採用しますけど。


それにしてもこれ程喜怒哀楽が目紛しく変わる伊織先輩を見るのは初めてだ。先日の空手の練習試合で頭を打ってどこかネジが飛んだのだろうか?少し心配になってくるな。


「に、新見君、今のは………?」

「あ、ああ、相手のピッチャーも疲れてきてるみたいで球が浮き気味になっているみたいですね。そのおかげでボールの下を叩いちゃいました」

「あっ、ああ、そう………なのか。それは残念だったな。つ、次は期待しているぞ」

「はい。頑張ります」


しかし、頑張ると言ってもなぁ。まだ良い案が見つからないんだよな。

今の打席にしてもキャッチャーフライ(球に当てながらヒットは打たない方法)で急場を凌いだが、早く方針を決めないとこのままという訳にもいかない。


う〜ん、この回の裏からのピッチングもどうするか考えないといけないなし、いろいろと考えることがあり過ぎて困ってしまう。

モブピッチングの第3弾・第4弾も残っているので、まずはそれから試してみるのもありか? でも、それだと少しばかり延命するだけで、そのうちまた打たれるのは間違いない。誤魔化せても1〜2回程度だろうし。


本当にどうしたものだろう?こうなったら諦めてやるしかないのか?!


◇◇◇


俺がなんとか対策を決めてから試合に臨み、回は進んで今は9回裏の最終回。

この回が終われば泣いても笑っても試合終了だ。

そして今の試合の状況はというと、なんと点差は1点差でしかも勝っている。まぁ。負けていたら9回裏に投げてないけど。


それにしても、この商店街チームの打撃力は半端ないな。相手ピッチャーの疲れもあるが、ジリジリと点差を縮めて9回表の攻撃で逆転してしまったのだ。

日頃商売で重い物を持ち運びしているからだろうか疲れ知らずで力強い。おじ様パワー恐るべし!


まぁとはいえ、1点差で勝っているといっても油断ならない緊迫した状況には違いない。

というのも現在俺の目の前のバッターボックスに立っているのは4番バッター。しかも2アウト2ストライク3ボール、ランナーは2・3塁という状態で、あと1球で勝敗が決まるというなんともお手頃定番お決まりなシチュエーションだ。

これがアニメならこの後の展開が分かっているのに手に汗握って魅入ってしまう状況だな。


よしっ!それじゃあ、俺も負けずに最後の1球を決めますか!

ここはランナーを気にせず振り被って………、全身全霊をかけて投げる!


ビュン!


◇◇◇


「ああ、双葉、もうお腹ペコペコだよ」

「そうですね。試合に熱中していて忘れてましたが、もう12時も過ぎてますからね」

「そうですね。手に汗握る良い試合でした」

「うんうん。ホントに良い試合だったよね。野球もいいよね」

「………」

「それでは隣の公園に芝生の広場がありますので、そこでお昼にしませんか?」

「あっ、それ賛成!もう待てないからね。近くにしよ」

「そうですね。それでは隣の公園に移動しましょう」

「よし!じゃあ、レッツゴー!」

「………」


野球の試合は午前中に行われて本来お昼までに終わる予定だったのだが、打撃戦となったために試合が終わったのが12時を回ってしまっている。

俺も日頃は絶対にしないスポーツをした所為かお腹が減って仕方がない。

今日は俺は助っ人で、みんなが俺のお弁当も用意してくれているので、どんな料理が出てくるのか楽しみだ。まぁ、そうは言っても平日の双葉先輩との弁当交換会と然程変わらないだろうが、それでも日頃家では食べられない豪華メニューだからな。否応なく心が躍ってしまう。


って、それにしても伊織先輩が先程から握り拳を作って下を向いたままプルプル震えて喋らないが、どうしたのだろう………?

あっ、まさかお弁当を忘れたなんて言わないよね………?

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