∟[『コースケ』が拘束されている理由]
茹だるような温度と湿気を閉じこめた黒い部屋に、『コースケ』はいる。
………まずは現状の整理、そして思考の整理からだ
デートをして。
『女神』の話を聞いて。
マコトと別れて。
どうやってかは定かではないが、次の瞬間にはここにいた。
この黒い部屋に。
あまりに唐突すぎた。
最初は殺されたのだと『コースケ』は思った。だが、なにやら違う。ここは暗くて黒い部屋だ。現実の法則に則っており、あのときの
しかし、目覚めたその肉体は異常だらけだった。
まず、手足は椅子に縛られて固定されている。結束バンドのようなもので何重にも執拗に巻きつけられている。易く外せそうにはない。
次に、口がナニカで塞がれて、唇から後頭部にかけて締めつけられる感覚。おそらく猿轡というものだ。なんどか舌を這わせて『コースケ』は気付いたが、先端部分にはボールギャグの代わりにおしゃぶりがついている。ふざけた猿轡だった。しかし、おしゃぶりの中に何かが入っている。そこから甘くて酸っぱい柑橘系を強めた香りが、口の裏を伝って鼻腔をくすぐる。否応なしに唾液腺を刺激してくる。
耳にも詰めものをされている。ドクドクッと体内に流れる血液の音が鼓膜で反響する。心臓のなかに脳味噌があるかのような錯覚を引きおこさせてくる。
『コースケ』は項垂れた自分の首を起こす。そのとき、首の裏から鈍い痛みが走った。どうやら後頭部を強く殴打された形跡のようだった。状況から察するに、それで気絶させてこの部屋まで連れ去られた、ということだろう。
つまり、『コースケ』の現状――誘拐、そして監禁。それ以外に考えたられなかった。
………ここはどこだ?
そして。
「あは♥」
………こいつはだれだ?
闇のなかに気配がある。吐息が笑っている。形を確かめるための舐めてくる視線。
だれかが、いる。いや、分かっている。
『コースケ』だけには肌で感じて分かった。目のまえの人物は『女神』だ。確信に至るよりも早く、そして強く、その事実を理解してしまった。不可逆のはずのものを毛穴に逆流している感覚。全身が呑まれる。恐怖。いや、恐怖……よりも深い、闇。
「あなたが、あなたが悪いんだからぁ♥」
耳栓のせいで音に膜が覆っていて判別できない。ただ、なんとなく、だれかに似ている。『女神』というわけではない。おそらくこちらの世界に来て出逢った、だれか。
とりあえず、便宜上『女神』と呼ぶが、この既視感についてはさきほどの確信ほどには至らない。……いや。
「……!」
そのとき、『女神』の気配がすこし変わった。
「……ふふ。また来るね♥」
『女神』は『コースケ』の背後にまわり、視界から消える。そして、しばらくして完全に気配も消えた。
おもわず、『コースケ』は胸を撫で下ろした。
………いや、ほっとしている場合じゃない
どうにかして、この状況から脱出を考えなければいけない。
世界を滅ぼさないため。
マコトとの約束を守るため。
………考えろ、考えるんだ
『コースケ』は必死に思い起こす。
この世界に来るまえの、
『トラックを運転して轢いた』と。
『それはあなたをこの手で直接殺すために』とも。
そして、あの部屋から出るとき、こちらの世界に来るときに、『絶 対 に 逃 が さ な い』と。
もし言葉通りにとって今の状況を鑑みるなら、『直接自分の手で殺すために』『こちらの世界に転生してまで追ってきた』ということになる。そして、トラックで轢くという方法は『その世界の法則に則って』の殺人だ。………気まぐれでそのポリシーが変わる可能性は捨てきれないが
そして、この監禁が計画された犯行なら、最初から『コースケ』を狙っていたなら、すくなくとも知り合いの可能性が高い。いや、そもそも、犯人はマコトとのデート……遊園地に来ていたはずなのである。
………もしそうなら、『女神』は尾行していた人間のなかに――――
「あは♥」
耳元で声がして、思考が一瞬にして吹き飛んだ。
「無駄だよ? どんなに思考しても、ここからは出られない。ここで一生を過ごすんだから♥ だから、考えたらダーメ♥ あなたのしたいことはそれと違うでしょ?」
「あは♥」
『女神』の笑いが、熱い闇に溶ける。汗がボトボトッ……と、重たく落ちた。
…。
一日が経った……くらいだろうか。
この部屋にいると時間感覚が狂う。まるで時間を無限に引き延ばされているかのような感覚だ。茹だるような温度と湿気のせいで拍車がかかっている気がする。ときどき、『女神』からかけられる水が救いだった。熱で膨張する頭と体が冴える気がした。
ボトボトッ……ボトボトッ……
その頭をなんとか働かせる。
あれから、気が付いたことは三つ。
まず、一つ目。
かすかに換気扇のような機械音が聞こえる。おそらくこの温度と湿度を維持するための機械だ。こいつらのせいで気温の変化が感じることができない。この機械音といい、この黒い部屋といい、『コースケ』の時間感覚を捻じ曲げてくる。おそらくだが、それが目的だと思われる。
次に、二つ目。
眠ることができない。もっと言うと、浅くしか眠れない。この状況だったらそうかもしれないが、一番の原因はこのおしゃぶりだ。食欲を煽る香りが鼻腔をくすぐりつづけてくる。そのくせ食事は全然来ない。眠ろうとしても、喉のおくに溜まる唾液が気管を塞ぎ、強制的に息苦しくなって起きてしまう。おかげで睡眠不足だ。
最後に、三つ目だ。
かすかだが、『女神』以外の人の気配がするのである。この部屋に入ってくるのは『女神』だけだが、部屋の外で何人か生活している気配がある。おそらく、二人。多くても三人。
………『女神』に肩入れする人間だろうか。それとも、監禁のことを知らない人間だろうか。後者なら唸り声でも上げれば気が付いてくれるだろうが、前者だった場合のリスクが高すぎる。
結局のところ、『
………おそらくケイジョウの手帳の中に記述された人物。もっと言えば、デートにストーキングしていたやつの中にいるはずだ。この中に女神がいる。いるはずなんだ……!
ボトボトッ……ボトボトッ……『コースケ』の頭のなかは同じところを何度も逡巡していた。ボトボトッ……ボトボトッ……
………女神はすでに紛れこんでいた。遅すぎた。もっと警戒するべきだった。マコトの話を聞いたあとだったのに、くそ!
………いや、悔やんでも仕方がない。考えろ、なにかあるはずだ。考えるんだ……
「考えたらダメって言ったでしょ? なんで分からないの? あなたは何もできないの。なにもしなくていいの。それでいいの。それがいいの。わたしの幸せで、あなたの幸せなの。唯一の幸せ。唯物的存在の証明。なにもできない、なにもしない、なにも考えない。あなたにはなにもなくていいの。私だけがあなたの中にいるから♥」
近くで、『女神』が笑っている。
…。
「ほら、食事の時間だよ♥ お腹減ってるでしょ? 一生懸命、愛情込めてたくさん作ってきたから、思う存分に食べてね♥」
三日ほど経っただろうか。『コースケ』はおしゃぶりを外された。これまでの間、一度も食べ物を口にしていないので憔悴しきっていた。ただ、初めて口元が自由になり文句の一つも言いたかった。しかし、口を開くまえに口を塞がれた。
「んっ、あ……っふく♥ んぁ……ぁ♥ ふふ♥」
『コースケ』の口は唇によって塞がれた。強制的に上と下の歯を開かせられ、捩じこまれる。ディープキス、ではない。食べ物を口移ししている。久しぶりの無機物以外の舌触りに味覚が喜ぶ。
「まだまだあるからね。どんどんおかわりしてね♥」
雛が親鳥に餌をもらうように、何度も何度も口移しをされる。正直、悪劣な環境のせいで舌が痺れていたが、それでも美味しいと感じた。『女神』の目的は食べさせることよりもキスのほうだと推察できる。そう思うと癪ではあるが、身体は否応なしに反応する。貪欲に消化しようと、生きようと頑張る。なぜか反射的に、涙が出てきた。
「ふふ♥」
ボトボトッ……ボトボトッ……
一時間ほど経った。
お腹は膨れてパンパンになった。さすがに、これ以上は入らない。口を閉ざす。
だが、まだ口移ししようと、女神はさらに口づけしてくる。反射的に顔を横に振ったが、頭を鷲づかみで固定させる。唇を口づけで塞がれると同時に、鼻をつままれた。呼吸ができなくなって口が開いた瞬間、次の料理を喉奥に捩じこまれる。
「ぷはぁ♥ 料理たくさん作ったの♥ まだまだ、まだまだあるから♥ もっともっともっとおかわりしていいよ♥ ふふ♥」
ボトボトッ……ボトボトッ……
…。
二時間ほど経っただろうか。
「お残しせずに食べれて偉いね♥」
長い食事を、完食した『コースケ』の口にはおしゃぶりで塞がれる。お腹が破裂しそうで、嘔吐きが止まらない。
今食べたものが酸とともに食道に上ってくる。しかし、吐瀉物はおしゃぶりで堰止められ、口のなかで止まる。口内が重たく苦しくなって、息ができなくなって、呑みこまざるをえなくなる。だが、呑みこんだ瞬間に、また上ってくる……。
「じゃあ、お食事はまたいつか、ね♥」
…。
ボトボトッ……ボトボトッ……何時間いるのだろう。何回眠っただろう。何日経ったのだろう。一週間? 二週間? それとも、もう終末? 朝も夜も関係なく、目のまえは夜闇のそれと代わらない。ボトボトッ……ボトボトッ……トイレを垂れ流し、処理され。ボトボトッ……ボトボトッ……冷やされた飲料水をときおり頭から流され、必死におしゃぶりのあいだから飲もうとして。ボトボトッ……ボトボトッ……数日に一度、口のなかにこれでもかというほど料理を詰めこまれて。ボトボトッ……ボトボトッ……日に日に息が浅くなっていく感覚がする。酸素が足りない。唾液とともに息が口の端から落ちる。胃液の味がする。闇が体の末端から忍びよって、闇が頭上から背後に落ちてきて、闇が内臓から這い上がってくる。鼓動が小さくて、はやい。脳がすこしずつ捲りあがっていく。生きる感覚が、生きる瞬間がボトボトッ……ボトボトッ……薄くなる。
「そうそう、考えたらダーメ♥ あなたは私なしじゃ生きれなくさせてあげるんだから♥」
…。
視界がぐちゃぐちゃになってどこを向いているかわからない。……後ろ? ばかなことを。人はいつもまえしか向けない。今『コースケ』はまえを向いている。しかし、視界はぐちゃぐちゃになって、まえがうしろになっている。でも、まえを向いている。『コースケ』はまえを向いてうしろを見ている。まえがうしろで、うしろがまえ………ここはどこだ?
「ここは私の体中だよ♥ あなたはここで生まれ直すの♥ ね、私の、私だけの赤ちゃん♥」
女神は笑う。
…。
「壊れる? 壊れたい? いいよ♥ 私の手でひとつずつしっかり壊してあげるから♥ ちゃーんとっ壊れることができたら『よしよし♥』してあげるねー♥」
…。
ボトボトッ……ボトボトッ……蒸し暑い。脳の裏がフットウする。目眩がする。熱が殺す。真っ暗な世界に一瞬だけ輪郭が満ちる。視界が何重にも見える。暗闇。耳のなかに女神の声。唾液が重たい。泡だつ口内をおおって窒息する。喉奥が焼ける。全身を伝う汗が気持ちワルい。熱に殺される。ボトボトッ……ボトボトッ……熱に殺される。女神。ごめんなさい。赤ちゃん。介護。縛られる手足は血が滲む。自分の体から漂う濃厚な死臭。ボトボトッ……ボトボトッ……蛆。腐っていく感覚を。熱にころされる。耳栓のうちがわがまくで。蛆が。女神。ごめんなさい。ころれる。ボトボトッ……ボトボトッ……脳のうらで愛をかたる女神。赤んボウ。ゆび先シビれ。くら闇が暗やみに消えるマッタン。ボトボトッ……ボトボトッ……うじ。ころささる。ねつ。ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボ ボトッ……ボトボトッ …ボト トッ……
…。
ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ…ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ……ボトボトッ… ボトボトッ……ボトボトッ …ボ ボトッ……ボトボトッ……ボ トッ……ボトボトッ …ボトボトッ……ボ トッ……ボトボトッ… ボ トッ …ボトボ ッ…… ボトッ……ボ ボトッ……ボ ボト ボ ッ… ト ッ…… ボ
ボ ッ… ト ッ……
ボ ッ…
ト ッ……
「よしよし♥」
…。
とおいこえ。かすれ こえ。いつのまにか さけんで た。こえに な ないこえで。ふさが た くち。ふるえ た。こーすけのこえだ た。くるしい か。かなし のか。いかりなのか。わからな った。なんど 。な ども。からだ とびあが た。き づいた 。いすがたおれて る。めのまえに め。ひとのめ
ぎょろり。
「そっか♥ 私、分かっちゃった♥ 勝手に考えちゃう手足が悪いんだね♥ あなたの手足は人生で思考することをしつづけてきた。だから、動かずにはいられないんだね。なら、あなたの一部を少しずつ壊して、腐らせて、取っちゃえば、静かになってくれるよね。考えなくなってくれるよね。私以外の思考は邪魔だもんね♥ じゃあ、まずこの手足切り落とすね♥」
「この日のために、あなたのために、たくさん刃物を研いでみたの♥ よく切れる刃物……作れるようになったんだよ? ちゃんとキレイに取れるように、要らないもの全部削ぎとれるように、研究したの♥」
「頑張ったんだから♥ だから、いっぱい感じて♥ あなたの要らないものが削ぎとれていく感覚を、ただ感じて♥ 必要なら、あなたに思想を植えつけてきた人たち全員、削ぎとるから♥ だから、安心し……」
『女神』のことばがとぎれる。
………?
とうとつ。ではなかった。インターホンがなった、きがする。………いまもなんどもなっている?
「お楽しみ中なのに……。……あ、なるほど♥ 彼女ね。うふふ♥ ちょっとだけ待っててね♥ すぐに削ぎ落としてくるから♥」
………かのじょ? ……だれ?
………だれでもいい
………だれでも、かわらない
………だれ、でも……
「―――! ――――――っ! 」
………。
「―――さん! ―――なら返事を――!」
………?
「―――です! マコトです! 返事を、返事をおねがいします」
………まこ、と? まこと……マコ……
マコト!
目を見開いた瞬間、死んだはずの全身の細胞が一斉に生き返ったような激しさが全身に走った。
ドン!……と、そのとき、強い振動が走った。そのあとも続く大きな物音。
………争っている。今、マコトと『女神』が戦っている!
『コースケ』は暴れた。手首くらい捨てるの覚悟で暴れた。しかし、無情にも厳重な手首の縛りは外れない。涙が滲まずにはいられない。手首が擦り切れる痛みのせいではない。自分の無力さが悔しくて悔しくて仕方がなかったのだ。
気が付くと、部屋の外が静かになっていた。
どうなったのかは分からない。しかし、どちらかが負けたのはたしかだ。問題はどちらが残ったのか、ということだ。もし『女神』だったなら、マコトはもう……。嫌な光景が浮かぶ。
そして……。
しばらくして……。
キィ……。
だれかが部屋に入ってくる……気配がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます