∟[『コースケ』がキスをする理由
それは闇に融けながら近づいてくる。
倒れている『コースケ』の真後ろに、いる。
………どっち、だ?
目が裏返りそうになるほど眼球を捻る。一瞬だけ目の端に、銀色の金属特有の光が闇のなかで揺らめいた。『コースケ』を削ぎおとすための、ナイフ。
『コースケ』は息を呑む。乾ききった喉の粘膜がその摩擦で剥がれた。鉄の味だけが舌に広がったが、そんなこと歯牙にもかけなかった。
ただ、背後を意識しつづけた。
そして突然、強い光が目に刺さった。
「……大丈夫? って聞くのはさすがに野暮だね」
光の向こうから、言葉が落ちてきた。
その明かりに反射して、彼女……マコトが浮かびあがった。彼女は懐中電灯で照らして、『コースケ』の状況を確認する。
「……遅くなってごめんなさい。これが全部外したら飲み物持ってくるね」
彼女は
………よかった、よかった
最悪の光景を想像していただけに安堵が胸を突いた。マコトが生きている。それだけで、それ以上のことはなかった。
束縛が全て解けるまで、少しだけ話をした。喋れば喋るほど喉が痛んで声がかすれた。けど、なんでもいいから話したかった。
彼女の持っている刃物――それは、女神が持っていたものだった。争った末に奪いとったらしい。………よく奪いとったものだ、と感心する。
彼女は「私、護身術、習ってるから」とどこか気恥ずかしそうに言った。護身術を習っているから、という言葉だけで説明できるとは思えない状況ではあったが、妙な説得力もあった。ラッキースケベをいなせるのはその実力もあってのことと再認識する。
他にも、今は「デートしてから二週間ほど経って月末である」こと、『
時間の経過はもっとすさまじく長かった気がしたが、拷問にも似た生活のせいでそう感じただけのようだ。
マコトがあの『女神』に対して、怖気づかずに立ち向かっただけでも驚きだった。しかもさらに、攻勢に回り無力化までさせた……のか。驚愕を通りこして尊敬してしまうレベルだ。
それに………ここがどこかは知らないが、よく見つけられたな、と。
「……見つけられるよ」
………え?
「どんなに離れていても、私はあなたを見つける。もし生まれた場所や時代が違えても、どんな困難が立ち塞がっても。この赤い糸が、あなたに繋がっているかぎり。私はあなたのもとに辿りつけるよ」
やっと、すべての束縛を解いた彼女は、小指と小指を合わせるように手を握ってくる。その根本を撫でてみせた。彼女のスキン『運命を見る能力』で、赤い糸を手繰って『コースケ』のもとまで辿ってきたのだ。彼女の言葉が力強くて、なぜか目の奥から涙が溢れてきた。
しかし、言葉の力強さに対して、握ったその手は弱々しく震えていた。
「……本当はね。すこし怖かった」
小指を立てて、彼女は赤い糸を確かめるように、その根元をなぞった。
「実は、赤い糸が解けそうだったの。……あなたの
彼女が言うには、元々の赤い糸はいわば『仮結び』の状態だったらしく、あのデート――マコトと約束をしたことにより、強く結びなおされ『本結び』の状態になったそうだ。『コースケ』があのとき引き留めてなければ、赤い糸を頼りできなかったかもしれない、と。
「たぶん、あのとき結びなおさなきゃここまで来れなかったと思う。でも……」
彼女は力強く握りなおした。弱々しさはもう感じなかった。
「……ちゃんと結びなおせた」
そう言って、彼女は笑ってみせる。
やっと不安から解放されたような、屈託のないその笑顔に、これ以上ないほどに勇気づけられた。胸に感謝の思いがただ溢れて、震えた。握ろうとすればするほど握力はどこかに逃げていったが、それでも、いま出せうるだけの力で手を握りかえす。
………ありがとう。ただ、ありがとう
この手はもう二度と放さない、放したくない……そう思った、―――その時だった。
マコトの背後が、まるで光が強くなればなるほど影が濃くなるように、闇が深まって、歪んだ。『女神』の笑顔に、歪んだ。
そして、反応する暇もなく、一閃の光がマコトごと巻きこんで闇を裂いた。
「ぇ……?」
小さく声をこぼして、マコトは倒れこむ。『コースケ』は無意識に手を伸ばし、その体を支えた。
「どぉ……して……?」
思考が追いついたのは、腕のなかでぐったりとうなだれるマコトが、うめきのようなか細い声を聞いたあとだった。
………え?
ボトッ……ボトッ……、と粘り気のある脂汗が赤く濁って、手に落ちてくる。マコトが、なにか刃物で切られたのだ。それは音もなく気配もなく、闇のなかで近づいてきて、……揺らめいた。目のまえで闇が、揺らめいた。
『コースケ』はそれ目掛けて勢いよく体をぶつけた。考えるより先に体が動いた。体当たりの確かな手応えが全身に返ってくる。転げる音が闇のなかに反響した。
とっさの体当たりだったが、上手くいったことに喜ぶより驚いた。
しかし。
腹に違和感を覚えた。視線を下げると腹部に銀色の金属光が見えた。触ってみると血が出た。いや、すでに出ていた。ナイフが刺さっている……体当たりしたときに刺さったものだ。疲労により痛みはおそらく半分も感じなかったが、そもそもの身体が限界で一人で立っていられない。足がふらついて、そのまま前のめりに倒れた。当然、腹部のナイフが床に押しこまれて、さらに奥、内臓を抉った。
………ぁ、これ……やば……ぃ
出血の熱で内臓が煮える感覚。弱まりきった肉体にこの仕打ちは、さすがに終わりを意識せざるをえなかった。
………死、ぬ? いや、死んだらダメ、だ……せめて、マコトだけ、でも……
手のひらで床を押したが、まるで立ち上がれない。力がすり抜けていく。
倒れているマコトと目が合った。虚ろな瞳だ。マコトはかろうじて息を震わせている。彼女も立ち上がれそうになかった。
………っ、すまん……すまないっ……
謝っても始まらない。そもそもなんの謝罪なのかもわからない。それでも、そう思わずにはいられなかった。自分の無力さを悔やまずにはいられなかった。
なのに、彼女はなぜか微笑んで、力を振り絞った手を伸ばす。『コースケ』の手をぎゅっと握って、眼前まで引き寄せた。
「えにし、を……」
彼女の唇がこわばる。
………もう喋るな、と言いたかったが、口を開くまえに、抱きよせられて。
キスを、した。
そして。
ぷちっ。と。
糸が切れるような。
意識が途切れる音がして。
『コースケ』は死んだ。
ぐしゃり。
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