第4話
「今日も今日とて、絶好のバスケ日和ですな」
空はどんよりと曇っている。一般的にはこういう日を運動するに適した日和とはみなさない。けどたぶん空模様とは一切関係なく、広告に出ていた近所のスポーツ店の半額セールに乗じて、バスケ練習着とバッシュを買い揃えたという事実が、凪ぃにしてバスケ日和と言わせているんだろう。
「そう思うでしょ、むっちゃん」
自分からは決して口に出さないけど、自慢の一張羅を誉めてほしくてたまらないといった気配を濃厚に漂わせている。ていうかTシャツの両裾を引っ張って見せびらかすみたいなジェスチャーしてる時点で、言葉にするよりも遥かに雄弁だ。うるさいくらい。
「半袖だと寒くない?」
「……さむい」
「上に何か着たら?」
「いや、いー感じのパーカーもあったんだよ。残り一着だったしさ、これは買いでしょ!って籠には入れたんだけどさ、いざレジに持っていたらさ」
いじけたような顔になる凪ぃ。
「予算オーバーしちゃったんだね」
ひもじそうな顔から僕は察した。
「いや、預金残高オーバーしちゃって」
「オーバーしすぎでしょ」
叔母さん、とか付け加えようと思ったけど、下らないし怒るだろうから、やめにした。
「何でそんなに金額いっちゃったの?半額セールだったんでしょ」
そもそも預金残高が少なすぎるという可能性もなくはないので、遠慮がちに尋ねた。
「なんか限定モデルなんだって。そのパーカー。あの店で売ってるパーカーの値段なんてたかが知れてるし、おまけに半額セールで残り一着だったから値段も見ないで籠に入れちゃったわたしが悪いっちゃ悪いんだけど、ありゃ詐欺だよ!オーバーアーマーってブランドのカーリーモデル限定バージョン、とかなってたけど、有名な人なのかな」
今、売出し中というか目下人気ナンバーワンの若手NBA選手であることを凪ぃは知る由もない。とはいえ、さすがにその選手の限定パーカーとはいっても、そんなに値段が張ったりするだろうか?
「本当に大丈夫なの?ただでさえ今月ピンチなんじゃなかったの?」
本気で凪ぃの経済状況が心配になってきた。
「ピンチなことにかわりはないけど、まー大丈夫だよ。っていうかむっちゃん、たぶんパーカー程度で足が出ちゃうわたしの預金残高の心配してるんだろうけど、違うからね。あのパーカーが高すぎるんだからね」
念を押してくる凪ぃ。
「いくらなの?」
「……それ言ったらさ、わたしの預金残高、おおよそ幾らかわかっちゃうよね」
「……親しき仲にも礼儀あり、だね」
「よろしい」
パス練習の成果なのか、少しくらいは阿吽の呼吸も身についてきたのかもしれない。聞いていいこと駄目なこと。
「帰り、あの店に寄ってから帰ろうかな」
口笛でも吹くように僕は言った。
「おいこらっ」
「だって半額セールなら、僕もいいTシャツとかあったら買いたいし」
「嘘をお言い。むっちゃんファッションとか全然きょーみないじゃん」
バスケ練習着として愛用している、量販店のジャージに身を包んだ僕を見て凪ぃは断言した。
「確かに普段のファッションとかには興味ないけど、バスケに関しては別だよ。選手が履いてるバッシュとか見て、あれかっこいいなぁとか思うし」
「シューズくらいでしょ?むっちゃんがいきなりTシャツとかに興味もつわけないもん」
図星なので何も言えない。
「んで、バッシュは高いから、いくら半額セールでもむっちゃんのお財布的にはとても手が届かないでしょ?」
僕のお財布事情は筒抜けらしい。
「ってことは、やっぱりパーカーの値段確認にいこうとしてるんじゃん。わたしの預金残高、せいぜいいくらくらいなのか知ろうとしてるんじゃん」
名探偵なみに僕の腹の内を見透かしている。いや、これこそが、阿吽の呼吸というやつだろうか。
「わかった、やめとくよ」
「ほんとにほんと?誓う?」
「うん。誓う」
「……よろしい。信じるよ、むっちゃんを」
いつもからかわれてることへの意趣返しと、本当に凪ぃの経済事情が心配なので念のためにパーカーの値段を確認しておきたかったのと、想いは半々だったけど、やっぱり超えるべきじゃない一線というのはあるので、そこは自重することにした。
「とはいえ、やっぱ寒いな。ちょっと羽織るものとってくるね」
小脇に抱えていたボールを僕へと預け、家の中へそそくさと戻る凪ぃ。
「うん。これでよし、と」
パーカーのジップを上げながら凪ぃが庭へと出てくる。
「もってるじゃんパーカー……ちょっと待って。そのパーカー、凪ぃがDVDボックス買って何度も見返してたアニメの特別限定商品で、前に凪ぃが欲しがってたやつじゃないの?」
「そだよ」
眉をひそめる僕をよそに、凪ぃはあっけらかんと答えた。
「いや、なんか激レアでプレミア価格ついて、とても手が出ないとか言ってたよね?」
「言ってたね」
「それ言ってたのって一昨日くらいだったよね」
「うん」
「一昨日まで手が出ないとか言ってたパーカーに、何でいま袖通してんの?」
「わたしの指がマウスをクリックしゃちゃったから」
てへぺろ、とばかりのペコちゃん顔。全然かわいくない。
「おいこらっ、バスケ用のパーカーごときで預金残高オーバーした理由それじゃん」
「いや、高かったんだって、あっちのパーカーも」
「かもしんないけど、そこまでじゃないでしょ。ていうか、そのパーカー買ったなら半額セールの方は諦めるとかしようよ。どうしても欲しかったんだったら」
「どっちもどーしても欲しかったんだよ。アニメのパーカーの方はDVDボックス買った人だけしか買えない限定品だしさ、半額セールは今日までだし、今が買い時っていうかチャンス到来、みたいな」
「今月金欠でピンチなんでしょ」
「ピンチの時ほどチャンスと思え、ってうちのばっちゃが」
「それ貧乏神かなんかだよ。ピンチの時にチャンスに飛びついて更なるピンチに陥ってるじゃん」
「まあでも、なんとかなるよ。感覚でわかるもん。これはギリギリいけるなって。その辺の見極めには自信あるからだいじょーぶ」
僕の心配をよそに、気にした素振りもない。
「本当に大丈夫なの?」
お金の心配を子供はするもんじゃないというけど、凪ぃは大人と子供の間を揺蕩(たゆた)っているような人だから、どうしても気になってしまう。
「だいじょーぶ。だってさ、ついこないだお隣のおばーちゃんにさ、バスケ始めたはいーけど腰とか痛くてご飯の用意とかたいへんなんだよねー、なんて世間話したのね。そしたらさ、だったらいつでもウチにご飯食べに来ていいのよー宜しければむくもくんも、なんてお誘い受けちゃったのよ。いやー、持つべきものは理解と料理の腕を持ったお隣のおばーちゃんだね。どっかのばっちゃと大違い。ね?これでわたしが食うに困ることはないってわけ」
「そのお誘いを真に受けて、財布と通帳のタガが緩んだってわけ?」
「だっておばーちゃんいつでも来ていいよって」
「それを聞いて、凪ぃはどれくらいの頻度で行こうとしてるの?」
「いや、そりゃさすがに、いくらおばーちゃんがお義理でそういうこと言うタイプじゃないにしたって、わたしだってその言葉にずぶずぶに甘えたりはしないよ。昨日もきてたなこいつ、とか思われたくないし。だからまぁ、週4くらいかな」
しれっとしたり顔で凪ぃは言ってのける。
「一日置きじゃん」
甘えるにもほどがある。
「えっ?じゃあ4日連続で行って3日休む方がいいかな?」
そういうことじゃない。
「多くても週一が限度でしょ」
「そんなアニメの放送じゃあるまいし。待ちきれないよ、正座で待機だよ」
「アニメだって週四回もやってたらすぐに飽きちゃうよ、たぶん。週一くらいがちょうどいいんだって」
週一でも行き過ぎだと思うけど、凪ぃのピンチを救えるのはお隣さんくらいなので迷惑だろうけど仕方ない。凪ぃ的に言えば、痛し型なしだ。
「わかったよ。じゃあ、せっかくだし今日、お邪魔しようかな。むっちゃんも行く?」
凪ぃだけでも迷惑なのに、僕までお世話になるのは気が引けるが、ここは僕も同行して凪ぃがしばらく面倒をかけることへのフォローというか、挨拶みたいのをちゃんとしておいた方がいいかもしれない。一度家に帰って、冷蔵庫に作り置きしてある母手製のお惣菜とか、棚に大量にストックしてあるスポーツ飲料だとかプロテイン食品だとかを手土産に持っていった方がいいだろうか。いやしかし、お惣菜なんておばあさんがいかにも作り置きしてそうだし、スポーツ飲料やプロテイン食品も老夫婦への手土産としては的外れな気がしてしょうがない。手ぶらで行くよりかはよりかはマシだろうか。けどもらってもかえって迷惑かもしれないし、そもそも土産持参で誰かの家を尋ねたことなんてないのでそのへんの塩梅がちっともわからない。安直かもしれないけど、和菓子とかが妥当な線なのだろうか。
「凪ぃさ」
「どしたの?改まった顔して」
「悪いけど『エイプリルライオネル』の新刊、ゴールの使用料代わりにプレゼントするって話だったけど、あれなしね」
「なんでさ?」
突如つきつけられた衝撃の大きさに、凪ぃは目玉をくりむいた。
「僕のお財布事情的に、和菓子だけで手いっぱいだから」
「和菓子?わたし別に、和菓子いらないよ」
凪ぃにはあげないよ。
「お隣にお食事ご相伴になるのに、手ぶらってわけにはいかないでしょ」
「あー、それで和菓子?」
「ダメかな?」
土産物のチョイスに自信はないので、アドバイザーとしての妥当性はさておき、意見を求めずにはいられなかった。
「あんちょくー、年配だから和菓子って。黒人=ヒップホップレベルだよ」
「それはそうかもしれないけど。だったら何ならいいわけ?」
そうねぇ、と腕を組み凪ぃは頭を捻る。
「あー、あれがいい。むっちゃんのうちにあるプロテイン。おじーちゃん、今筋トレにはまってるって言ってたから。あとおねーちゃんが大量に作って保存してある梅酒。おばーちゃん梅酒なら浴びるほど飲めるって言ってたし。でも今年は梅が出る季節、たまたま二人揃って風邪こじらせちゃって、買い物にいけなかったんだって。だから今年は梅酒なしで悲しいわ、って言ってたもん」
キャラじゃないお隣さんの一面を知って、僕は軽く動揺した。
「あるでしょ?両方とも」
「あるけど」
僕の母親は、自分は発泡酒くらいしか飲まないのに、なぜか梅酒を毎年かなりの量つくる。父親もお酒は飲むけど梅酒は味見程度に舐めるだけなので、梅酒はたいがい凪ぃの肝臓に流し込まれることになる。何のために作っているのかよくわからないけど、毎年それをやらないと落ち着かないようだ。
「じゃ、土産問題は解決だね。これで安心してディナーご馳走になれるね。よしっ、となるとお腹空かせておかなきゃだね。一緒にテーブル囲ませてもらっておいて、箸の勢いが鈍いなんて最悪だもんね」
それはそうだけど、あまりがっつくのもそれはそれではしたない。
「目一杯バスケやってたらふくご馳走になろうではないか」
「明日の朝の分も食いだめしてやろうとか思わないでよ」
「さすがにそこまではしないよ。ちょっと炊飯器に残ったご飯をおにぎりにして頂戴するくらいだよ」
僕の明日の弁当を凪ぃの朝ごはん代わりにあげてもいいので、それだけはやめてほしい。
「どこまでが冗談なのかわからないから怖いんだよ」
「どこまでも本気だよ。あのパーカーだってまだ諦めてないからね」
「今すぐそのパーカー脱いでネットオークションにかけてからにしようね」
絶対零度の笑顔で僕はパーカを指差した。
「非道いよ、むっちゃん。わたしに風邪ひけっていうの?風邪のせいで今年の梅買い逃しちゃったらどうしてくれるの」
剥ぎ取られそうになる服を守ろうと自分の上半身を抱きかかえるようにして、凪ぃは非難の言葉を投げつけてくる。
「梅酒ならいくらでもあげるから、とにかく脱いで。話はそれからだよ」
「お酒ならいくらでも振る舞うからとにかく服を脱げって、むっちゃん大人の階段のぼりすぎだよ。戻っておいで」
手招きで呼び寄せる凪ぃ。凪ぃの方こそ、大人の階段を一段抜かしくらいで登ってきてほしい。
「まあとにかく、お腹空かせておいて損はないよ。おばーちゃんの手料理、ほっぺ落ちるくらいに美味しいからね。万が一不味かったとしても、空腹が最高のスパイスになるから出された食事を残して失礼千万、なんてことはないからね」
万が一の不味かった場合を想定するのは、ご馳走に預かる身として失礼ではないのだろうか。判断のわかれるところかもしれない。
「まあ程々にしておこうよ。それからバスケも程々に気を付けてやろう。あんまりうるさくするのもやっぱり迷惑だろうし」
「それはそうだね」
と凪ぃは納得し深く頷いた。
「じゃ、今日はドリブルをやろう!」
迷いのない堂々たる提案。
「よりによってバスケ練習の中でも喧しくてうるさいのの筆頭を選ぶことないじゃん」
「だって今日はだむだむしたくてしょうがない気分なんだもん」
僕は凪ぃに駄目出ししたくてしょうがない気分だ。
「もう、なに言ってもダメそうだね」
「さすがむっちゃん、わたしのことよくわかってる。ツーカーっつーの?」
「もうさ、いっそのことバスケやる前はさ、お隣に一言断ってからやるっていうのを習慣にしたほうがいいんじゃないかな。お隣もいきなりやられるよりかはいいだろうし、ダメな時ははっきりダメって言ってもらったほうがいいし」
「おお、それはいい提案だね。もしかしたら『あらじゃあ、私たちもだむだむご一緒してもいい?』なんて展開も」
これ以上、お隣さんのキャラを壊してほしくないので、その展開はご寛恕願いたい。
「僕行ってくる」
無駄話はさっさと切り上げるに限る。小間使いのように小走りでお隣を訪ねると、こちらの陳情に対し、笑顔でバスケの件もご飯の件も二つ返事で了承してくれた。「梅酒はお好きですか?うちにたくさん余ってるんで、もしよかったらもらってもらえると助かるんですけど」と賄賂でも渡すみたいに窺うと、満面の笑みで是非ぜひ!とのことなので、ひとまず最低限の礼儀を果たすことはできたようだ。これで安心してバスケができそうだ。
「どーだった?」
断られる可能性なんてはなっから憂慮してないのんきな顔で凪ぃは僕を出迎えた。
「いいってさ」
「やっほーぃ。やっぱり持つべきものは義理と理解に溢れた隣人だね。あと心配性で色々と先回りしてフォローしてくれる、抜かりのない甥っ子」
図々しく金銭感覚の麻痺した叔母は持つべきものじゃない。気苦労が絶えず、バスケやるのも一苦労だ。
「うし、これでだむれるね」
ボールを地面にひと突きする凪ぃ。
「どうする?ボールって一個しかないんでしょ?」
半額セールでボールをもう一つ買ったりする配慮は凪ぃにはないはずだ。
「うん。一個でじゅーぶんだしね」
二人いるんだし、二個あったって問題はないけど、凪ぃはあくまで二人で一つのボールを共有するスタイルを貫き通したいらしい。
「じゃあ交互にやってくしかないけど、どうやる?ありがちなのは、コーンとかを並べてその間をジグザグに縫うようにドリブルしていったりするけど」
はぁ、と大げさに凪ぃは息を吐く。
「むっちゃん。わかってないなー。それじゃ個人練習じゃん。そーゆーのは一人でもできるでしょ?せっかく二人でやるんだから、二人でできることしないと」
二人一緒のドリブル練習となると、一方が守備を担当してもう一方のドリブルを邪魔するっていうのもあるけど、僕らはまだまともにドリブルできない身の上なので、邪魔をする守備役が必要な段階に達してない。まずは余計な邪魔者抜きに、一人でちゃんとドリブルできるようになる必要がある。
「やってない方がやってる方の姿勢とかチェックしてあげればいいんじゃないの。自分だとフォームの乱れとかわからなかったりするし」
「それさー、シュート練のときのパターンと一緒じゃん。それはもう撃ち止め」
別に同じパターンの繰り返しでも問題ないと思うのだが、凪ぃは毎回違う流れでいきたいらしい。要するに、何を言っても無駄なパターンだ。
「じゃあどうするの?」
「そもそも、ドリブルとはなんぞや?って話だよね」
この話の流れは、ひょっとして面倒くさいパターンじゃなかろうか。こういう問いかけをするとき、凪ぃはもっともらしいことをのたまったりはするけれど、その実あんまり練習に気乗りしないので余計な会話で時間を稼いでるだけ、なんてことがしばしばなので、あんまり真剣に付き合っていると練習が一向に進まないなんてことになりかねない。普段ならともかく、今日はお隣さん宅に伺う予定なので、無益な駄弁に付き合ってる暇なんてありゃしないのだ。さっさと済ませてしまうに限る。
「ドリブルとは……まあパスなんかとは違って、個人でボールを運ぶものかな?バスケのルールだとボール持ったまま三歩以上歩いちゃ駄目ってルールだから」
「そう!三歩はダメ!つまり気ままにお散歩気分で動くの禁止!ってことだよ」
動くときは何の考えもなしに動いちゃ駄目ってことが言いたいらしい。
「はっきりとした意志をもってだむだむしなきゃね。無駄にだむっちゃ駄目。んで、止まるときも確固たる意志をもって止まらなきゃいけない。一度止まったからには、もう散歩に出れないからね」
凪ぃは調子よく喋っているけど、話の落とし所というか、着地点みたいのはちゃんと見えているのだろうか?いい気分で散歩に出たはいいけれど、確たる目的地は決めてない見切り発車な気がして仕方ない。この場合、目的地は当然、ドリブル練習の具体的なやり方ということなのだけど。
「だからドリブル練習でしなきゃいけないのは、どこまで自分でボールを運ぶのかっていう意志、どこで止まるのかっていう決断、どこまでなら運べるのかっていう判断、それを磨かなきゃいけないわけだよ。そーいうの考えないで、ただドリブルでボール運ばれても周りが迷惑しちゃうもん。ドリブルしてみたはいいけど、いきなり止まられたりしたら周りは慌ててフォローしなきゃいけないし、勝手気ままにドリブルでいけるとこまで突っ込まれても、それはそれで周りはただ指くわえて見てることしかできないもんね」
いわゆるワンマンプレイというやつだろう。
「だからドリブルっていうのは、自分がどこまでそのボールを運ぶことを引き受けられるのかっていうのを、はっきりとした意志をもって判断し決定していく。んで、それを周りにも理解してもらえるようにならなきゃダメってこと。あいつならあそこまで運べるからひとまず任せようとか、あいつならあそこまではいけて相手を引きつけてくれるからこのタイミングでフォローに入ろうとか、あいつならそのままいっちゃえるだろうからその間は休憩タイムと洒落こもうとか、周りがちゃんとリアクションとれるように、ドリブルっていうアクションで示さなきゃいけないんだね」
「なるほどね」
異論もないので首肯する。
「だから、どーゆう練習をすればいいのかというと……」
長ったるくて回りくどかったけど、ようやく話の核心部に到達してくれたようだ。
「さぁ、むっちゃん考えて!」
肝心要の部分を投げっぱなしジャーマンなみにこっちに放り投げてきやがった。まあ凪ぃがどこまで自分ひとりで話を運べるのかなんて、ある程度わかりきってたことではあるけど。
「ごめん、てっきりそのままいっちゃえるのかと思ってたから休憩タイムと洒落こんでた」
散歩気分で始めたワンマンプレイをいきなり止められて、困ったからってこっちにパスを出されても、フォローの準備なんてしてるわけもない。いい迷惑だ。
「ええー?むっちゃん、ひょっとしてわたしが一人で最後までいけると思ってた?そんなに信頼されても困るよ。わたしとしては最大限頑張って、引きつけるだけ引きつけたんだから、ここからはむっちゃんが頑張ってよ」
「引っ張るだけ引っ張ってあとは人任せって、一人よがりにもほどがあるよ。そんなんじゃ誰からも信頼されずに孤立しちゃうよ」
何だかいつもなら僕が凪ぃに諭されそうな台詞だな、と思いながら言った。孤立する、というのは僕のキャラにはしっくりくるけど、凪ぃのキャラっぽくはない。独断専行、唯我独尊、これならまだ凪ぃっぽいかもしれないけど。
「孤立しちゃうよ、とかむっちゃんに窘められるとは思わなかった」
凪ぃも同じように思ったみたいで、ショックの大きさに珍しくしょげかえっている。自業自得とはいえ、何だかかわいそうになってきた。フォローというか支えてあげなきゃ、みたいな気持ちがわずかながら芽生えてくる。頼りない監督とかキャプテンが率いるチームは、かえって他の選手たちの自主性だとか自律性みたいのが生まれるっていうのをどこかで読んだ覚えがあるけれど、それみたいなものだろうか。だらしない親の子供はしっかりしがち、みたいな。
「どう?この感じ。このわたしのフォーム」
フォーム?
「そう。このしょげ方。なんだかフォローしなきゃっていうか、支えてあげたくなってこない?」
「……見放したくなる」
うっかり騙されるとこだった、というか完全にフェイクに引っかかってた。そもそも味方に華麗なフェイントかましてどうする。敵を騙すには味方からっていうけれど、これはせっかくの味方を敵に回してしまう類の騙し方で、騙し討ちだ。僕はそんな憤怒を押し殺し、毛ほども顔に出さなかった。
「ふむ。その顔はあれだね。心のなかでは完全にわたしの演技に騙されてたって顔だね。それを悟られたくないばっかりに、かえって無表情を装っている。そんな鉄の仮面で顔を覆ってもわたしにはお見通しだよ。ほら、むっちゃん。騙されたからには、ちゃんと責任もってフォローしなきゃっ」
一人よがりにワンマンプレイかましておきながら、味方にフェイントかけて同情売ってフォローを要求って、図々しさもここまでくると神々しい。
「ここまで一人できたんなら。フォローなしで最後までいってみたら?」
「だからそれはさすがにわたしに期待しすぎ。ここまでいけただけでも自分で自分を誉めてあげたい。ここまでが、体力の限界。これ以上は、なんも言えねー」
有名スポーツ選手の名言を乱用して、ギブアップ宣言をする凪ぃ。言った選手たちもこんな風に二次使用されるといい気分はしないだろう。
「じゃあ、こういうのはどう?凪ぃはさ、コーンとか並べてジグザグドリブルとかは個人練習だからしたくないって言ったでしょ?」
凪ぃのことだから、漠然とした指針はあっても具体的な練習方法とか考えてるわけないのは予想がついていたので、話してる間に凪ぃのお気に召しそうな練習をあれやこれやと思案だけはしていた。フォローする気こそなかったけど、フォロー体勢だけは整えておかないと、迷惑を蒙るのはこっちなのだから。
「でもさ、僕らってまともにドリブル練習したことないんだから、ジグザグドリブルだってそうそう上手くはできないと思うんだよね」
「わたしがドリブルの天才っていう可能性は?」。
「で、コーンをジグザグしてる間にたぶんどっかでミスするよね」
「天才にもミスはあるからね」
あくまで天才キャラを貫き通すつもりなのか。そのキャラやり続けるのぜったいきついと思う。どこかで投げ出すのは目に見えてるのに、なぜやりたがるのだろうか。そういうキャラとしかいいようがないけど。
「それで、ああ自分がミスなくいけるのはここまでだな。これくらいのスピードでこれくらいまでならドリブルできる。これ以上は無理って思ったところでパス、っていうのはどう?」
「無理だと思わなかったら?天才の辞書に無理の二文じ」
「思わないならひたすらやり続けてればいいと思うよ。でもそれで失敗ばっかりしてたら滑稽だと思うけど」
凪ぃの言葉をすぱっと断ち切るように言った。
「うーん。まー、せっかくむっちゃん考案の練習だからやってみようか。あー、でもそれだとさ、もう一方が暇……っていうか、見てるだけじゃん。だって味方がどこまでいけるのか見極めてフォローしなきゃいけないわけでしょ?本当のバスケの試合では。フォローする必要がない場合はお任せってことになるけど、むっちゃんとしてはこの練習ではミスするのが前提で考案したわけでしょ?」
そりゃ単純なジグザグドリブルでもミスはするだろう。僕と凪ぃなんだし。
「うん。じゃあ、見てる方は体勢が崩れたりして失敗しそうになったら手を叩くとかすればいいんじゃないの。それがフォローしたってことにして」
「あー、なるほどね。ドリブルやめてパスするのと、手を叩くのがうまく一致すれば、どれくらいまでドリブルで運べてどのタイミングでフォローすればいいのかっていう共通認識が成り立ったってことになるわけね」
「うん。見てる側が手を叩いてもないのにパスしちゃった場合は、周りから見てたらまだ行けそうなのに、本人は無理っていう判断したってことだね」
「その判断の正しさってどうやって判断するの。本人的には無理、だけど見てる側からするともっとっといけそうなわけでしょ。どっちが正解なのかな?」
「はっきりとした正解っていうのはないんじゃないかな。でも手を叩くタイミングとパスするタイミングが近ければ近いほどいいってことになるのかな。周りから見たら全然余裕ありそうなのにミスを怖がって早めにパスしすぎてもよくないし、見てる側は手を叩いてるのに余裕かまして気が付いたらミスしてました、っていうんでも駄目だし」
「なんか難しそうっていうか、揉めそうな練習だね。いやいや、絶対このタイミングでパスしといた方がよかったってー、いやそのタイミングで手を叩くのははやすぎでしょー、とか」
言われてみればそうかもしれない。誰だって自分の感覚こそが正しいと思いがちだし、周りの声に素直に耳を傾けられるわけでもない。その時の感情次第では、自分の方が間違っているとわかってはいても、受け入れることができないことだってある。他に代案が
あるわけではないけれど、この練習はやめておいた方が無難かもしれない。下手に揉めて時間ばかり取られて、一向に練習が進まないなんて場面がありありと思い描けてしまうだけに。
「じゃあ止めておこ」
「だがしかし、それがよい。揉めそうな練習大歓迎。揉めて揉まれてこその練習。揉めも揉まれもしない練習なんて練習にあらず」
極めて凪ぃっぽい理由で僕の案が採用されることになった。
「この練習を、だむモミ練習と今後呼ぶことにしよう。むっちゃん、ちゃんと覚えておいてね」
凪ぃの中ではドリブル=だむだむで、揉めるって言葉ををモミモミするって変換をして、その二つをくっつけ略したのが「だむモミ練習」ってことなんだろうけど、たぶん使うのは思いついた今日限りだろうから、覚えなくても問題ないと思う。メモリーの無駄遣いはよくない。
「じゃあ、言い出しっぺのむっちゃんからね」
どちらかっていうと人のやるのを見てから事に臨みたいタイプなのだけど、言い出したのは僕なのでやらざるをえない。凪ぃがコーンに見立てた庭の鉢植えを並べていく。プラスチック製の鉢植えもたくさんあるのに、さりげなく陶器の鉢植えを選んで並べているのは嫌がらせにちがいない。
「そういう地味な嫌がらせ、指摘するのもうっとうしい」
「嫌がらせじゃないよ。練習ってどうしてもダレ気味になるからね。それを避けるための緊張感の演出だよ」
「ある程度の経験者ならともかくさ、バスケやり始めたばっかのど素人の、しかも初めて取り組む練習に、わざわざ緊張感を上乗せする必要ないと思う」
ノーマルな状態でじゅうぶん緊張してるのに、これ以上プレッシャー与える必要はないはずだ。
「しょーがないな。今日のところはひとまずプラスチックにしておくか。だむモミ練習プラバージョンね」
他のバージョンはたぶん今後ないと思われるので記憶にとどめる必要もないとみた。
「じゃあいくよ」
一呼吸して、ドリブルを開始。熟練者ならボールを見ずに前を見て行うのだろうし、相手がいる実戦を想定するならそうすべきなんだろうけど、なにぶん素人なうえ運動が得意でない僕はそういうわけにはいかず、頭を下げてボールを見ながらどうにかこうにかボールを操り、鉢植えの隙間を縫っていく。
「おおー、むっちゃんいいよー。宮城悪太なみのドリブルでかっちょいいよー」
凪ぃが知ってる中で随一のドリブルスキルをもったバスケ選手(漫画のキャラで実在はしない)を持ち出して、僕を誉め殺しにかかる凪ぃ。たぶん言葉でプレッシャーをかけてミスを誘発しようって腹積もりにちがいない。その証拠に言葉とは裏腹に、手はいつでも叩けるように準備している。
「意外とやるなーむっちゃん。でもなんか、微妙に暇になってきたな。よしっ歌でも歌お。しっあわっせなーら手を叩こう、(ぱん、ぱん―手は叩かずにわざと空振りさせている)、しっあわっせなーら手をたたこう(ぱん、ぱん―空振りなので実際はすかっ、すかっ)
」
トラッシュトークとか囁き戦術とか、プレイしている選手に挑発めいた言葉や集中を乱す言葉を投げかけてペースを乱すという狡猾な技があるけど、ど素人のくせにトラッシュトークどころかトラッシュソングなんて技まで繰り出してくる凪ぃに気をとられなかったのは、超一流選手のみが辿りつけるゾーンの境地に至っていたからなどではもちろんなく、ただ単にドリブルするのに手一杯いっぱいで周りに構っている余裕なんか微塵もなかったから。
特に、利き手と逆の左手でのコントロールは難しく、ジグザグドリブルの中で右から左に持ち替えて、再び右に持ち替えようとする際に、ボールの流れがたびたび乱れてしまう。一回一回の乱れは微々たるものだけど、それが積み重なってついに僕のコントロール不可能なレベルにまで達した、と僕は感じた。
のでパス。
「(ぱん、ぱん)すかっ、すかっ」
たまたま凪ぃが歌いながら手を空振りさせてるタイミングでパスがいってしまったので、ボールは凪ぃの空振りさせて×サインみたいな形になった手の間をすり抜けて、顔面にヒット。ドッジボールのルールならセーフ。だから僕的にはセーフってことにしておこう。
「ううっ、酷いよむっちゃん。よりにもよって、なぜにこのタイミングでパスするのさ」
涙目で抗議する凪ぃ。
「いや、普通に無理だと思ったからパスしただけだよ。ていうか、よりにもよってこのタイミングでそんな歌とお遊戯をしてる凪ぃが悪いよ。そういう嫌がらせしてるから罰が当たったんだよ。バスケの神様がふざけすぎ!って」
「バスケの神様、一時期野球に浮気してたくせに、他人には厳しいんだね」
たぶん凪ぃが実在の選手で唯一知ってるであろうバスケの神様。その神様の唯一の汚点を凪ぃはあげつらった。実はギャンブル依存症だったなんて噂もあったりするのだけど、バスケに興味ない人は、そこまでは知らないのかもしれない。
「でもさ、冗談ぬきにわたしはむっちゃんはもっといけたと思うよ」
ボールが直撃して少し赤みがかった鼻を撫でさすりながら凪ぃは言った。
「いや、限界だったよ。僕の中では」
そもそも凪ぃはちゃんと見てたのだろうか、と疑義を呈したくもあったが、ああいうおふざけをかましていても、僕が一生懸命取り組んでいることを流し見するような人じゃないので、たぶん見ていてくれたんだろう。
「えーそうかなぁ。確かにちょっと危なっかしい感じにはなってたけど、まだミスするってほどじゃなかったと思うよ」
「でも、ミスしてからじゃパスできないじゃん。ギリギリいけるところまでいって、ミスする寸前でパスをするって練習だし」
「だから、まだ寸前の寸前の寸前、の手前くらいだったよ。もうワンダムどころかテンダムくらいいけたはず」
もうワンドリブルくらいなら確かにいけたかもしれないけど、さすがにあそこから更に十回ドリブル続けるのは無理にもほどがある。
とはいえ。
「これは、いくら話し合っても埒が明かないから、とりあえず交代しようよ。んで、お互いが心に留めておけばいいんじゃないかな。『そうか見てる側からすればもっといけそうだったのか、じゃあ次はもうちょっといってみよう』とか『やってる側は意外と余裕なかったんだな、次はもう少し早いタイミングで手を叩く準備をしておこう、まかり間違っても歌とお遊戯で暇つぶしたりすることなんてないように心がけよう』みたいにさ」
「なるほどね。それで徐々にタイミングがすり合わさっていくと、ドリブルしてる人の決断力とか判断力が磨かれつつ、フォローする側のフォロー眼力というかフォロー体勢も練り上げられていくわけだね。よしわかった。次は歌とお遊戯以外の暇つぶしをやることにしよう」
「神様に怒られない程度にね」
「……神様対策で、いっそのこと野球の素振りとかどうかな?」
神様を挑発するかのように、ぶんぶんと架空のバットを凪ぃは振り回す。
「神の鉄槌を覚悟すべきかと。誰にだってほじくり返されたくない過去のひとつやふたつあるんだから勘弁してあげようよ」
ギャンブルの噂も知ってたら、きっとポーカーとか言いだすんだろうな。
「っていうかわたし、むっちゃんの集中乱すための嫌がらせ考えてたはずなのに、いつの間にやらバスケ神に対する嫌がらせを考えてるんだけど。なんで?」
「いや、そういわれても。いつの間にか脱線してまくって目的地見失うなんてある意味で通常運転だし」
「通常でそれなら、わたしが異常をきたしたときはどうなっちゃうんだろう」
「普通に、異常をきたしてそうだよね」
「逆に通常になったりすることなく、ふつうに異常なんだ」
「うん。何か凪ぃの場合はそんな気がする」
「そう聞くと、わたしってフォローの余地なくない?」
「まあ、自信をもってあるとは言えないけど、とりあえずフォロー必要そうなタイミングを探ってはみるから、頑張ってね」
下手投げで山なりのボールを凪ぃへと放った。次は凪ぃの番。
「んじゃ、やるとしますか」
凪ぃはボールを受け取り、ふーっ、と一息ついてドリブル開始。するのかと思いきや、なぜか「ほっ!」「ほっ!」と右や左に行く素振りを見せ、挙句に誰もいない虚空に向かってシュートフェイクまでかましている。シャドーボクシングならぬシャドウフェイク。なにやら漫画の必殺技めいてもいる。一通りやって気が済んだのか、ふいーっと再び息をついて、ようやくドリブル開始。
「ほっ!」
「……」
「ひっかかった?さすがにもう気が済んだだろうからまともにドリブルやると思っちゃったでしょ?わたしのフェイク技術も捨てたもんじゃないでしょ?神様も騙されたかな?」
だからこんな離れた相手にフェイクぶっ放してどうしたいのだろうか?挙句の果てに神様まで騙そうとして、いったい凪ぃはどこへ向かっているのだろうか?
「そんなことばっかしてたら、フォローする人誰もいなくなっちゃうよ」
「うう、わかったよ。他の誰に言われてもあんまり応えないけど、なんかむっちゃんに言われるとさすがにズシンと響くな。むっちゃんがフォローしてくれないとなると、他にフォローしてくれそうなの、うちのばっちゃ以外思いあたらないし」
ばっちゃは何だかんだ言ってフォローしてくれるのか。ばっちゃのことを誤解してたかもしれない。会ったことも見たこともないし、今後もないだろうけど。
「じゃーやるね。フェイントなしの、まごうことなきまっさらなプレーンドリブルをさ」
本当にようやく、ドリブル開始。凪ぃは気に入った漫画にかんしては舐めるほどに味わいつくすので、細かいところまでよく見ている。たぶんあの作品に出てくるドリブルが得意な選手の二人のフォームをミックスさせたようなフォームで、凪ぃはジグザグと鉢植えの間を縫っていく。
「おおっ、我ながらいー感じ」
言葉通り、軽快なテンポで刻まれるドリブルは、フォームこそやや前に重心がかかりすぎてる気もするけど、なかなか様になっている。今まで知る機会がなかったけど、凪ぃは案外運動神経がいい方なのかもしれない。僕と血縁関係のあることと普段のぐーたらぶりから、運動神経とは無縁だと思ってたけど、ここ数日のバスケする姿を見ていると、少なくとも僕よりは恵まれていることを認めざるえない。
ドリブルで前進する姿からは危なっかしさは一切見受けられず、フォローの必要はないんじゃ、と僕が思いはじめたあたりで、スムーズだった凪ぃのドリブルが変調をきたした。凪ぃがたまたま思いついた前重心のドリブルフォームがたたったのか、腰に踏ん張りがきかないようでよたよたとバランスを乱すようになった。腰砕け、とまではいかないけど腰が入ってないのは明らかで、足取りも実に頼りない。妙齢の女性の腰が限界に達しつつあった。
「パン」
手を叩く。が凪ぃはパスする素振りもみせない。その後、踏ん張りが効かずよろけて倒れるまで、結局パスしないまま凪ぃはドリブルを終えた。
「あうー、やっちゃった」
横座りの姿勢で凪ぃは地面に手をついている。
「おとなしくパスしとけば、転ぶまではいかなかったのに」
「おニューの服なのに汚れちゃったー。おばーちゃんたちにもご飯の時見せびらかそうと思ってたのにー」
それやったら、ああそれ買って金欠だからこの人うちにご飯ご馳走になりにきたのかって丸わかりだと思うんだけど、それは問題ないのだろうか。そもそもドリブルを失敗したことを悔やまずに、服の汚れを第一に気にするあたりの悔しがるポイントもそうだけど、凪ぃはいろいろ間違いまくってる。
「タイミングはちょっと早かったかもしれないけど、僕が手を叩いた音は聞こえたでしょ?」
「そりゃ聞こえたよ」
「傍から無理そうだと見えてるのわかってたんなら、自分ではもうちょっといけると思うけど早めに切り上げてパスしとくか、くらいの判断してもよかったんじゃないの?」
「いや、いけるとこまではいきたいじゃん。やるからには」
若者の特権のごとく凪ぃはのたまった。
「そういう練習じゃないでしょ?どこまでいくのか、どこまでいけるのか、どこまでいくべきなのか、そういうのを判断する練習なんでしょ?」
行けるとこまでとことん行く、というのであれば一人で勝手にやってるのと大差はない。
「そーだけど、いざやってみると、もうちょっともうちょっとってなっちゃって」
「凪ぃらしいっちゃらしいけど、倒れちゃうまで引っ張るのはさすがにやりすぎでしょ」
「それは……そうだね」
仕方なしに、といったように頷き、凪ぃはぱんぱんとパーカーの土を払った。僕らの間に、土埃が舞いあがる。
「でも、むっちゃんが手を叩くのは早すぎたからね」
これだけは言っておかねばならぬ、という風にどこか負け惜しみの色合いも含ませてぃは言った。
「それは、そうなのかな。意外と凪ぃの腰は粘りがあった」
「腰に粘り……」
今自分が思いついたのは、思春期の中学生である甥っ子に、仕掛けるべきネタなのかどうか迷ったあげく自制することにした、そんな思慮深い面持ちで凪ぃは呟いた。
「んじゃ、それぞれ反省点を忘れずに、もっかいやるとしよーか」
交代して僕の番。左手に持ち替えた際にボールが乱れがちになる傾向があるので、そこを気にかけつつ、自分が限界、と感じたタイミングよりももう一歩か二歩くらいは前に進むくらいの気持ちでいってみる。
「おおっ、なんかさっきよりバランスがいいかも」
凪ぃの言葉通り、ドリブルしている僕自身も一回目よりも左右のブレが少なくなっている感覚を得ていた。この分だとさっきよりもう少し先にいけそうな気分。
「いけいけむっちゃーん、どこまでもいっちゃ」
いけそうだと思った次の瞬間、油断したのかそれまで上手く左手で捕えていたボールのグリップが甘くなったような感触。慌ててパス。
「えぇぇー、ここでパス?どこまでもいっちゃえー、とわたしが思った瞬間だよ?いくらなんでも早すぎない?」
パスを受け取った凪ぃだが、受けたボールを疑うような眼差しで見つめている。
「いや、調子に乗ってあのままいってたらミスってたよ」
「そーかなー?確かにちょっとボールコントロールが乱れてたかもしんないけど、体のバランスは全然崩れてなかったから、いくらでもリカバリーできたと思うけど」
そう言われてみると、体のバランス自体が崩れているという自覚は確かになかった。手先のボールハンドリングが乱れただけだ。
「傍から見ると、体のバランスさえ崩れてなければ大丈夫そうに見えるってことなのかな?」
「うん。傍から見るとっていうか、わたしから見て、なんだけど」
なるほど。少なくとも僕よりは運動感覚に優れた凪ぃの意見を、次は取り入れてみることにしよう。
「じゃ、わたしの番ね。さっきはちょっと引っ張りすぎたから、まだいける!くらいのタイミングでパスしてみようかな」
どうやら凪ぃは運動感覚に秀でてない僕の意見を参考にしようとしてくれるらしい。さっきの失敗が尾を引いてるのかもしれないけど、自分の意見が採用されるのは素直に嬉しい。
「だむだむスタート」
威勢よく発車する凪ぃ。一回目で懲りたのか、前傾気味だったフォームを少し起こし、前に突っ込みすぎないようなフォームに変わっている。見た感じ、腰への負担も軽減されてやりやすそうに見えた。
「おおっ、なんか腰が楽だ」
明らかに安定感が増している。よく見てみると、手先に意識を置いてドリブルしている僕と違って、凪ぃは体のバランスを重視してるようだ。確かに多少ボールが前後左右に乱れても、体をボールのブレに合わせることで、上手くばらついた軌道を押さえこんでいるように見えなくもない。体のバランスさえ崩れていなければ、多少のボールハンドリングのミスはカヴァーできるってことなのかもしれない。僕にも適用可能なのかどうかはわからないけど、やってみる価値はありそうだ。
「これは、いける。ドリブルでどこまでも」
自分の言葉に乗せられ肩に力が入ったのだろうか。右手で突いたボールの勢いが強すぎて、かなり奔放にボールが跳ねた。ああ、これはいくらなんでも無理だろう。
「パン」
手を叩くが凪ぃは一顧だにせずそのままドリブルを続ける。僕が手を叩いてからツードリブルまでは体で無理やりボールを押さえこむことができたけど、その反動で激しく体がよろめき、慌ててパスしようとするも時すでに遅く、凪ぃは横倒しにこけた。
「ありゃりゃ、またやっちゃった」
後頭部をかきながら凪ぃは立ち上がる。
「大丈夫?」
「うん、かろうじて受け身はとれたから」
「今のは僕が手を叩いたくらいのタイミングでパスした方がよかったんじゃないの?」
「いや、あそこはさすがに早すぎでしょ。実際もうちょいいけたじゃん」
「だけど、あの段階ですでにミスする予兆は見えてたよ」
「予兆段階で無理って見限るのは早すぎるでしょ。予兆を感じつつ、どこまでいけるのか探り探り、くらいの方がいいと思うな。せめてハーフ&ハーフくらいまでは引っ張りたいじゃん」
意識してなのか、凪ぃはまたしても著名スポーツ選手からの引用。
「フィフティーフィフティーならやめといた方がいいんじゃないの」
ハーフ&ハーフで辞めることを選ばなかったそのスポーツ選手も、かなり苦労しているようだし。
「そこはまー、見解の違いっていうか、その人の考え方次第だけど。でもわたしから見て、むっちゃんはハーフ&ハーフの遥か手前でパスしちゃってるように見えるよ」
凪ぃの指摘はおそらく的を得ている。僕はハーフ&ハーフの段階でドリブルをやめる選択をしているというよりは、そこに差しかかる前の安全圏で凪ぃにボールを預けてしまっている。
「でも凪ぃは、正直フィフティーフィフティーのもっと先、危険領域のデッドゾーンに踏み込んでからようやくボールを手放す気になってるみたいだけど」
さすがに倒れながらのパスは、場合によっちゃファインプレイになったりすることもあるかもしれないけど、ど素人が練習段階でやるプレイではないと思う。
「そーね。さすがにこんだけおにゅーの服を汚してちゃ、反論の余地なしだね」
今時、小学生だってここまで服を土まみれにはしないだろうってくらい、凪ぃの服は茶色く煤けている。
「これはよくいうあれじゃない?足して二で割るとちょうど、みたいな」
「僕と凪ぃを?」
「そう。む凪っちゃん、もしくは凪むっちゃん。フュージョンだよ」
奇天烈な動きをしながら近寄ってきて、凪ぃは人差し指を向け、僕にその先っちょに合わせてこいと促してくるようなポーズをとる。
「……」
僕は無言のまま、しばらくその超有名漫画に出てくる合体技のポーズを生暖かく見守った。
「……このポーズ、けっこう腰に負担がかかるから、やめてもいい?」
「もう少し続けてみたら?僕の今の気持ち、つきあってやってあげてもいいかなーっていうのと、そんな恥ずかしいポーズやるわけないじゃん、のちょうど半々くらいだから、もう少しやってたら、やってもいいの方に気持ち傾くかもしんないよ?」
「わたしとしては、やめたいのが一〇〇パーセントになりつつあるんだけど」
「いや、まだ諦めるような時間帯じゃないって」
「っていうか、むっちゃんがこんな恥ずかしいポーズに付き合ってくれるわけないじゃん。フィフティーフィフティーなんて嘘に決まってんじゃん」
ぷんすかと怒りながらポーズを止める凪ぃ。わかってるならなぜやるのだろう。一縷の望みに賭けたのか。たぶん思いついたからやらずにはいられなかっただけだろうけど。
「でも凪ぃの言うことにも一理あるかも。凪ぃはいけると思いすぎだし、僕は無理だって思いすぎなのかな」
「だね。意識としても、むっちゃんは手先にばっかり神経を向けすぎてて、わたしは体のバランスだけを当てにしすぎなのかな」
お互い、やる側と見ている側のズレや食い違いをすり合わせるように確認する。こういった不毛にも思えるやり取りを何度も繰り返しながら、何度となくドリブル練習を行った。
この練習に関しては、正解らしきものはあっても、誰がみても文句のつけようのない完全正解がある類のものではない。けど続けるうちに、僕と凪ぃのドリブルは距離を伸ばしていたし、反復しているうちに、僕から見て凪ぃはそろそろ厳しそうだ、と思うタイミングと、凪ぃから見て僕はそろそろキツそうだと思うタイミングが近づいてきているのは、間違いなかった。
「さすがにちかれた」
ふぅと息をつく凪ぃ。ゴールネットの先っちょを斜めから撫でるような角度にまで陽が傾き、そろそろボールを目で追うのもギリギリの時間帯に差しかかっている。
「腰、大丈夫?」
運動神経はともかく、体力面では年齢のアドバンテージがある分、凪ぃよりも僕のほうが余裕がある。その僕でさえかなり足腰にガタがきてるんだから、凪ぃの方はいかばかりか、答えを聞くまでもない。
「今日はここまでにしておこう。あんまり遅くなってもお隣に迷惑だろうし」
かといって早すぎても、さっさと飯を用意しろ!と催促しているようで、訪ねるタイミングも難しい。お邪魔する時間を決めておかなかったのは失態だった。
「あーあ、でも一回くらいはぴたっといきたかったね」
やる側がドリブルをここまで、と判断したタイミングと、見る側がフォローすべきと判断し手を叩く、そのタイミングの一致に、凪ぃは拘り諦めきれないようだ。
「なかなか完全に一致、ってわけにはいかないんじゃない。長年一緒にプレイした勝手知ったる間柄っていうんでもない限り」
「でもさ、試合終了間際、ドリブルでいけるとこまでいってシュートまで持ち込んだはいいけど、相手にブロックされそうになって絶体絶命!ってとこで絶妙のタイミングでフォローしてパスを受けて奇跡的な逆転シュート、を達成した、出逢ってまだ半年にも満たない選手たちを、わたしは知ってるよ」
凪ぃが語ったそのエピソードは、漫画のなかでの出来事だ。実際には起こりえない。
「それだって、作品の世界では出逢って半年にも満たないんだろうけど、実際の連載年数って意味では、相当な時間が経ってるでしょ?積み重ねて積み重ねた上で、色んなものを降り積もらせて、ようやくそこまで到達できたんだよ」
なにせ最終回に至ってようやく、その二人はまともな連携プレーをしてみせたのだから。それまで犬猿の仲でパスどころかまともに視線すら合わせることのなかった二人が、最終回の絶体絶命シーンで阿吽の呼吸でパスを交わし、逆転シュート。その後の親の仇にするかのように激しくハイタッチするシーンは、バスケ漫画史上、最高のシーンと言えるだろう。
「そーいわれてみると……道は長いってことだね」
「うん。やり始めたばっかりなんだから、まだ慌てるような時間じゃないってことだよ」
「んじゃ、今日はここまでにしよっか」
諦めがついたのか、ドリブルしながら家の方へと凪ぃは引き上げていく。その足取りは鉛でも引きずるかのように重い。よほど疲れているのだろうな、と思った瞬間、凪ぃの体がゆらりと傾き、よろめいた。あと、一歩か二歩、ドリブルしたまま足を進めれば、そのまま受け身すらとれずに顔からつっこんでしまいそうだ。何度も繰り返し体に染みついていたのだろうか、危ないっ、と叫ぶ前に僕は手を
「パン」
叩いたのと、凪ぃが僕にパスを放ったのはほぼ同時、完全といっていいほどに重なり合っていた。
パスを出してボールの制御から自由の身となった凪ぃは、たたらを踏みこそしたけど転ぶことなく体勢を立て直した。
僕と凪ぃは、お互い顔を見合わせる。
「……」
「……」
無言のまま向い合い、しばらく見つめ合うと、二人して勢いよく手を噛ちあわせるようなハイタッチ。
ペチッ
二人の上背の違いのせいでハイタッチの手の位置が微妙にずれ、パチンと気持ちのいい音をたてることなく、なんとも情けないタッチ音が響いた。
「むっちゃーん。なぜにここでずれちゃうのー」
「……もうこのパターン飽きたよ」
この後しばらく、それぞれのポーズミスによって合体が上手くいかなかったことを詰り合うかのように、僕と凪ぃはお互いを非難しながら、ご飯をご馳走になりにお隣に向かった。
こうして、僕と凪ぃのバスケライフ……何日目だったかはもうよく覚えてないけど、終わることとなった。
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