第8話

 少し一人での練習法を見直そうと想い、久しぶりにバスケの教則本を開いた。凪ぃがいたらこの練習にはトキめかないだのなんやかんや揉めるのだろうけど、一人なのでそれもなく、一人でもできそうな練習をとりあえず一通りやってみた。

 上手くできるのもあったしあまり上手くできないのもある。あまりあれこれ考えずに、上手くできないものを重点的にやり、時間が過ぎていった。

 いまいち練習に確信を持てず、どこか集中しきれなかった気もするけど、とりあえずやったのは確かで、やったからにはそれなりに成果は出ているはずだ。深く考えずにそう思うことにして、この日の練習を終えた。




 凪ぃは未だ帰ってこない。けど、僕は特に変わらず、いつも通りの日々を過ごしている。と自分では思っていたけれど、気づかないうちに生活に乱れが生じていたのだろうか。宿題のある日は、だいたい凪ぃの家に行くと真っ先に宿題を片づけてることにしているのだけど、あろうことか僕は昨日、宿題のことはすっぽりと頭から抜け落ちていたようで、結果として今、そのツケを拭う羽目に陥っている。

 同級生たちの「宿題やってきた?」という会話を聞いて、ようやっと宿題があることを思い出し、あわてて取っ組み合っている始末。いつも授業が始まるギリギリになってようやく宿題と格闘していたり友達に頼みこんで写させてもらっている人たちを、横目に見ながら心のうちでせせら笑っていた僕が、まさか同じ境遇に陥ろうとは思ってもみなかった。もちろん他人の火急の状況をあざ笑って見ているだけの僕に、宿題を写させてもらえる友達などいるはずもなく、自分で自分の尻を拭うしかない。後悔先に立たず、致し方なしということなのだろう。凪ぃに言わせれば、痛し型なしか。

 とにかくやらねば、と取り組むも、周囲の雑音が喧しく、刻一刻と過ぎていく時間も気になって、一向に集中できない。宿題をやる普段との環境との違いが、これほどいら立ちや焦りを募らせるとは思ってもみなかった。

 特に癇に障るのが、教室の後ろに陣取りひときわ大声で喋っている、バスケ部員たち。いつも周囲にアピールするかのような大音量で騒いでいるけど、今日はそれがいつも以上に気に障ってしょうがない。どうせくだらない話をしているんだろう。いつものように。

「お前、今日は宿題はいーわけ?いっつも写させてって拝み倒してくんのに」

「だってお前、代わりに俺の弁当のメインおかずぶん取ってくから、たまには俺も自分でやろーと思って」

「まじで?ってことは俺の今日の昼飯、メインなしじゃん。マジ勘弁だよ。うちのかーちゃんのメイン、ちくわなんだけど」

「んで、いざやってみたはいーんだけど、マジわかんなくて。なにがわかんないのかすらわかんねーっつーの?」

「おおっ、なんだよ水くせぇ。ならさっさと写せって、遠慮すんな。ちくわはやっぱ、サブがいーとこでしょ。メイン張るには役不足だわな、かーちゃんには悪ぃけど」

「んだけど、なんかどっかで見たことある図形だなと思ってたらさ、ガン見したら俺がもってる問題集に載ってるやつまんまなわけ。その問題集も買った初日だけ一通り流し見しただけで、全然手はつけてないんだけど」

「あれっ、もしかして俺の今日のメインって……」

「当然、問題集には答えもついてるから、ちくわってことにならぁな。ちなみに俺のメインは牛肉のアスパラ巻きだけど。副菜は鶏肉と豆腐のハンバーグ照り焼き風だったかな?」

「んだよそれ!!鶏肉のハンバーグは全然副菜じゃねーよ!ダブルメインじゃねーか。うちのかーちゃん馬鹿にしてんじゃねーよ!」

 心底どうでもいい、僕の集中を妨害してやまない愚にもつかない会話だけど、望外にも彼らは耳よりの情報をもたらしてくれた。その問題集なら、僕も持っている。授業内容が説明されなくてもわかりきっている時なんかに、暇つぶしがてらにちょこちょことやっているので、基本的にいつも鞄の中に入っていて、今日ももちろん入っている。当然、答えもセットになって。

 鞄から問題集を取り出し、パラパラと捲ると、確かに宿題と全く同じ図形の問題が載っていた。図形の形から細かな数字、問題の内容まで何から何まで一緒。僕は机の上の問題集としばしの間、睨み合った。

本来ならまともに問題に取り組むことなく答えを丸写しなんてすべきじゃないし、授業までの時間から逆算してどうにも間に合わないというほどではない。集中して取っ組み合えば、自力で片付けることができるはずだ。でも今はとてもまともに集中できる環境じゃないし、時間も差し迫っている。もし独力でやらざるえない状況であれば、集中も可能だったかもしれないけど、解答を丸写しできるという状況が余計に僕の集中を乱してくる。宿題出す側の先生だって自分で考えるのが面倒くさくて、ばれないだろうと手近にあった問題集をそのまんま丸写したに違いない。だったら僕だって。

 自分を弁護するように言い聞かせ、集中できない責任を自分以外の外部に押し付けて、問題集の解答欄へとページを捲り進めていった。

パラパラと解答ページに辿り着くまでに、とある図形が、ふと僕の視線を横切り、車窓の風景のように横に流れていったその図形が、僕の脳裏に古い記憶をよぎらせた。




「これはこうすればいいの!わかった?わかったわね?」

 母はいつも、こう言って僕ができないことを、結局自分でほとんどをやってしまう。ミカンの皮が綺麗に剥けずに手がぐじゅぐじゅになっているのを見れば、心底嫌そうな顔をして「これはこうすればいいの!」といって僕からミカンを取り上げ自分でやってしまうし、たまの外食でフォークやナイフを使う時なんかも、慣れない手つきで耳障りな音を立てナプキンにソースが飛び跳ねたりしてるのを見ていられずに「これはこうすればいいの!」と自分の手元に引き寄せ綺麗に切り分けてしまう。

 そんな母の手は僕の遊びの時間にも及び、確かその時はレゴブロックで遊んでいる時だったと思う。お城や山など、説明書に載っている単純な形を一通り作れるようになった僕は、載っている中で一番難易度の高そうなもの、言葉でどう説明していいかわからないけど、複雑な図形としか言いようのないものに着手しようと試みた。前々から、いつかこれにチャレンジできるようになりたいと密かに思っていて、ようやくそこに辿り着いたのだ。

 やる気まんまんに挑んだはいいけど、いざやってみるとちっとも完成までの道筋が見えず、説明書とにらめっこしてるばかりで一向にレゴは組みあがらない。ただただ苛立ちが積もるばかりで、集中力もどんどん奪われていく。終いには腹立ち紛れにもっていたレゴブロックを床に叩きつける始末。せっかく誕生日に買ってもらったレゴブロックをぞんざいに扱う自分に呆れてしまい、その救いようのなさを反省する。少し冷静になろう、そう思った矢先だった。

 思い通りにならないことに直面した幼子にありがちな風景をその眼に捕えた母は、居ても立ってもいられずに僕の前に城塞のように立ち塞がり、いつものように言い放った。

「これはこうすればいいの!わかった?わかったわね?」

 僕が投げ捨てたのと僕が未だ手に持っているレゴブロックをその手に取り、説明書を見ながら自分で組み立てていく母。最終的に、ほとんど完成間近になって、ほらこれをこうするのよ、と僕にわずかに残ったレゴブロックを握らせて、自力で完成させたかのような体裁だけを取り繕ってみせた。

 一度切れてしまった集中を、とり戻す時間も余裕も落ち着きも、一切合切を横から強奪されたような気分だった。僕は何も言えず、母の手で組み上げられていくレゴを茫然と見つめていた。お為ごかしのように最後のわずかな部分だけ、母の指示のもと、自分にとって悲願だった図形を完成させた。その図形は、幼いながらに僕の心に深く刻まれた。心の中心部が図形の形に添ってくりぬかれ、その図形型の空洞が、胸の中に生じたようだった。

その図形が、めくるめく僕の記憶を、ページを捲るようにさらに少しだけ進めていった。




「だいじょーぶ、むっちゃんならできるって」

 凪ぃが祖父母の家を譲り受けて、放課後毎日のように訪れるのが当たり前になると、僕は学校で出された宿題を自宅ではなくそこで消化(こな)すことにしていた。面倒事は早め早めに片してしまった方がその後の時間をゆったりと過ごせるし、何より凪ぃの家では不思議と宿題も捗った。

 とはいえ苦手な宿題も中にはあり、一向に進まず苛立つこともたまにはある。特に工作系のものや、家庭科などの縫い物などは苦手項目で、この時も家庭科の授業で出された、手提げ袋に自由にデザインした刺繍もどきを施す宿題に手を焼いていた。元々、授業中に終えてしまえば家に持ち帰ってやる必要もないのだけど、ぶきっちょな僕は時間内に完成させることができず、こうして持ち帰ってやる羽目に陥っている。

 自分がこういった細やかな手作業が苦手なのはわかりきっているのだから、身の丈どおりの簡単なデザインにすればよかったのだけど、同じ苦労をするならそれなりに自分の気に入ったデザインに労力を使いたかった。なのだけど、この手のデザインセンスも皆無な僕は、気の利いたアイデアを思いつかず、さんざ脳味噌を振り絞った挙句に着想したのが、過ぎし日に自分の手からその99パーセントを取り上げられた、あのレゴブロックで作ろうとした複雑な図形だった。

 それ何?へんなのーと周りからは言われたし、教師からもいわく言い難い顔をされたが、デザインは自由にというルールだったので、却下されることはなかった。いったん思いついてしまったら、頭からこびりついて離れなかったのだ。

 けどいざ実際に制作してみると、わかりきっていたことだけどわかりきっていた以上に手間がかかった。当然授業時間内で完成することはなく、宿題として持ち帰って凪ぃの家でやっていても、まったく針が進まず進むのは時計の針のみ。次第に苛立ちが募り、こんなに面倒な図形を選んだ自分を恨み、ついには匙を投げるかのように針を置こうとした。

「だいじょーぶ、むっちゃんならできるって」

 それまで頬杖をつき、僕が額に汗してるのを何を言うでもなくぼんやりと見つめていた凪ぃが、やおら口を挟んできた。

「できないよ。こういうちまちました作業、苦手なのわかってるんだから、こんな無謀なデザインしなきゃよかった。今からでも変えちゃおうかな」

 縫いながらずっと思ってたことを、吐き出すように僕は言った。

「もったいないよ、そこまでやったのに。それにその図形、なんかこう、言葉にできない魔力というか呪力みたいのが込められてそうでかっちょいーじゃん。絶対変えない方がいいって。だいじょーぶ、焦らず慌てず、落ち着いて集中してやれば、絶対にできるって。集中集中!ちまちまと四苦八苦しながらチクチク針動かせば、いつかできるって」

 僕が投げ出そうとしてることに対し、チクチクと小言を言うのとは全然違う、かといって押し付けがましい激励というほどでもない、そっと背中を押してくれるような、諦めそうになる僕を勇気づけてくれる柔らかな口調だった。

「むっちゃんは確かに手先が器用とはいえないけどさ、ちゃんと集中して時間をかけてやればできるってわたし知ってるから。できないことに慌てる必要も苛立つ必要もないんだよ。自分のできる速度で、じっくりゆっくりやればいいんだから。だーれも急かしたりしないから、思う存分自分のペースでやりな。疲れたらお茶でも飲んでひと息いれて、んでまたやればいーんだからね」

 のんびりと間延びした口調で、集中できずに一刻も早く面倒事から逃れたい一心に凝り固まっていた僕を、凪ぃはときほぐす。

「でも本当にできるかな。さっきからさ、何で僕、こんな事やってるんだろ?ってばっかり思ってるんだけど」

「わたしもそゆこと結構あるよ。あのマンガのキャラと別のマンガのキャラ、カップリングさせたら最高じゃん!あーでも、絵柄が違うから上手くマッチしないか……いや待てよ、絵柄が違うのなら文章だけで描いてみたらよいのでは?よしっいざ出陣!とやってみたはいいけど、時代考証のちゃんとした貴族キャラと現代物の媚び媚び萌えキャラだからさ、口調からなにから天と地ほどにも違っちゃって、辻褄合せに四苦八苦。わたし、これでお金もらえるわけでもないし、次の日は仕事で朝五時起きしなきゃいけない用事があるのに、すでに今夜中の二時なんだけど、なんでこんなことやってるんだろーって」

 同じ括りで語られたくないけど、凪ぃなりに共感を示して、同じ立場から僕を奮い立たせようとしてくれているんだろうから、余計な口は挟まないことにした。

「で、結局それ、一応最後までやり遂げたの?それとも途中で寝ちゃったの?」

 何となく、ペンを持ったまま机の上によだれを垂らして寝こけてしまった凪ぃの姿が頭に浮かんだ。

「このキャラ二人をカップルとして共存させられるのはわたしだけだけど、それを望んで止まない人もこの広い世の中に一人くらいはいるかもしれない、きっといるよ、いたらいいな、いなかったらどーしよう、いることにしよう、なんてことをぐるぐる考えながら、なんとか自分のペースで粘りに粘り、朝の六時まで机にかじりついて原稿用紙五十枚の大作が陽の目を見ることになったよ。あの時の朝陽の眩しさは一生忘れないね」

 ふっと遠くを見つめ、眩しそうに眼を細める凪ぃ。

 自分のペースを守り通した結果、時間オーバーしちゃったのはご愛嬌、で済む話なのかどうかは僕にはわからないけど、凪ぃ的にはハッピーエンドっぽい話ぶりなので、大事には至らなかったのだと思う。

「確かに、自分のためだけだと思うよりも、もしかしたら誰かのためにもなるかもしれないなんて思えば、少しは頑張れる材料になるのかな」

「そうそう。自分のためでしかないことなんだけど、無理くり誰かのためにもなることなんだ!とか思いこんだりすると、空元気みたいなエネルギーがチャージされたりするよ」

「でもこれ、自分の宿題だし、自分以外の人のためになんか絶対なんないよ」

 宿題はあくまで自分のためでしかない。だからちゃんとやらずに手を抜けば、そのツケは自分に跳ね返ってくる。平易な道に逃げて自分を甘やかしてしまえば、いつしかそれが当たり前になって、集中して物事に取り組む力みたいなのはきっと衰えていくはずだ。

「そんなことないよ。わたしはむっちゃんがヒーヒー言いながらもちゃんと宿題やり遂げてくれたうれしーもん。だからそれだけでわたしのためになるじゃん」

 そう言われると面はゆい気もするけど、僕が宿題をちゃんと完遂させるために無理やりな理屈をこねくり出した、みたいな気もしないでもない。実際の所、僕がこの宿題を一応やり遂げたからといって、凪ぃはそこまで嬉しいのだろうか。言葉ではなんとでも言うことができてしまう。

「物は言いようっていうか…正直、頑張る材料としては弱い、というか足りないような」

「えー、わたしが嬉しいってだけじゃ物足りないって、むっちゃん贅沢」

 唇を突き出して不平を申し立てる凪ぃ。

「あー、じゃーこうしよう。その手提げ袋さ、宿題として提出したら返してもらえるんでしょ?」

「うん。まあ宿題として作ったもの返されても、実際に使う人もいないだろうけど」

 この手の学校の課題として出された制作物の行きつく先は、だいたいが箪笥か押入れかひどいのになるとゴミ箱行き、っていうのが相場として決まっている。気まぐれに丁重に飾られたりもするけど、それも年月とともに行方をくらましてしまうのがほとんどだ。

「んじゃわたしにちょーだい」

 唐突な、思いもよらぬ凪ぃの提案。

「その図形かっちょいーし。なんか魔法陣みたいな呪術性を感じさせるしさ。ね、宿題じゃなくて、わたしへのプレゼントとして作ってよ」

 プレゼントして作るとなれば、確かに完全に凪ぃのため、ということになる。でもそうなると、人様にあげるのだからもっとちゃんとしたものを作らねば、というプレッシャーを感じないでもない。

「こんな不細工なの本当に欲しいの?」

「うん。喉から手が出るほど」

「それはさすがに嘘でしょ?」

「うん、正直そこまでではない」

 迷いなく前言を翻す正直物の凪ぃ。

「でも、もしもらえるんなら嬉しい、もうけもん、ってくらいには嬉しいよ」

 かえってそれくらいの方が、へんに重くなくてちょうどいいかもしれない。あんまり期待されてるのも困りものだ。

凪ぃの言葉でエネルギーはチャージされたような気がするけど、どうしても最後まで完成させるイメージへと結びついていかなかった。完成へと至らずに途中で取り上げられ、それに抗えずに指をくわえて見ていた過去の記憶がちらつき邪魔をする。

「だいじょーぶ。むっちゃんならできるって」

 重ねがけするように繰り返される凪ぃの言葉に後押しされ、僕は時間は相当かかったけど、どうにかこうにか宿題をやり遂げた。数日経って戻ってきた手提げ袋を、しばらくの間凪ぃは外出の際には肌身離さず持ち歩き、ご近所の人たちにこれむっちゃんメイドなんですよ!と吹聴して回るので、僕は恥ずかしさのあまり凪ぃにプレゼントしたことを呪う羽目になった。

 怪しげな魔法が解けたかのように、トリップしていた過去から引き戻される。視界には、宿題の答えが記載された問題集の解答ページ。

 時計を確認すると、まだもうしばらく授業まで猶予がある。今いちど集中して落ち着いて自分のペースでやれば、できないわけではない。

 周囲の喧騒を背中に感じ、僕は漂流したように机に一人、佇んでいた。背中に言葉をかけてくれる人は、誰もいなかった。

 自力で宿題をやったからといって、何がどうというわけでもない。たった一度、宿題を適当に片づけたからといって、取り返しがつかないほどのツケが生じてしまうわけでもないし、ちゃんとやったからといって誰かのためになるわけでもない。

 僕は集中して物事に取り組むエネルギーの残量が空っぽになったような腑抜けた目で、解答欄を丸写しした。

 

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