∟[『フサギ』家の火事の理由]
「ちょっとちょっと! 慌ててどうしたの?」
ドアまで引っ張ってきたフサギは混乱しているが、今は説明している暇がない。今は一刻を争う。
しかし、ドアノブに手をかけたときだった。
ドアノブが独りでに動いた。
「あれー? 期待してて待ってねって言ったんだけどなぁ。どこへ行くのかなー?」
ちょうどドアの外まで来ていたアキラさんと鉢合わせしてしまった。だが、気にせずにアキラさんの脇を駆けぬける。廊下を通って階段を下がったときだった。ぴちゃっ、と靴裏で水音がした。
―――っ!
踊り場に水たまり、というよりすでに水浸しだった。
思わず一歩たじろぐ。さっき昇ってきたときはこうなってはなかった。
………まさか、こっちの経路はすでに……!
「きゃっ!」
フサギの小さな悲鳴とともに水が降ってきた。踊り場にいた二人は避ける場所なくそれを頭から浴びた。
「あ、ごめんなさーいっ。蓋を開けたまま走ったら零れちゃったぁ!」
ちゃぷんっ、ちゃぷんっ……と、追ってきたアキラさんは階段の上から白々しくペットボトルを振って見せつけてくる。
「そっちは危ないよ? 急いでると水たまりに足を取られちゃうかも?」
この水たまりを作ったのは間違いなくアキラさんだ。足止めのため、ではないだろう。本来の目的は――。
「あら、フサギさん。大丈夫?」
アキラさんの問いかけに返事はなかった。代わりに、ひゅーひゅーっ、と空気の擦れる音がとなりから聞こえる。真っ青な顔のフサギが自身の体を抱きしめていた。今にも崩れ落ちそうな肩を震わせているフサギは袖をつかんでくる。
そのまま倒れてきた小さな体を抱き留めた。
………おい、フサギ!
呼びかけに反応は返ってこなかった。意識はまだあるようだが、気絶しないようになんとか意識の縁にしがみついている様子だった。
「あらあら、大変♪ 部屋に戻ってユーキにでも看病してもらったら?」
アキラさんから守るようにフサギの体を抱き寄せる。
体温が高い。飲みかけのペットボトルのせいで“共有”が発動したのだ。体内に取りこんでないのに。
ああ、やっぱり……と思うまえにアキラさんを睨みつけた。
………なんで燃やさない?
問いかけとともに鋭く眼光を飛ばすと、アキラさんの口角が吊りあがった。
「最初はホテルに入らずに燃やしたほうが足が付かないなぁーとは思ったんだけどね。ほら、やっぱり全員いるか確認しておかないとねっ? 殺し損なうとあとが大変でしょ?」
冗談めかしく彼女は笑う。本当に冗談だったらどんなに良かっただろう。驚くほどあっさりと、自分が放火犯だと認めたのだ。
「でも、おっかしいなぁー。ひっそりこんがり焼こうと思ってたんだけど、どこでバレたんだろ。ねぇ、なんでー? 後学のために教えてくんない?」
そら恐ろしい内容に比べて軽快な口調はまったく悪びれていなかった。
………最初に怪しいと思ったのは、アキラさんの
あのとき、アキラさんは相手の個性能力を読み取れるのだと漠然と思っていた。だが本当にそうなら、一度接触したコースケの能力も分かっていることになる。
じゃあユーキさんが嘘を吐いたのかといえば、そうじゃない。アキラさん本人に確認すればすぐバレてしまう。アキラさんの能力に重大な勘違いがあると気付いたのはその少しあとになってからだ。
それはフサギがコースケ以外のだれかの記憶を見たと言ったとき。
共有できたということはどこかに他人のDNAが混入していたはずだ。あのとき体内に入れたものは二つしかない。ひとつはコースケの血液、もうひとつが生姜湯。
生姜湯を淹れてくれたのはユーキさんだ。フサギが見た
けれど、ケイジョウがいなくなったこの世界でのユーキさんは一人暮らしだ。その自宅が燃えて頼ったのも昔の職場で、現在の友人関係はだいぶ希薄な様子だ。ゼロとは言わないが、ユーキさん近辺の人間のDNAだとするのは可能性が低いと言える。大元を辿れば、あの生姜湯のパックはプレゼント品で、贈った人物はアキラさんだ。
そして、問題はなぜDNAを仕組んでいたのか、だ。
飲食物に自分のDNAを含ませる理由なんてほとんどの場合はない。ここで
『相手の個性能力が分かる能力』。ユーキさんの言ってることに矛盾がなければ、それはDNAを使えば直接触れなくても同等の効果が得られるはずだ。今フサギがそれを受けているように。
つまり、
この力があれば、ケイカのDNAとアキラのDNAを混ぜれば、いつでもどこでも『
これが放火の元凶だと考えに至ったときは偶然なのか故意なのか、まだ分からなかった。
「そうそう! 最初はね、空き家を放火したんだ。ちゃんと燃えてくれるかの実験も兼ねてね。そのあとは近隣のターゲット……ケイカと接触があった人に聞き込みしてね。こういうとき報道機関って便利よね! 取材のお礼として飲み物とか、あとテレビ番組の懸賞品と偽ってアロマや化粧品を簡単に渡せる。もちろん私のDNA入りでね」
確証を得たのは、今この瞬間だった。
「で、そこまで分かっているなら、自分たちが置かれた状況ももちろん分かっているよね!」
今、飲みかけの飲料水を頭から被ったこの状況は、いわば灯油をかけられたと言っていい。あとはケイカの
踊り場がこの状況なら、この下の階もすでに仕込みが終わっているだろう。混迷状態のフサギを連れて進むのは自殺行為だった。
「本当に……アキちゃんが犯人なの?」
上の階で女性の声がした。あとから遅れて来たユーキさんが話を聞いていたようだ。
「お久しぶりです。ユーキ先輩♡ 二度と会えないと思ってました。電話がかかってきたときは化けて出てきたのかと……あっ、それ以上近づかないでください」
子供たちが火達磨になってほしくないでしょ? と、アキラさん……いや、アキラが笑った。
ユーキさんはまだ信じられない様子だった。
「なんで、なんでこんなことぉ……!」
「知りたいの? 知らなくても困らないと思うけど、うーん。じゃあ、逆になんでだと――」
………嫉妬、だろ?
二人の会話に言葉を挟む。二人とも面を食らった顔をしていた。
フサギの見た記憶には恋心と失恋。そして、ケイカの
高校のころ、アキラはケイカに出逢い、恋をして、そして失恋した。いや、失恋せざるをえなかった。二人は触れるだけで発火してしまう。相手の個性能力を知ったとき、絶対に結ばれぬ運命だと気付いて
この恋は、スタートラインにすら立たせてくれない。
ケイカと幸せになる女が憎い。
ケイカと愛し合える女が憎い。
ケイカと触れ合える女が憎い。
触れられた指が、囁かれた耳が、啄ばまれた唇が、憎い。
そうして、嫉妬の火が灯った。
………許せなかったお前は嫉妬に狂った。見知らぬだれかを焼き尽くすくらいに
この放火の手口では本当にケイカと関係がなければ何事もない。でも実際に接触していれば、それが濃密であればあるほど激しく炎上する。
「わぁすごいっ、まるで探偵みたい。せいかーいだよーっ……って言いたいところだけど、残念。それは発端に過ぎないわ」
………発端? もしかして最初の、十年前の放火事件?
「そう! 最初は魔が差して、ちょっとした悪戯のつもりだった。ユーキ先輩にほんの一端でもいい。すこしでも私の苦しみを知ってくれればいい。本当に、それだけだった。でも、大事になって、怖くなって……。けど、そのときに気付いた。
私には運命を越えられる能力があるって!」
………うんめ……え?
予想だにしていなかった言葉に思考を持っていかれた。
「あの事件は結果的に婚約を止めた。運命のレールの切り変わる音が聞こえた。愛した相手と結ばれない、何人も何十人も…………それはまるでほかに結ばれる運命の人がいるというお告げのように!」
言っている意味が分からなかった。理解しようとすると、目が眩んでくる。
「他人の理解なんて要らない。けど、ケイカは気付きはじめてた。愛した人間が死んでいくことに。自分は大きな運命の中にいるってことに。それが私との運命だって気付く、あともうすこしで……」
うっとりとした顔で頭上を見上げる。もうその瞳に映る景色は一つだけしかない。すでに自意識は境地へと達していた。
「……そんな」
そのとき、寄りかかっているフサギの手に力が入るのを感じた。
「そんな……そんなもののために…………わたしの、家族は……!」
激昂はどうしようもない苛立ちとともにフサギを奮い立たせる。体調が悪くなければ掴みかかっていただろう。
逆にアキラはなにを言ってるか分からないように首を傾げた。
「犠牲になった人たちには申し訳ないと思ってるけど……フサギさんとこの家庭に同情はないわね。愛を誓って結婚しておいて浮気してたんだから。当然の報いよね」
人の平穏を奪っておきながら当然なはずがない。どんな身勝手な理論を並べたところでそんな資格はだれにもない。けれど。
「……うわ、き?」
さっきとは打って変わってフサギは弱々しいうめき声を出す。
………聞くな、フサギ
「アナタの家、浮気調査してたみたいよ? からの、炎上。それが浮気の証拠でしょ?」
接触が濃密であればあるほど激しく炎上する。さっき自分の説明に当てはめるなら、その可能性は高い。けど、今のフサギには刺激が強すぎる。
「ただの幸運を当たり前だと勘違いして口開けて待っているだけの人間にはひとつの感情も動かない。運命は自分で手繰り寄せるものだって気付かない豚には。私は手に入れる努力をした。アナタは怠惰に手放したの。 これは至極当然のこと。私たちの運命の礎になってくれて……ありがとうね♪」
………このっ!
すべてを投げだして一発殴りたい衝動が沸点まで達した瞬間。アキラの顔に拳が入る。
その光景を驚きながら俺は見ていた。ナースが人の顔に右ストレートを入れる光景を。
「コースケちゃん、走って! 今通ってきた通路の反対側に非常階段がある! そこへ向かってぇ!」
アキラにつかみかかったユーキさんが叫ぶ。
それを合図にしてフサギを抱きかかえて階段を昇る。目指すのはもちろん非常口だ。
………っ
扉を開けるとそこは真っ暗だった。火事で営業外のため不必要な
………フサギ、手を繋ぐぞ
この
歯を使って手袋を外した。
「ダメ、だよ……はぁ、はぁ…そんなことしたら、っ、アナタが……!」
フサギの吐息は熱を排出しているようだった。フサギの『
これは一種の賭けだ。
「ダメ、だって言って……私が『女神』……かもしれない、でしょ?」
その言葉に触ろうとする手を一瞬止めた。
フサギは悲しそうに微笑む。
「だから、アンタ一人…………だけ、でも……」
フサギが『女神』という可能性。今までの人生はずっとそれを探してきた。今“共有”すれば精神を乗っ取られるかもしれない。
だが、俺は鼻で笑い飛ばして、手を握った。
だって、フサギは女神じゃない。
これは信頼でも願望でもない。ただの確証だ。
触れあった指先に静電気が走る。フサギの
次の瞬間、紅蓮に揺れる炎が瞳を焦がした。
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