第4章−[3]:誕生日プレゼントも命懸け
俺は今、体操服の上に胴当て、肘当て、膝当て、籠手と脛当て、それとフェースマスクを着け、道場の中央に立っている。
そして隣には異様なまでに眼をキラキラとさせ、これから起こることにワクワク感を微塵も隠そうとしない伊織先輩が立っている状況だ。
「それでは私が審判をさせてもらおう」
「お父様、宜しくお願いします」
伊織先輩がお父様に向かい、綺麗な姿勢で礼をする。
えっ?審判?型の練習にどうして審判が付くの?型の練習って試合形式なの?そんなことは聞いてないんですけど?!
あぁ、何か非常にヤバい状況に陥っている気がしてきたぞ。
「それでは双方、開始位置に立って」
「はい」
「はぁ」
俺は指示された開始位置まで移動すると伊織先輩の方に向き直る。伊織先輩も準備万端のご様子で開始位置から此方の方を向いている。
伊織先輩からなんとも言えない危機感が襲ってくるのだが大丈夫だろうか?
そして、一呼吸の静寂の後、
「勝負、はじめ!」
ターンッ!タンッ!ヒューーーーーン!スー!トーンッ!
ヒューーーーーン!ゴロゴロゴロ!
………
俺は『はじめ』の合図と同時、見事なまでの後方3回でんぐり返りを極めていた。
ここで今、何が起こったかと言うと、
『はじめ』の合図と同時に伊織先輩が右足で踏み込み、その勢いを乗せたまま左足を軸にして、俺に上段前蹴りを喰らわせてきたのだ。
しかも寸止めなしの心臓直撃コースでだ。
えーっと、俺は今、軽く殺されなかったか?というか軽くどころか確実に殺しにきたよね?
これって型の練習でしょ?どうして急所を寸止めなしで射抜くの?下手したら肋骨の2・3本どころでは済まないんですが………?
「ニート、すまない!大丈夫か?!」
俺が後方に飛ばされ四つん這いの姿勢で驚きと困惑が混ざった顔をしていると、伊織先輩が慌てて俺の方に向かって走ってきた。
「えぇ、なんとか………」
「良かった。少々気合が入り過ぎて間合いを測り間違えてしまった。許してくれ」
いやいや、そこ間違えちゃあダメでなとこですよね?
救急車と警察のお世話になっちゃいますよね?
「いやまぁ、なんとか無事だったんで今回はいいですけど………」
「そうか!許してくれて助かる。………と、ところで、も、ものは相談なんなんだが………、もう1本………付き合ってくれないか?」
「えっ?」
「今度は大丈夫だ。絶対、間違えないようにする!」
伊織先輩はそう言うと、俺の意見も聞かずにそそくさと開始位置に戻っていった。
すみません。ここでも俺の意見は尊重されないのでしょうか?
今、殺されかけたの俺ですよね?その俺の意見を聞かないのは所謂暴行と言うのではないでしょうか?
まぁ、最近練習相手がいなかったと言っていたので気持ちは分からなくもないが………、
あと1回だけですよ。ホント、それで終わりですからね。
俺と伊織先輩は再度開始位置に立ち対峙する。
う〜ん。伊織先輩の表情は先程と変わらず眼をキラキラとさせ嬉しそうにワクワク感を醸し出している。ただ、瞳の奥に先程まではなかったギラついたものを感じるのだが気の所為だろうか?
「勝負、はじめ!」
ターンッ!タンッ!ビューーーーーン!スー!トーンッ!
ヒューーーーーン!ダンッ!
………
今度は見事な横蹴りを喰らわされて俺は横方向に飛ばされてしまっていた。
えーっと、今、伊織先輩の足刀が俺の脇腹を確実に捉えましたが………?
さっきの言葉はなんだったんですか?反省してます?ねえ?反省してますか?
俺が上半身だけ起こした姿勢で驚きと困惑と訝しさが混ざった顔をしていると、伊織先輩がまたまた俺の方に向かって走ってくる。
「ニート、すまない!もう1本頼む!」
そして伊織先輩はそんなことを言うと颯爽と開始位置に戻っていった。
えっ?それだけ?
大体、その『すまない』はもう1本に掛かっているのか、それとも俺を飛ばしことに対してなのか、どちらに対してなんですか?絶対、もう1本の方ですよね?!
それに、あなたはどうして開始位置でまだかまだかという期待に満ちた顔で俺を見ているんですか?おかしいですよね?
うん。これは確実に反省してないな!そんな色は微塵もなさ気だ。
クソッ!分かりましたよ!付き合えばよ良いんでしょ!
どうせ俺は拒否権の与えられていないボッチのサンドバックですよ。
今日からサンバ君と呼んでもらってもいいですよ。絶対、浅草のカーニバルで優勝してやるからな!
それにしても、伊織先輩の眼の色が先程までとは違っているよな気がする。
まるで野獣が楽しいおもちゃを見付けて全力で遊びたがっているかのような眼だ。
これ少しイっちゃってないか?
そして俺と伊織先輩は三度目の対峙をする。
「勝負、はじめ!」
ターンッ!タンッ!クルン!ビューーーーーン!スー!トーンッ!
ヒューーーーーン!ダンッ!
………
ははは。今度は回し蹴りですか?しかも上段とはなかなか果敢に攻めてきますね。
もう俺が人間だということを忘れてますよね?ねえ、忘れてますよね!?
「ニート、もう1本頼む!」
えっ?とうとう『すまない』という言葉すらなくなりましたか!?
これはかなりヤバい状況になってないか?本当に救急車のお世話になるんじゃないのか?
それから俺は、回し蹴りの中下段、外回し蹴りに後ろ回し蹴り、正拳突き、底掌付きに鉤付きなどなど見事なまでにサンドバックを堪能させられた。
そしてそれに合わせて伊織先輩の眼からはキラキラ・ワクワク感が消えていき、今や完全に野獣が獲物を仕留めることだけに満足感を見出している眼(まなこ)へと変貌している。これ完全に悦に入ってるな。
う〜ん。これは完璧に危険な香りしかしない。
そろそろこの辺が潮時だろう。これを最後に終わった方が良さそうだ。
死人が出たら笑い事じゃ済まないからな。この場合、死人は俺ってことだけど。
「勝負、はじめ!」
ターンッ!タンッ!ヒューーーーーン!
えっ?
『はじめ』の合図と共に俺の視界から伊織先輩の爪先が姿を消し、踵が高々と持ち上げられる。
今の伊織先輩の体制はというと見事に1本の脚で1本の棒のように直立している状態だ。
この体制が意味する技といえば一つしかない。そう。踵落としだ!
でも、それって禁じ手ですよね?何故に型の練習でその技の練習をする必要がありますか?
って、最初から型の練習じゃなかったな。
しかし、これはマズい!非常にマズい!
何がマズいかと言うと、踵落としの場合、当たった瞬間同時に同じ方向へ跳べない点なのだ。
もしそのまま同時に跳んだとしたら俺の顔面は自ら畳に叩き付けられることになり、更には追撃の如く踵が後頭部に襲い掛かってくる。これは正直笑えない。
まぁ、当たった瞬間にその場で前空転をして受け流すという手もあるにはあるが、これは俺の身長を考えると俺の踵が逆に伊織先輩を直撃してしまう。
どうする?どうする?どうする?
俺の脳がフル回転し回避方法を模索している最中も伊織先輩の踵は容赦なく迫ってきている。
ああ、クソッ!
踵が俺の脳天を直撃する直前、俺はギリギリのタイミングでバックステップを踏むと後方へ飛び退いた。
バンッ!
伊織先輩の踵は俺のフェイスマスクを掠り、そのまま畳へと突き刺さる。
わぁ、畳が可哀想!
って、今の踵落としはどう考えてもフルスイングですよね?躊躇いなく振り切りましたよね?
その畳が俺の頭だったらどうなっていたと思います?ねえ、考えてます?
………
あぁ、こりゃダメだ!
伊織先輩は脳内麻薬のアドレナリンとドーパミンの海に沈んでいるご様子で眼が完全にイッていらっしゃる。これはもう状況判断すらできていなさそうだ。
こうなったら最終手段のあの手を使うしかないだろう。
そう。この手の格闘競技において強制的に勝負を終わらせる日本古来から伝わるあの方法だ。
俺は素早く伊織先輩の前に正座すると同時に頭を畳に付け、
「参りま………」
バサッ!ビューン!
えっ?今、伊織先輩が立ち上がって再度を足を振り上げなかったか?
だって、ほらぁ………、
俺の目の前にフラミンゴのように伊織先輩の脚が1本しかないし………
って、待て待て待て!今のこの体勢で踵落としを喰らったら確実に救急車を飛び越えて霊柩車を呼ぶことになる。
でもでもでも!この体勢からはバックステップはおろか前空転もできやしないぞ。
えっ?えっ?えっ?ひょっとしてオワタ?
って、余裕をぶっこいてる場合じゃないな。
どうする?どうすればいい?
その時、あるものが鮮明に俺の眼に飛び込んでくる。これだ!これしかない!これなら全てを終わらせられる!
俺は慌てて正座から左足を一歩前へ踏み込むと、そのまま前のめりの体勢で、
右手を突き出し………、
その右手で伊織先輩の軸足となっている脚のアキレス腱を掴み………、
躊躇うことなく手前に引き寄せた!
ヒューーーーン!ドンッ!
………
………
………
「いおり〜ん!」
「「伊藤せんぱーーーい!」」
その光景を見た双葉先輩と愛澤、琴美が血相を変えて伊織先輩の元へ駆け寄ってきた。
「君達、伊織なら大丈夫だ。日頃から無意識に受身を取るように鍛錬しているからね」
伊織先輩のお父様がすかさず3人に心配しなくても大丈夫と声を掛けてくれる。
しかし当の伊織先輩はと言うと、まるで蛙を仰向けの状態で寝かせたような体勢でピクピクと痙攣していらっしゃる。
お父様が言われたように畳に倒れた瞬間受身は取ったようだが、何しろ垂直立ちの状態から畳に落ちた所為もあり、勢い余って後頭部を畳に打ち付けてしまったようだ。
お父様は念のため伊織先輩の元まで行くと、瞳孔と呼吸、脈拍を確認し、俺達の方に向かって和かに『大丈夫』と首を縦に振って見せた。
ああ、俺が死ななくて良かったぁ。これで一安心だ。
えっ?伊織先輩のことは心配しなくて良いのかって?
これはあれだ。伊織先輩の自業自得だ!
決してモテることのない俺にとって性別というものは存在しない。この世の中において唯一無二と言っても過言ではないくらい俺は完璧な男女平等主義者だからな。
でもまぁ、それに伊織先輩が受身を取ることは信じていたし、何より俺がこの眼でしっかりと受身をしたところを見ているので安心しているだけだけど。
しかし、この姿は伊織先輩と将来結婚する人には絶対に見せられない格好だな。俺は絶対に旦那さんになる人にはバラしませんから安心して眠ってください。
そんな風に俺達が失神している伊織先輩を囲って心配そうにしていると、そこへ一人の女性が現れた。
その女性は着物姿に髪を後ろでお団子のように結っている見目麗しい日本美女で、歳は30代後半ぐらいだと思うが、なんとも日本男児の漢心を刺激する色気を醸し出している。
「皆さん、お食事の用意ができましたので、そろそろ………、あら?どうしたのですか?」
「ああ、お母さん、伊織が練習試合で気を失ってしまってね」
お母さん?お父様のお母さんにしては若過ぎませんか?
というか、今までのは練習『試合』だったのか?初耳なんだが!
「あら?伊織さんが?珍しいですね」
「そうなんだよ。彼がその相手なんだがね」
お父様はそう言うと俺の方に顔と視線を向ける。
「………、もしかしてあなたがニートさん?いつも伊織がお世話になってます。伊織の母の伊吹(いぶき)です」
えっ?伊織先輩のお母様?
ということは………、お父様のお嫁さん?
う〜ん。この組み合わせはありなのか?本当に美女と野獣を具現化してしまっているぞ。
この二人で街を歩いていたら間違いなく通報するからな。うん。俺はする!
「あっ、えーっと新見です。伊藤先輩には日頃からお世話になってます。今日はそのぉ………、すみません」
俺は日頃の感謝を込めて挨拶をした後、チラッと横目で気を失って蛙ピクピク状態の伊織先輩を見てから、伊織先輩を気絶させてしまったことの謝罪をした。
「いえいえ、空手道場の娘が気絶をする方が恥ずかしいことなので気にしないで」
「うむ。そうだな」
えーっと、お父様、お母様、今眼の前で気を失っているのはあなた方の娘さんですよね?
それで良いんですか?そんなことを言っていると武闘派の娘が育ちますよ?って、なるほど!この親にしてこの子ができあがってしまったのか。
「そんなことより、お食事の用意ができてますので、皆さん広間の方で食べてください」
「そうか。それじゃあ、皆さん、ささっ!広間の方にどうぞ」
「いや、でも、伊藤先輩が………」
「大丈夫ですよ。そのうち目が覚めますから」
「「「「………」」」」
俺達は困惑しながらもお母様に勧められるまま道場を後にし、広間の方に向かうことになった。
伊織先輩、大丈夫かなぁ?
あれだけ汗を掻いててしかも道着のまま仰向けで寝ていたら風邪を引くんじゃないか?
まぁ、夜までには寝床まで運んでもらえるとは思うけど………、
ここは食事も早々に切り上げて帰宅する方が良いだろう。
◇◇◇
俺達の目の前には、俺が今までに見たこともないような豪華な料理が並んでいる。
こ、これは………、俺の家の晩飯何年分の食材に相当するのだろう?
これ全部食べてしまって良いのか?って、普通に考えればいい訳ないよな。
俺は素人なので最初にどこまで食べて良いのか教えておいて貰えると嬉しいのだが。
「今日は皆さん、伊織の誕生日パーティーに来て頂いてすみませんね」
誕生日パーティーと言っても本人不在ですけどね。って、俺が言えないか。
「それじゃあ、お腹も減っていることでしょうし、いっぱい食べてくださいね」
だ・か・ら!それじゃあ、どこまで食べていいのか分からないんだって!素人には懇切丁寧に説明してほしいものだ。
そして俺がどこまで食べて良いのか分からず思案していると、
「あら、ニート君、お腹は減ってないの?」
「新見です。っと、いえ………、減ってない訳じゃなくて何を食べようかと思いまして」
「そんなこと悩まなくても、好きな順に食べれば?残さず全部食べちゃってね。若いから食べられるでしょ?」
えっ?今なんて言った?残さず全部食べて良いと?
えーっと、それって………、どこかにカメラを持った人が隠れてないよな?どこに居るんだ?
こんなのドッキリ以外何物でもない!それぐらいさすがに俺でも分かるからな!
と、周りを見ると、既に他の生徒会メンバーは並べられている料理を思い思いに食べ始めている。なるほど!こいつらもグルか!
俺が警戒心を剥き出しにしてカメラマンを探していると扉から人が入ってきた。
ほら、来た!ビンゴだ………
「あっ!」
「あら!」
今入って来た人は、俺が伊織先輩の家に来る途中に、歩道でアタッシュケースの駒が亀裂に挟まれて困っていたお婆さんだ。
どうしてこのお婆さんが此処に?もしかしてこのお婆さんがカメラマン?
ひょっとしてアタッシュケースが重かったのはカメラが入っていたからか?
「あっ、お母様、お帰りになられたんですね。お迎えにも上がらずすみません」
うん?今、伊織先輩のお母様がお母様と言ったということは、このお婆さんは伊織先輩のお婆さんってことか?!なんという偶然だろう。
「ああ、伊吹さん、気にしなくても大丈夫ですよ。それよりお客さんかね?」
「はい。伊織の学校のお友達で、今日は伊織の誕生日パーティーでお越し頂いたんです」
「はて?でも伊織がいないようだけど?」
「ええ、伊織は練習試合で気絶させられて道場で寝ています」
「ほぉ、伊織が気絶とは相手はどちらさんだい?」
「あそこに座っているニート君です」
お母様はニコニコと此方の方に視線を向けてくる。
やっぱり恨んでいるんですか?家族中で俺を悪者として共有しないでください。
「………、ああ、彼が伊織の彼氏のニート君かい」
「「「「「ブーーーーーッ!」」」」」
そのお婆さんの言葉で俺を含む生徒会メンバー全員が噴き出した。よく見るとお母様の横でお父様も噴き出している。
あのぉ、皆さん!食事中に噴き出すとははしたないですよ?!
ええ、まぁ、そりゃね。モテないことについては世界一を誇る俺ですけど、こうも堂々と噴き出すのは如何なものかと思うんですが、どうですかね?
確かに噴き出すほどツボに入ったのは分かりますけど……、いや、俺でも笑いますけどぉ……、
でもですよ!そこまで大胆に笑われると僅かに残っている残心までもが折れるので勘弁してもらえないでしょうか!?
クソッ!ドッキリより酷い隠し玉を出してきやがった!(泣)
「お母様、まだ彼氏さんじゃないですよ」
まだって何?そんな遠回しな拒否り方しなくても分かってますよ。
『まだまだ彼氏になれる程の人間じゃないですよ』って意味ですよね。
ええ、これからも一生ないですよ。伊藤家では絶望の底に落ちた奴を踏みつけるんですか!?
「あら、そうだったのかい?」
「それよりお母様、先程、ニート君を見て顔見知りのような素振りでしたがお知り合いですか?」
「ああ、此処に帰って来る途中、道にアタッシュケースが挟まって困っているところを助けてもらったんだよ」
「あら、そうだったんですね。それはそれはニート君はつくづく我が家と縁があるようですね」
うん?縁がある?それは良縁ではなくて悪縁ですね。
大体、父親には掌は潰されそうになるし、娘からは踵落としで殺されそうになって、最後は笑い者にしてくる家なんてそうそうない。これは鬼門以外何物でもないことの証しだろう。
よしっ!今日帰ったら伊藤家の方角に魔除けのお札を貼ろう。惟神霊幸倍坐世(かんながらたまちはえませ)!
結局その後、誕生日パーティーの間に伊織先輩は目覚めることはなく、誕生日パーティーと銘打った伊藤家の面々と生徒会メンバーの懇親会という食事会も終わり、俺達は帰路についた。
う〜ん。しかし俺は何しに伊藤家に行ったんだろう?
伊織先輩が不在な所為もあり食事も禄に食べれなかったし、その上、殺され掛けて最後はモテないことを再認識させられただけだ。
ゴールデンウィーク最終日だと言うのに散々な1日にだったな。
あぁ、こんな気分で5駅分も自転車で走って帰るのは辛いぞ〜!
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