第9話
一人でのバスケに幅をもたらすため、新たなバスケ教則本を買うことにした。都内の大型書店にまで足を延ばした甲斐もあり、そこのバスケ本コーナーはかなり充実していた。何を買えばよいのかかえってわからなくなってしまうほどだった。
パラパラと中身を見てみるが、どれも甲乙つけがたいともいえるしドングリの背比べのようでもあり、決定打に欠けた。あれこれ漁っていると、写真と文字のレイアウトが見やすく、解説も感覚に訴えるものではなく詳細に書き込まれた、僕の嗜好にあいそうなものが一冊見つかった。
分厚い本だったので値段を確認しようと裏返すと、そこには著者の写真とプロフィールが記載されていた。僕は思わず、げっと声を発しのけぞってしまった。
NBAの解説者としてその人のことはよく知っていた。正直あまり好きな解説者ではなく、その解説はノリとテンションが賑やかなのとうっとうしいのと紙一重という感じで、なのに肝心のプレイの解説はさらっと流してしまうところがあって、見た目も年齢のわりにチャラついていて、僕の中でこの人が解説の試合の時は外れ、という扱いの人だった。
その人が書いた教則本。いまさらっと目を通した限りでは良書に見えたけど、あの人が書いたのだと思うと途端に信頼度が急降下していく。
値段を確かめると、かなりの高額で予算ギリギリ。他の本と比べても、割高だった。ひょっとしてバスケ業界のなかでは比較的メディアで顔が売れているのをいいことに、ぼったくろうと強気な値段設定なのではと、下衆な勘繰りが頭を駆け巡る。
僕は本を書棚に戻し、おそらくそこにある中で一番無難と思われる教則本を手に取り、レジへともっていった。
あいかわらず凪ぃは帰ってこない。かといって僕の日常に何か変化があるわけでもなく、いつも通りに日々は繰り返される。今日も学校が終われば、凪ぃの家に寄って本や漫画を読むかバスケの試合映像を観て、バスケをプレイし、お茶の時間を過ごすのだろう。
少し変化があるとすれば、学校の授業以外の時間で、つまり今みたいな時間だ。特定のグループに所属しているわけでもなく、常日頃からツルんでいる友人もいない僕は、休み時間は読書か寝たふりでお茶を濁すことにしている。けど凪ぃと一緒にバスケするようになってからは、今日はこういう練習をやってみようとか、あの試合で観たプレイを凪ぃにも見せて一緒に再現してみようかな、と実際にできるかどうかはともかくあれやこれやと思いを巡らせて過ごすことが多くなっていた。思うだけならタダなんだからいくらだってするべきだよ、と述べる凪ぃからの影響なのだろう。凪ぃも凪ぃで、わたしこんなコンビネーション思いついたからやってみよう、と漫画の必殺技めいたものを提案してくることもしょっちゅうだったから、お互い持ち寄ったアイデアをその日の気分で気儘に試すのが、僕らのバスケライフの定番メニューとなっていた。
けど、凪ぃのいない現在は、バスケをプレイするといっても僕一人なので、できる練習にも限りがあるし、想像力をどんなに働かせてみても思いつく練習メニューには限界がある。
となると消去法で所在なく読書でもするしかなくなるのだけど、最近はいまいち読書に集中できない。凪ぃの家にいる時も、なぜだか本も漫画もバスケの試合映像も、身が入らずにただぼんやりと眺めている感じだ。僕が一番落ち着いて集中できる環境下でさえそうなのだから、学校では目も当てられない。本を開き数ページ目で追っただけで、すぐに本を閉じてしまうことなどしばしばだ。
結果的に、僕は寝たふりをして休み時間を過ごすことを余儀なくされる。まあそれは構わないけど、困るのは机に突っ伏し目を閉じていると、普段は気にもならない周囲の声がやたらと耳に入ってくることだ。
特にうるさいのはクラスでひときわ声の大きいバスケ部員たち。バスケに夢中というのをアピールするかのようにバスケ専門誌を片手にお喋りしているけど、会話の内容はといえば、あのバッシュはかっこいいとか、そのTシャツまじやばいとか、この選手のドレッドヘアーが俺の中で激熱だとか、バスケにおけるファッション関連の話ばかりで、バスケのプレイに関する話は一向に出てこない。どうせ彼らは、あの雑誌に載っている興味深いプレイ解説の記事なんかは読み飛ばしているんだろう。僕はそれを見て、自分たちでも再現できるか慎重に検討し、2秒後に無理だと結論を下し、けど諦めきれなくて凪ぃに相談した結果、すごくゆっくりと超スローモーションでやってみたらできるんじゃないという解決法を提示され、実際にやってみた結果、何が何だかわからない珍妙なコンテンポラリーダンスみたいなのをやる羽目になった。
まあそれはご愛嬌として、ともかく僕からすれば、同じバスケをしているのに彼らとは目線がまったく違いすぎて、会話の内容も中身がないすっかすかなものに思えてしかたなかった。どうせといっては失礼かもしれないけど、練習でも見た目が派手でかっこつけたプレイばっかりしているんだろう。スキンヘッドはなしだけどドレッドヘアーはありっしょ?とかいいながらチャラい髪をいじっているその姿が、それを雄弁に語っている。決めつけかもしれないけど、見るまでもなくはっきりしている、
あんまりにも耳障りなので、教師にギリギリ文句を言われない程度に薄く染められた茶髪を無理やりドレッド風にねじっている彼らの様子を、無意識に視線が捕えていた。もちろん、なんか用?とか言われないように机に突っ伏したままで視線だけを彼らに向けた格好で。
縄を編みこむように自分の髪をねじって束にしていくバスケ部員。ドレッドヘアーという言葉と、髪をつまみ編み込んでいく手の動きが、僕の中のバラバラの記憶を束ね手繰りよせていった。
「あんな髪型してる人がやってるお店、まともな店のはずないじゃない。近寄っちゃ駄目よ」
個人経営の本屋があったはずの一角にいつの間にかできていた、店構えからは何を売っているのかよくわからないお店。吸い寄せられるようにその店の前に佇んでいた僕の手を、母は引っ手繰るように掴んで、強引に店の前から引き離した。
僕は母が近くのスーパーで買い物している間、いつも本屋で時間を潰すことにしていたのだけど、いざ行ってみたら見慣れた本屋とは全く違う、禍々しい雰囲気が怪しく匂い立つ占いの館みたいなオーラを放っている店が、ニューオープンという前途洋々たる響きにはそぐわない血垂れ文字で描かれた看板を掲げていた。
本屋が閉店となってしまったことなど吹き飛んでしまうくらいに、妖しい気配をまき散らしていたその店に、幼い僕は我を忘れて魅せられてしまい、意識することなくその店に吸い寄せられていた。
その寸でのところで、買い物を終えた母親に腕が抜けるくらいの力でその店から引き剥がされた。後ろから一声かけることもなく無理やり店から遠ざけられた理由は、薄暗い店内で忙しそうに動き回っていた店主と思われる人の、長く伸ばした髪をねじって編み上げられた、ドレッドヘアーといわれるそのヘアースタイルだった。
僕の母は、店構えとその髪型のみで、店に入るまでもなくこの店は我が子にふさわしくないいかがわしいものだと判断したようで、僕はその後、この店への立ち入りはもちろん近寄ることすら禁じられ、その厳命を後ろ髪を猛烈に引っ張られながらも頑なに守ることになる。
その店は結局、何か月後かに影も形もなくなってしまうのだけど、最後まで何のお店かわからずじまいだった。それでも僕の記憶に、あのドレッドヘアーは強烈に焼付き、ドレッドヘアーに手繰り寄せられた幼き日の記憶は、机に突っ伏した僕の脳裏に、また別の記憶を引っ張ってくる。
「えいっ」
掛け声が聞こえるのと同時に頭皮にわずかな痛みを覚える。
「痛いよっ。何?」
こんな風にいきなり後ろ髪を引っ張ってくるのは凪ぃしかいない。まあこの家には僕以外、凪ぃしかいないけど。ばっちゃは凪ぃの中にしかいない。
「いや、むっちゃんって髪型かわんないよなーと思って。漫画のキャラじゃあるまいし」
確かに行きつけ、というかそこ以外に選択肢をもってないだけで幼い頃から通っている床屋では、いつも一緒のオーダーだ。
もちろん「どうします?」「いつもので」なんて気心の知れた注文を交わすわけではなく、「かゆいところありませんか」の質問に、どんなにかゆかろうとも「ありません」と喰い気味で答える程度の、ありふれた散髪屋と顧客の間柄。オーダー内容は「このままの形でほどほどに短く整えてください」みたいな、具体的なようで曖昧なよくわからない注文。そんな注文を苦もなく捌いてくれるのだから、この店のご主人はよく心得ている。ただし、もし仮にスキンヘッドにされたとしても、僕は何一つ文句を言わずにすごすごと店を後にするかもしれないけど。
「凪ぃだっていつも一緒じゃん」
僕の記憶にある限りでは、凪ぃの髪型のバリエーションは髪をゆるく束ねているか、風呂上りや汗かいた時にほどいているかに二つしかない。
「むっちゃんが知らないだけで、わたしはいろいろ試したよ。銀髪のベリーショートから紫の長ロングとかまで」
「そうなの?」
それこそ漫画のキャラみたいな髪型だ。
「そーなの。さんざっぱら試した上で、今のフォームに到るってわけなのだよ」
「今のその形がベストってこと?」
「うーん、ベストかどうかはともかく、現時点でのベターというか、落ち着き所としてはこんなとこかなと」
凪ぃの着地点にしては意外にも地味というか普通だ。似合ってるし、らしい髪型だとは思うけど。だらーっとしててい力は入ってないけど、よく見るとそれなりに手入れが行き届いてるところが凪ぃらしい。
「でもむっちゃんはずーっと同じじゃん。たまには伸ばしてみるとか、思い切ってスキンにしちゃうとかしてみたら?中学なら校則もそんなに厳しくないだろうし、ある程度までなら自由でしょ?高校だと学校によってはうるさいとこもあるから、やるなら今がチャンスだよ。イメチェンチャンス」
確かに一念発起して夏休み明けの垢抜けデビューとかありがちな高校デビューみたいなのはかえって恥ずかしいし、そういうことをするなら今がいい時期なのかもしれないけど。
「いいよ別に。イメージ変えたいとも思わないし、やってみたところでどうせ似合わないし」
今さら自分の外見に夢見るほど僕の頭はお花畑じゃない。こういうのは諦めが肝心だし、諦めるなら早いに越したことはない。
「やってもないのにどーして似合わないってわかるの?」
「わかるでしょ、僕のこの地味顔見れば。どんな髪型してもしっくりきちゃう人もいれば、僕みたいに地味なモブキャラみたいな髪型しか似合わない人もいるんだよ」
「まー確かに主人公キャラみたいな顔じゃないけど、そんなに卑下しなくても。意外とさ、むっちゃんみたいな王道普通キャラってさ、眼鏡とってみたり前髪を上げてみたりすると、あら不思議、実はお綺麗な顔してたのねーみたいな展開が」
言いながら凪ぃは僕の眼鏡を取り、前髪をかき上げる。
「……うん、地味だね」
申し訳なさそうに凪ぃは呟いた。漫画みたいなドリーミーな展開はそうそうないのだから、そんなに申し訳なさそうにされると、かえってこっちが恐縮してしまう。
「ね?だから今の髪型が一番無難ってこと。下手に変えて大失敗、みたいなことになったら最悪だよ。同級生からあいつ色気づきやがってとか、ご近所からあの子グレちゃったのかしらなんて思われるかもしれないしさ。それこそいきなりスキンヘッドになんかしたら、あの人、ちょっとおかしいんじゃない?なんて不気味がられちゃうよ」
笑いを誘うように僕は言った。
「なんで決めつけんの?」
それまで和やかだった凪ぃの目つきが、わずかに鋭角性を帯びた。
「似合わないと思うのもだし、周りから悪く思われるかもしれないっていうのもさ。そもそも周りの人が髪型でその人の人格まで決めつけるってゆーのだって、むっちゃんの手前勝手な決めつけだし。それってさ、むっちゃんがその人のことなにも知らないのに髪型とか見た目でこーゆう人に違いないって決めつけたりするから、周りもそーだって思っちゃうんじゃないの?」
凪ぃらしくない厳しさを滲ませた、問い詰めるような口調だった。
「それは……」
逃げ場のない袋小路に追い詰められたように、僕は答えに窮した。
「……まぁそーゆう側面もあるっちゃあるんだけどね。見た目どーりにブッ飛んでる人とか、チャラい外見に負けず劣らず中身もチャラいなーみたいなのもざらだし」
きつく締まった口調を凪ぃは顔つきとともに緩めた。逃げ場をなくした僕に逃げ道を与えてくれるみたいに。
「顔つきにその人の人生経験が滲み出てるとか、なくはないけど、どっちにしたってその可能性があるってだけだよ。ある部分だけ見て、その人のこと全部なんてわかりっこないんだから。ぱっと見ただけでわかるよーなとこだけじゃなくて、見るならそれこそ穴が空くくらいじっくり見なきゃーだし、見てるだけじゃわかんないこともいっぱいあるから、結局はその人と実際に触れあわなきゃなーんもわかりっこないよ」
普段の凪ぃのお気楽な顔からは深みとか厚みとか、濃密な人生経験を感じたことは一切ないけれど、その言葉は凪ぃが生きてきた中で自分の手で掴み取った確かな実感、のような経験値としかいいようのないものが込められていた。能天気にしか見えない凪ぃにすらこんな一面があるんだから、人間って見た目だけじゃわからないこともあるんだなと、僕は思わざるえなかった。
「ったくもー。そんな見方ばっかしてたら」
僕の眼鏡を取り、凪ぃは確認するように自分の眼にあてがう。
「やっぱりね」
と言いながら眼鏡を拭いた。
「む雲っちゃってるよ」
実際には曇っているようには見えなかったけど、眼鏡を取り上げられて裸眼状態の僕の視界は朧で、はっきりとはわからない。
「しょーがないなー」
ため息を吐くように息を吹きかけ、凪ぃは再び念入りに眼鏡を磨いた。
「放っておくと、すぐむ雲っちゃうからなー、むっちゃんの眼鏡は。世話が焼けるっていうか手がかかるってゆーか」
言葉とは裏腹に、微笑ましいものを見るように凪ぃは目を細めている。
「いっそのことさ、試しにメガネ変えてみたら?今は安くてお洒落なのもいっぱい出てるし。こんな黒縁無難眼鏡じゃなくてさ」
いいこと思いついちゃった!みたいな顔の凪ぃ。
「いいよ、これが一番落ち着くし」
眼鏡ショップに置いてある商品の中で最も無難そうに見えたという理由で選んだ眼鏡を凪ぃの手から奪還して、僕は眼鏡をかけ直した。買った当初こそ形の無難さが僕に落ち着きを与えてくれた眼鏡だけど、今では身に着けていて落ち着くのは同じでもその理由は当初とはたぶん違っている。凪ぃが何回も繰り返し丹念に曇りを拭い取ってくれた、たぶんその行為の積み重ねが僕に落ち着きを与えてくれている。
「また決めつけてるー。わかんないじゃん。どSキャラみたいな超極細フレームとかしっくりきちゃうかもよ。新たなキャラ開眼!みたいにさ」
凪ぃの眼は曇ってこそないけど、どろどろと濁り穢れきっていた。
「見た目でその人の性格まで決めつけちゃ駄目なんじゃなかったの?」
「まー確かにむっちゃんはこのむっちゃんメガネが一番しっくりきてるもんね。なじんじゃってるっていうか、今さらどSメガネかけられても困っちゃうか。展開とか裏切るにしても、いい裏切りと悪い裏切りがあるけどさ、むっちゃんが明日いきなりどSキャラにキャラチェンジしてたら、わたし裏切られた―って叫んじゃうかも」
「漫画じゃないんだから、眼鏡変えたくらいでキャラまで変わんないよ」
この性格を変えれるものなら変えたい。
「いやー、どうだろね。わかんないよ以外と。人は見た目で変わるから。顔にコンプレックスのある女の子が整形して性格まで明るくなったなんて話もあるしね」
逆に言えば、見た目で性格にまで影響を及ぼすには、整形までしないといけないということでもある。あと思いつくとしたら、相当量のダイエットとかくらいだろうか。
「とりあえず眼鏡はそのまんまにしても、髪型ちょこっと変えるくらいはしてみてもいーんじゃないの?短くしたり伸ばしたりはしないでも、今の長さのまんまでちょっと遊ばせてみるのもさ」
言いながら凪ぃは手櫛でそっと、僕の髪を真ん中から分けた。
「うん。あくまでむっちゃんらしさを保ったまんまで、ちょびっとだけ大人っぽさを醸し出しつつ可愛げもないでもない。いー感じ」
大人っぽさと可愛げって両立するのだろうか?凪ぃ独特の感性なのか、女性特有の感覚なのか。とにかく僕には感得できない領域だ。
「せっかく女子のほとんどが羨んじゃうくらいにふわっふわの猫っ毛なんだから、こーした方が絶対いーよ。ね?これからはこーすること」
それ以来、朝髪型を整える時間がなかったり、風で髪型が崩れていたりすると、必ず凪ぃの手櫛によって僕の髪は整えられた。ようするに、凪ぃの鶴の一声で、その後の僕の髪型が決定されることになったのだ。今に到るまで。
机に突っ伏して寝たふりをしている間に、どうやら本当に意識が飛んでいたらしい。変な体勢だったせいで、体が痛い。髪もくしゃくしゃに乱れているので見た目にかなりみっともないかもしれない。けど僕の髪は柔らかいせいか、櫛やドライヤーをつかわずに自分の手でさっと整えることができる。トイレの鏡で、いますぐ髪を直すことは可能だ。
「……いいか。誰も僕のことなんて気にしてないし、髪型ひとつで何が変わるってわけでもないし」
決めつけるように呟き、僕は凪ぃによって自分の中で定番となった髪型のフォームを乱したまま、その日を過ごし、その後もそれは変わらなかった。その日以来、僕の髪は分け目を失くした。
エアーバスケ 荒谷改(あらたに あらた) @nnnstyle
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