第7話

僕の前から凪ぃが消えた。留守にします、というそっけない書置きを残して。

 別に失踪したとか夜逃げしたというわけではない。凪ぃの交友関係は全国各地に及んでいて、都内から離れた地方や島に暮らしている友達に逢いに、定期的に数日留守にしたりする。これまで何度もあったことなので特に心配することもないし気にもならない。

凪ぃの家の鍵はもらっているので、凪ぃが家にいない時でも、僕は凪ぃの家を訪れる日常を崩すことはない。凪ぃは留守にする時、いつもより多めにチーズケーキを作り置きしておいてくれるので、凪ぃがいない時でもいつも通りそれを食べる。凪ぃは厳密に旅行計画を立てたりせず、いつ帰ってくるかは本人にもその時になってみないとわからなかったりするので、帰ってくる前にチーズケーキのストックが底をつくこともあるけど、そういう時は凪ぃのお菓子棚にストックしてあるお菓子を頂くことにしている。凪ぃはお菓子のストックには余念がない人なので、帰ってくるまでにお菓子棚が空になることもなく、僕は安心してお茶の時間を楽しむことができる。

だから凪ぃがこの家にいなくても、僕はここを訪れ凪ぃの蔵書の中から本や漫画を選んで読み、お茶とお菓子を楽しみいつも通りに過ごす。そうしてるうちに、凪ぃはたくさんのその土地ならではの土産物をどっさり抱えて帰ってくる。土産物は漬物だったり干物だったり様々だけど、その八割はお菓子なのでその後数日のお茶の時間はそれらを頂く。なので僕は、いつものように凪ぃが買ってきてくれるお土産を楽しみしながら、いつものようにこの家で凪ぃを待つだけ。

 なのだけど。

 正直、間の悪さは否めなかった。僕がバスケで目標を定めた途端、家を留守にしてしまうのだから。

 僕のバスケの相手となってくれる人は、今のところ凪ぃしかいない。その凪ぃがいないとなると、たいへん困ったことになる。練習するにしても一人でできることと二人でやれることの間には埋めがたい差があるし、上達度や練習の捗り具合には雲泥の差が生じてしまう。

 嘆息するが、嘆いていても何も変わらない。やらないよりはやった方がいいし、凪ぃだってそのうち戻ってくる。今の時点では、凪ぃと僕のバスケレベルは凪ぃに軍配が上がるけど、この凪ぃの留守の期間をプラスに捉え、そのレベル差を埋めるための期間だと思えばよいのだ。幸い凪ぃはいずともゴールとボールはここにある。気持ちを切り替え、僕ははじめて、凪ぃ抜きの一人でのバスケライフをすることにした。

 いざやってみると、わかってたけど二人で出来る練習と比べると、どうしても一人での練習には限りがあった。単純なシュート練習やボールの音だけがむなしく響くドリブル練習、パスしてくれる相手もいないので壁に向かってパスを放り、その跳ね返りを受け取るパス&ミート練習。リバウンドの練習や平行横跳びのようなDFのサイドステップ練習など、一人でもできそうな練習はひととおりやってみた。一人なのでもちろん無言で。

 傍から見たらひどく寂しげに見えるかもしれないけど、一人でやってるのに喋ってるほうがよっぽどおかしいわけで、壁に向かってチェストパスしてる時なんかは空しさというか儚い無常観みたいなものを感じないでもなかったけど、ただ淡々とやるのみだった。そうこうしてるうちに時間は過ぎ、ほどよく身体も疲れてくる。小腹も空いて、お茶の時間にも頃合いなので、チーズケーキとお茶を頂く。その後は本や漫画、バスケの試合映像をみてのんびり過ごし、帰宅の途につく。今までと何ら変わりない、これまで通りの日常。

 なのだけど、形は何ら変わりないのに何か物足りないような、決定的に大事な核のようなものが抜け落ちてしまったようなそんな気がしないでもなかった。なぜだろう?どこか機械的で、流れ作業をこなしているような感覚がつきまとった。

 迷いを振り払うように、僕は首を左右に振りたくった。気のせいだろう。そうに違いない。きっと凪ぃがいなくて急に静かになったもんだから、静かすぎて逆に落ち着かないのだろう。ただそれだけ。

 部屋に入り、一冊の漫画を手に取った。アンブロッカブルシュートのエピソードが収録されている、何度も読み込んで少しぼろくなってしまった一冊。

僕には今、見据えた目標がある。一人での練習は物足りなくも物寂しくもあった。一人でできる練習の限界もあってか、手を抜いたわけではないけど、どこかおざなりになってしまったところも否めない。けど、僕には見据えた目的があり、それを糧に今はやるのみだった。

 僕は何度も読み返し諳んじることすらできそうなその漫画を、その日もまた読み、凪ぃの家を後にした。




凪ぃが家を留守にして三週間が経った。凪ぃの財政事情的に、いつもであれば長くともこのくらいには帰ってくるのだけど、今のところその気配はない。のみならず、一切の音沙汰もない。これまでならたいがい、滞在先から妙にテンションの高い様子で電話がきて、むっちゃんの声聞きたくなっちゃったーちゃんとやってるー?チーズケーキまだある?む雲っちゃってない?なんて呂律の怪しい酔っ払い丸出しの節回しで畳み掛けてくるのだけど、今回はそれもない。

まあこちらから電話をかけるのも癪だし、心配するほどでもないので、僕は普段通りにチーズケーキを食べながら、凪ぃの帰りを待つだけだ。連絡がないことに一抹の不安がよぎらないでもないけど、チーズケーキを食べると心に平穏がもたらされた。凪ぃメイドのチーズケーキは、いつでも僕に安心を与えてくれる。いつも通り。

とはいえ、三週間も家の主がいないと、さすがに部屋も荒れ放題とまではいかずとも多少雑然と散らかってはくる。僕がこの家に滞在するのは一日数時間程度で、使った食器は自分で洗うし、読んだ本や漫画は元あった場所にちゃんと戻す。それでも部屋というのは汚れてくるもので、床に塵や髪の毛などが落ちたりもするし、凪ぃの蔵書にはうっすらと埃が降り積もったりもしてくる。近いうちに凪ぃが帰ってくるだろうし、放っておいても特に問題はないけど、このところこの家にいると何故か退屈さを覚えることが多いせいもあって、とりあえず掃除の真似ごとのようなものをしてみることにした。

 長い柄のついた床拭きで一通り部屋を掃き終えると、続いて凪ぃ自慢の本棚の前に立つ。出版社別とか作者別とか本の判型などに囚われない、凪ぃ独自の、凪ぃにしかわからないルールで並べられた蔵書群。何度見ても、どういう理屈で収められているのか判然としない。けど、いつ見てもそれは、毎回同じ形でそこにある。凪ぃ独自のフォームとして佇立している。凪ぃはそれらに埃が溜まったりすると、愛用のハタキでパタパタと撫でるように綺麗にしていた。昔なつかしいチェーン展開してない個人経営の本屋の風景みたいでしょー、とか言いながら。僕は昔なつかしい本屋の風景なんか見たことないけど、なぜだか郷愁を覚えないでもない光景だった。

 視線を横滑りさせ、僕が持ち込んだバスケ関連の漫画や本が収められた、凪ぃが僕のために作ってくれた段ボールの本棚に目を向けた。ただサイズ順に、大きい方から小さい方へと並べられた、整然とはしているけど何の深い考えもなくただ並べられただけの本たち。その順序立って並べられた本の一番端にある文庫本が、支えを失ったように横倒しになっていた。ドミノ倒しのように僕の記憶の扉がノックされ、記憶と意識の奥底から母の声が蘇る。




「いいから、ちゃんと並べなさい」

 いまよりもっと幼い時分、子供の頃から本を読むのは好きだった。その頃はまだ、凪ぃの蔵書群に手を出すことはできず、もっと大きな字で書かれて挿し絵なんかも入った本を読むくらいだったけど、母も僕が本を読むことを好ましく思っていたので、読む本には事欠かなかった。

 この時期はまだ祖父母は健在で、凪ぃも一人暮らしをしていて滅多に祖父母の家には寄り付かなかったみたいだけど、僕の母親との交流はそれなりにあったようで、それなりの頻度で互いの家を行き来していた。凪ぃの家に行くときは僕は必ず連れて行かれたので、凪ぃは幼い頃から僕のことをむっちゃんむっちゃんと呼び、今に至るというわけだ。

 凪ぃの家で過ごす時間は、幼い僕にとって普段とは違う特別なものだった。いつも母が用意してくれるのとは一味違ったお菓子が出てくるし、読むことはできないけど何やら怪しげでも煌びやかでもある凪ぃの蔵書群が無軌道に並べられている本棚は摩訶不思議で、自分の知らない世界を探検しているような気分だった。凪ぃの過剰というか一風変わったコミュニケーションも今ほどうっとうしさを感じず、わりあい素直に受け取りつつちょっと邪険にスルー、程度のものだったので凪ぃもいつも歓迎してくれた。

 僕は中身を読むことはできないものの、その彩り豊かで多様な本たちが、自由奔放なのに不思議とばらけることなく並べられた本棚に、密やかな憧れを抱いていて、自分の部屋の本棚もこんな風であったらいいのに、といつも思っていた。

 普段はそんなこと思わないのに、凪ぃの本棚を見てから自分の家に戻り、改めて自分の本棚を見てみると酷く味気なく思えてしょうがなかった。同じ本棚とは思えないくらいだった。だから、僕は思い切って決行した。自分の小遣いで自由に本を買ったりできる身分ではなかったけど、並べ方くらいなら自由に変えることができる。そうすれば、少しくらいは僕の本棚も色づいてくれるんじゃないか、そんな風に思ったのだ。

 とりあえず本棚の中身をいったん全部取り出し、てんでばらばらに並べてみる。しかし単にでたらめに並べてあるだけで、いっかな魅力的とは言い難い。次に記憶を手繰り、曖昧な所もあるけど、読んだ順に並べてみる。小学校の図書カードは借りた順序がわかるようになっていて、それを見ながらそういえばこの時期にこれ読んだなあ、などと思い出すのが好きだったので、そこからヒントを得た形だ。結果としててんでばらばらに並べた時よりも、なにか自分の色みたいのが出てきた気がするけど、まだまだ魅力的とは言い難い。

 何かないかなと思いながら再び本を取り出している最中に、その声は頭越しに降ってきた。

「何してるの、ちゃんと並べなさい」

 僕はその尖った声に背中をびくつかせた。母の声がそのような険を帯びているとき、いつもそのように反応してしまう。今回もそうだった。

「何でそんな並べ方しているの?今までちゃんと並べてたじゃない」

 詰問するように、母は言った。僕の答えを聞く前から、僕の答えを否定するつもりなのがありありと見て取れた。

「ちょっと明るい色の本を表に出せば、気分も明るくなるかな、って」

 お花とかあると気分も華やぐからこれ持っていきなさい、なんて母親に言われて幼稚園に自宅の庭で育てた紫陽花なんかを持っていかされた経験をヒントに、言い訳じみた答えをひねくり出した。

「そんな適当に並べてたらみっともないし、そんなんで気分が明るくなんかならないわよ。そういう時は、お花を飾ってみたり、カーテンを明るいものに変えたりするの。本棚は綺麗に並べてあるのが一番なんだから」

 こうやって、とサイズ順に並べていく母。

「でも、凪ぃの本棚は」

 言おうとした僕の言葉を封じるように、母は言った。

「いいから、ちゃんと並べなさい」

 何でサイズ順に並べるのが一番なのか、なぜ僕が好きでもないお花を飾ると僕の気分が明るくなるのかとか、そんな疑問をはなっから跳ねのけるような母の言葉に、僕は無言で従った。

 それ以来、本を並べるときは、ただ何も考えずにサイズ順に並べるのが習い性のようなものとして僕に染みつき、今ではそうなってないと気持ち悪さを感じてしまう。けど同時に、並べながらどこか面倒くささも付きまとう。手間というほどでもないけど、ただ作業としてこなすのが億劫、そのように感じるのが常だった。そんな僕に凪ぃは言った。

「何も考えずに、ただそーゆーものだから、でやってると、やってるんじゃなくてやらされてる気持ちにしかならなくて、なにやっても疲れるしめんどーで終わっちゃうよ。やり終えた後にとりあえず終わって安心した、みたいな気持ちくらいは残るかもしんないけどさ」

 凪ぃは慎重に本を並べながら言った。

「だから凪ぃは、そんな並べ方をしてるの?」

「そうだよ。だって普通に順序通りに並べたら、そのまんまじゃん」

 よいせっ、と言いながら立ち上がり、凪ぃは床に並べ終えたくねくねと周りながら列をなしている本の数々を眺めた。

「うむ、壮観とはこのことなり」

「座るスペースないんだけど」

 並べられた本に部屋の空間を占有され、身の置き所もなく部屋の隅で縮こまっているしかない僕。

「動いちゃ駄目だよ、むっちゃん。ここまで並べるのに何時間もかかったんだから。うっかりむっちゃんが倒しちゃったりしたら、いくらむっちゃんといえども、今日のおやつは抜きだからね」

 チーズケーキを人質に取られ、僕は動きを封じられる。

「でもさ、この並びでちゃんと倒れるかな?」

 僕は本の列の中で一際目立つ、分厚くて背の高い本が何冊か続いて並べられている一角に目を転じた。

「うん。あそこが今日の、厄落としドミノの難所にしてクライマックスポイントだね」

 顎に手をやり、凪ぃの眼が険しいものへと変わった。

「にしても、今シーズンは結構多かったんだね。厄落とししなきゃいけないやつ」

「バスケに時間取られてさ、今シーズンはちょっと調子落としちゃったよ」 

 調子落とすほどバスケにかまけてはいないはずだけど、一緒にバスケをやっていた身としては責任を感じないでもないので、余計な口は挟まない。厄落としは神妙な姿勢で静かに望むに限る。

「しかし今回はまた、いつも以上に並びが無秩序だね」

 これは凪ぃ恒例の、季節ごとに一回行われる、購入した本の厄落としのためのドミノ倒し大会。厄落としとは、購入した本の中で、これはと思って買ったのにいざ読んでみたら凪ぃが楽しめなかったものを、清め払い納めるための儀式なのだそうだ。

凪ぃ曰く、本を楽しめないということは、その本自体が楽しくない、その本を楽しむだけの能力が本人に備わってない、タイミングが悪い、波長が合わない、その本にサービス精神が欠けている、何でもかんでも否定したい年頃の思春期的な気分にある、月と女性の複雑にして摩訶不思議な関係がもたらす月一のスランプ状態、などなど、様々な側面があり、それをひとまとめにして凪ぃは厄、と称している。購入したすべての本を取っておいたらいくら敷地の広い凪ぃの家とはいえ、すぐに本で埋まってしまうので、厄落としした上で、売却するなり図書館に寄贈するなり人に譲るなりすることにしているそうだ。むっちゃんも欲しいのあったら持ってっていいよー、と凪ぃは言ってくれる。ごっそり持ち帰ってこっそり売ってお小遣い稼ぎしちゃおうか、など悪魔が囁いたこともあったけど、凪ぃの本に対する姿勢を見ていると、そんなビジネスライクな態度を取りでもすれば厄に憑かれてしまう気がしたので、自制することにした。

「毎回思ってたんだけど、これ失敗したら厄落としも失敗ってこと?」

「だね。失敗したらさ、厄落とさずに手放すわけにいかないから、ワンシーズン抱え込むことになるんだよ。楽しめなかった本と厄を」

「気分的にはよくないね」

「最悪だよ。視界に入る度にため息でるよ、きっと」

「だったら何で普通に並べないの?」

 小さいサイズのものから背の順に並べていった方が、成功率はぐっと上がるはずだ。

「だって、普通にちびっ子勢から順々に並べてって、ガリバーが最後に鎮座してるなんて並びでドミノ倒したって、厄落とした気になんないじゃん。厄ってのはさ、色々と複雑なものが絡み合って憑くものだから、それを払うにはそれなりの起伏だったり凸凹な道のりを踏破しなきゃいけないんだよ。こいつはそれを現してるの」

そう言われてみると、まがりくねって並べられた本の列を真上から眺めでもしたら、奇妙な魔方陣とか厄除けのための古代抽象文字のように見えなくもないのかもしれない。

「ま、直感で適当に並べただけなんだけど。『腐女子は十着しか服を持たない』って本の次に『BL本を集めすぎて家の床が抜けっちゃったパリジェンヌ』って本を並べたら面白そうだな。ちゃんと倒せるかな、それとも返り討ちにあって弾き返されちゃうのかなーみたいな」

「いちいちそんな事考えながら並べてるの?」

 面倒というか手間というか、厄落としなんて本を処分するのに本来する必要のないひと手間を、ドミノ倒しなんて七面倒くさいやり方でしているのに、それだけでは飽き足らず更なる面倒を重ねる凪ぃに面食らわずにはいられない。

「だってさ、この厄落としは、わたしにとってやらなきゃいけないことだからね。どうせやるんだったら、ただ何も考えずに儀式的に形式的に消化するんじゃなくて、その都度どうやったらいいのか考えながらやった方がたのしいじゃん」

「楽しいかな?面倒なだけじゃない?」

「面倒ではあるね。面倒すぎて、腰痛いもん。むっちゃん後でマッサージよろしく」

 僕にまで面倒のおすそ分けをしてくる凪ぃ。

「でもま、面倒を乗り越えた先とか、面倒と混然一体になった楽しさってのもあるからさ。ただ順序通りに並べたドミノ倒すだけだと、成功か失敗かだけにしか目がいかないけどさ、自分なりにポイント作って並べると、こう熱が入るというか、感情移入?みたいなこともあるからね」

「本に感情移入するの?」

「するよ。ってか、むっちゃんもするよ、今回たぶん」

 出し抜けに自分へと話が及び、意味がわからず反応に困った。

「何で僕が?」

「ほら、あそこ」

 凪ぃが指差した先には、家具によってつくられた上り坂のコースに並べられた、コミックサイズの漫画本と、その次には重量感のある大型本があった。どう考えてもあの漫画本が大型本を倒すのは無理そうで、弾き返された漫画本は上り坂から落下し床に叩きつけられるに違いない。

「あそこは今日の裏クライマックスポイントだね。むっちゃんがお小遣い二か月分を溜め込んで、悩みに悩んで買った超激レアのマニアックバスケ漫画だったけど、いざ読んでみたらバスケシーンがあるのは最初の一話だけで、二話目からは部費を稼ぐためにあくせく働くバイト漫画になっちゃったっていう、むっちゃんが読み終わった瞬間に壁にたたきつけそうになったけど、あまりの高額ゆえに思いとどまり、今週の日曜日に古本屋に売るために、傷つけないようビニール袋に梱包して大事にしまっておいた漫画本が、果たして今年の夏のBLコミケカタログに勝てるのか、それとも返り討ちにあって傷だらけになるのか、乞うご期待!」

 僕はあまりの急展開に事態が呑み込めず、頭も追いつかず真っ白になってしまう。少しして理解が追いつき、慌てて僕の憎くてかわいい漫画本の救出に向かおうとするも、下手に動いて並べられた本を倒しでもすれば、たちまち僕の救援活動は無に帰してしまう。知らないうちに八方ふさがりの袋小路に追い込まれていた。おかしいと思ったんだ。いつもならドミノ倒しの時は庭の縁側で日向ぼっこでもしててよ、とか言いながらお茶の一つも出してくれるのに、今日に限っては何故か、むっちゃんはここにいてね、とわざわざ部屋の隅に案内されたから。部屋の隅っこでの体育座り姿勢に、何故だか安堵感を覚える文化系男子の修正を利用した、巧みな誘導術。

「計ったね、凪ぃ」

「抜かったね、むっちゃん」

 漫画みたいなやり取り。でも僕にとってはリアルで切実な死活問題。お小遣いの二か月分を突きこんだのにやらかしてしまったのだから、その失敗分の何割かは取り戻したい。そのために読了後にゴミ箱に投げ捨てたいくらいの気分だったのに、大事に大事に扱ってしまっておいた。それが、このドミノの結果次第では灰塵に帰してしまう。

「さて、むっちゃんの厄はちゃんと落とせるかな?」

僕の災厄は凪ぃを叔母にもったことだ。どんな厄落としもお祓いも役に立たない。

「んじゃ、いくよー」

 凪ぃはちょこんとしゃがみ込み、足元の一冊を人差し指の先っぽで一突きした。厄落としの火蓋が切って落とされた。

「おお、いい調子だ」

 結構なカーブやランダムな配列にも関わらず、ぱたんぱたんと小気味よく倒れていく本の数々。僕はそんな風にして厄が落とされていく本を見ながら、あそこに達するまでにドミノ失敗しろ!阻止するのだ、厄よ。厄たるお前らが総力をあげてあのポイントへの到達を全力で邪魔するのだ!と邪教に憑りつかれた者のように呪詛の言葉を念じていた。が、その願いもむなしく。

「ようやく来たね、本日の見どころが」

 にやりと笑う凪ぃ。その口元は裂けあがり、ちろちろと赤い舌を覗かせているように僕には見えた。

「いけー、頑張れー」

 拳を振り上げている凪ぃは一体、どっちを応援しているのか。漫画本か大型本か。とりあえず厄落としの成就を願ってはいるはずだから漫画本の応援仲間だと思いたいが、返り討ちにあって床にたたき落とされるのを願っているように見えなくもない。どっちに転がっても悪くはない、そんな風に思っていそうな気がしてならない。

 どちらの応援隊なのか不明の凪ぃを尻目に、僕は固唾をのんで見守ることしかできず、そう思っていると、遂にドミノは僕の漫画本ポイントへと達する。果たして結果は……もったいぶるまでもなく、当然のごとく撃沈。厄払いならず、あえなく地面へと落下。

 かと思いきや、落下する瞬間に凪ぃが横っ飛びでダイブし、地面すれすれで生卵を包むかのような柔らかなキャッチ。凪ぃのファインプレーで漫画本は事なきを得た。

「むーっちゃーん。駄目だったね、厄落とし。ってかさ、腰痛い、グキっって聞こえた。ちょいやばし。ヘルプ!救助を要請します」

 僕は横倒れになった凪ぃを冷ややかな目で睥睨する。そんな無茶な真似するくらいなら、最初っから嫌がらせめいたことしなけりゃいいのに。無駄な行為で無駄な傷を負うって、無駄の重ね着にもほどがある。

 でも無駄すぎる厄落としにも少しくらい無駄じゃない側面もある。失敗してすぐにでも売っ払ってやりたいと思っていた漫画だったけど、綺麗に売り払うためとはいえあの瞬間全力で応援したことには違いなく、ドミノ倒しを通して少しだけこの漫画に対する気持ちが変化した。今週の日曜にお別れすることに違いはないけど、ドミノ倒しの思い出があることで、少しだけ綺麗な別れ方ができるような気がしないでもない。まとわりついてた恨みつらみの想いが軽減され、ほんの少し厄が落とされた気分だった。別れ際、紳士的な握手をしてもいいくらいに。

「ね?だからやっぱり、ただ面倒だからって考えなしに、順番通りに並べてたらこうはいかないでしょ?ただ順番通りにやってるだけだと、やってる最中、やってるその時、よーするに今その時だね。やってる時の今その時が、全然楽しくない、なんにも無い空っぽの今、になっちゃうよ。無我夢中とはまったく違う無」

 だからそんな風に今その時を過ごしてちゃ、と噛み含めるように言ってから凪ぃは一拍置き

「む雲っちゃうよ」

 僕の眼鏡を取り、凪ぃは僕の誕生日にプレゼントしてくれた眼鏡拭きと色違いのものを胸ポケットから取り出し、柔らかい仕草で僕の眼鏡を拭いた。

 ぼんやりとした記憶が拭われるように、意識の焦点が目の前にある凪ぃの蔵書へと戻ってくる。過去の記憶にトリップしながら、無意識のうちに凪ぃの本棚の蔵書をハタキではたいていた。うっすらと積もりつつある埃を払おうとしていたようだ。と、無意識の行為が意識上に昇った瞬間、肩に力が入ったのか、ハタキを本の出っ張り部分に引っかけてしまい何冊かを落っことしてしまった。

「やっちゃった」

 慌てて拾おうとしゃがんだ僕の体が本棚にぶつかり、またしても本が落下した。今度はさっきよりも多い。

 何やってんだ僕は、と自分に毒づきながら本を手に取り、元に戻そうとする。が、ふと手が止まった。

 今の僕は幼い頃とは違い、凪ぃの蔵書を読むことができる。だからこの家で凪ぃの本棚から蔵書を取り出して読書するのは、僕の当たり前の日常だ。僕は読み終えた本を出しっ放しにしたりすることはなく、ちゃんと元あった場所に戻すのももちろん当たり前のことだ。

 けれども、本は僕にとって一冊ずつ読むものだから、一編に何冊もの本を取り出したりすることはない。取り出した一冊の本を、櫛(くし)抜けしたように空いている場所に、ただ戻すだけ。

 ごそっと何冊もの本が同時に抜け落ちたスペースに、どのように並べたらいいのか、どんな風に並べてあったのか、僕にはわからない。それは凪ぃにしかわからない、凪ぃが自分で考えた、凪ぃ独自のフォームで並べられているから。

 何度か、凪ぃに聞こうと思ったこともある。いったいどんな理屈で並べてるの?と。でも、やめた。聞いたところで、自分の本棚が変わるわけではない。僕の部屋の本棚は、母親の言う「ちゃんと」でしか並ばない。だから、僕にはわからない。

 凪ぃは何を想い、どんな風にこの床に落ちた蔵書群を並べていたのだろう。凪ぃのいなくなった静かな部屋で、考えを巡らせてみる。けど、ちっとも答えが見つからず、自分の考えに相槌を打ったり茶々を入れたりからかったりしてくる人もいないので、僕の考えはどこにも繋がらず、ぐるぐると同じところを周遊しては、ただただ霧散していくのみ。そのうちに考えてもしょうがない、という諦めの境地に達した。

 床に落ちた、汗と涙と凪ぃ汁の沁み込んだ凪ぃの蔵書群を改めて眺める。視線を転じると、本棚のぽっかりと空いた何もない空間。

 面倒だな、と呟きながら、ただただ何も考えずにサイズ順に、凪ぃの蔵書群を並べていった。

 本を片づけながら、微妙な違和感を覚えた。視界に靄がかかっているような、自分と目の前の景色との間に薄皮一枚隔てられたような気分。そういえばここ三週間ほど、眼鏡を拭いてないような気がする。なんだか頭がぼんやりとして、はっきりとしない。別にこれくらいの曇りなら放っておいてもさしたる問題もないし、本の片づけも残っている。

「面倒だし今度でいいや」

 誰に言うでもなく、弁解するように僕は呟いた。片づけを終え、眼鏡を曇らせたまま僕は凪ぃの家を後にした。



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