第3話

「よしっ、むっちゃんのマッサージのおかげでわたしの腰もすっかり元気になったことだし、やりますかバスケ」

 腰に手をやりぐるぐる回しながら、凪ぃが僕に言った。

「今日こそちゃんとやろうね」

 僕はまだ、ほとんどバスケらしいバスケをしていない。シュート一本撃って、シュークリームを買いに行って、マッサージをしただけだ。身体を動かしてはいるけど、バスケをしているとは言い難い。

「何事にも準備段階っていうか、助走段階みたいのは必要なんだよ。そうすると段々テンションが高まってくるわけさ。漫画でもアニメでもそうじゃん。いきなり初回からテンションマックスでクライマックス、なんてのはありえないでしょ」

 確かにそうだけど、昨日までの出来事でバスケ熱が高まったわけでもないし、この先テンションマックスな怒涛の展開、なんてのはとても見えてこない。

「わたしたちの戦いはこれからだ!」

「うん。そうだね。これからだね」

 凪ぃが欲っしてるであろう突っ込みはあえてスルー。ページを捲るように先に進むことにする。

「つれないなぁ、むっちゃん」

「で、今日は何する?またシュート?」

「うーん、シュートも悪くないけど、せっかくわたしとむっちゃんの二人でやってるんだから、一人でもできることじゃなくて、二人じゃないとできないことをやろうよ。シュート練習は別にむっちゃんがいない時でもできるし」

 僕がいないところで独り黙々とシュート練習に励む凪ぃの姿はとても想像できない。ていうかそんな妙齢の独身女性の姿を目にしたら、ちょっとだけ寂しい気分になってしまいそうだ。

「二人じゃないとできないこと……ぱっと思いつくのはパス交換の練習とか」

「おおっ、それだ!」

僕の提案した何の変哲もない基礎練習に、珍しく凪ぃは食いついた

「といっても、壁相手にパス練習できないことはないし、二人じゃなきゃってわけでもないけど」

「壁相手にパス出しなんて、虚しさと哀愁で練習に集中できないよ」

 確かに味気なくはあるかもしれない。

「それに家の壁、所々釘とか出てたりするから危ないよ」

「そうなの?そもそも何で壁に釘があるの?」

「わたし昔、忍者になりたくってさ。外から侵入する分銅のついた縄っぽいのを引っかけるのに必要だったんだよね。懐かしいな」

「で、抜かないまま今に到るってわけ?」

「そういう思い出の跡って大事なんだよ。将来道に迷った時にさ、ああそうだわたしは小さい頃忍者になりたかったんだ。よし、原点を見つめなおして忍者道に邁進しよう!みたいな」

「見つめ直すことで、かえって道に迷いそうな原点だね、凪ぃの場合は。でも、危ないでしょ」

「危ないっちゃ危ないんだけど、ちょびっと飛び出てるだけだし、だいじょーぶかなって。飛び出し具合と錆び加減がいい感じなんだよね。廃れた味わいっていうか。だからそのままにしちゃってる」

 凪ぃのお眼鏡に叶っちゃってことらしい。家主である凪ぃが大丈夫っていうなら……気をつけよう。うっかり転んで、壁に手を突いたりすることのないように。

「じゃあ、チェストパスってわかる?」

「うん。パスする相手を親の仇と思って、チェストーーーって言いながら示現流さながらに上段から振り下ろすようにして投げるパスのことでしょ?」

「うんそうだね。両手でボールを挟むようにして持って、それを胸の前から押し出すようにして出すパスのこと」

「……なんかわたし、一刀両断された気分だよ」

 ちぇっ、と言いながらボールを拾い、胸の前で凪ぃはボールを構えた。無駄口にちっとも乗ってこない僕に諦めたのか、おとなしく普通にやってくれるようだ。

「……、どうしたの?」

 ようやく普通にパスしてくれるのかと思いきや、胸の前で構えたまま、待てど暮らせどボールはやってこない。

「いやいや、受けとる側は、パスパスとか言ってくれなくちゃ。ちゃんと伝えてくれなきゃわかんないじゃん。パスだしていいのか」

「いやだって、パス練習なんだし、言わなくてもわかるでしょ」

「ダメだよむっちゃん。言わなくてもわかるなんて思ってちゃ。大抵のことは言わなきゃわかんないんだから、きっとわかるだろうわかってくれるだろうなんて思ってたら痛い目にあっちゃうよ。パスが欲しいんなら、我はパスを所望する!っていう意思を、なんらかの形で伝えなきゃダメなんだよ」

「そりゃ言わなきゃ伝わんないこともあるだろうけど、それとこれとは別じゃない。さっき二人でパス練習しようって確認したんだから」

「パス練習を二人でしようねってことはお互いに伝わってるけど、実際にいつどのタイミングで、どんなパスを出せばいいのかは、お互い全然わかってないじゃん。パス練習ってそういうものをわかりあっていくための練習じゃないの?」

 思いもよらない指摘に僕は言葉に窮してしまう。僕は単に、自分の胸元から相手の胸元に、正確にパスを出すための練習だと思っていたけど、確かにそれならパスを出す相手なんかいなくても、それこそ壁に向かってチェストパスを出すだけでもいい。二人でやる必要はない。人間相手の必要はない。

「パスっていうのはさ、人から人へプレーを繋げていくためのものなんだから、パスもらって困る人にうっかりパス出しちゃったら、プレーが繋がらなくて途切れちゃうじゃん。もらった方もありがた迷惑だよ。いまパスいらないのにーって」

サッカーの授業なんかで、パスなんて全然欲しくないのに、運動ができないがゆえに誰からも警戒されず、所在なくうろうろしてたらいつの間にかゴール前でどフリーな状態になっていて、チャンスと見た味方にラストパスをされることの多い僕にとって、痛いくらいに思い当たる節がありすぎた。

「それはそうだ!」

凪ぃの何気ない例え話に、我が事のように拳を固めて同意した。。

「で、でしょ」

熱のこもった僕の後押しに、やや気圧されながらも凪ぃは続けた。

「そうならないためにパス練習をするんだから、ちゃんと伝えなきゃだめだよ。パスが欲しいっていう意思をさ、なんらかの形で。いちいちめんどーかもしれないけど、わたしたちはど素人なんだし。ほら、運転できない人なんかも免許とるときにやらされるでしょ、いちいち左右確認とか」 

 教習所に通ったことはないけど頷いた。ちなみに凪ぃも免許はもってない。僕らは今、バスケ免許取得の真っ最中。

「それといっしょ。めんどーでもちゃんと言わなきゃ」

 確かにバスケ歴の長い人なんかはわざわざ言葉掛けなんてなくとも味方と敵の状況を適格に見極めて、パスを出してもいいのかどうかの判断ができるのかもしれない。あるいは長いことプレーしている選手同士なら、阿吽の呼吸なんかでそれこそお互い見もしないでパス交換をしたりすることもできるのかもしれない。でも僕らはど素人だし、阿吽の呼吸どころか二人でパス交換をするのも初めてだ。

「わかった、凪ぃの言う通りにやってみるよ」

 お互いど素人とはいえ、バスケ知識はそれなりにあるはずの僕が、バスケ知識は漫画作品だけの凪ぃに不覚にも一本とられてしまった。悔しさはわずかながらあったが、筋の通った意見だったのでここは従わざるを得なかった。

「じゃあ、えーっと」

 漫画なんかだと「へいっ」とか「くれっ」とか言ったりするけど、試合中でもあるまいし、それはちょっと恥ずかしいのでここは無難に、

「パスッ」

 胸の前で受け取る構えをし、口だけでなく身振りでもパスを要求した。

「……」

 パスはこない。ちゃんと全身でパスが欲しいと伝えたのに、パスを待ち構えているのに、相変わらずの待ちぼうけ。

「ふつーーーー」

 がっかりした面持ちで、凪ぃはぶーたれた。

「パスが欲しいときに『パスっ』って……ふつうすぎる。やる気でなーい」

「なにそれ。やる気とかそういう問題じゃないでしょ」

「むっちゃんさー、今まさにご飯の用意してる奥さんがさ、旦那さんに『飯!』とか言われた時の気持ちわかる?」

「今やってるから、かな?」

「そう。今のわたしの気分。いや、今やろうとしたとこだから」

「そりゃそうなんだろうけど、でもちゃんと伝えてくれなきゃわからないって凪ぃが言ったから僕も言ったわけで」

「伝え方ってもんがあるでしょ。パスして欲しい時に、パス出そうとしてる相手に対して『パスっ』って、もう離婚ものだよ。わたしはあんたの飯炊き係りか!ってな話だよ。仮にご飯が待ちきれなくて言っちゃたにしてもだよ、例えば『今日のメニューはなにかな?まあ君の作るご飯はなんでも美味しいんだけどね。まいったな、空腹のスパイスなんかいらないのに、すっかり腹ペコになっちまった』とか『ほう、いい匂いがするな。こりゃ腹の虫もおとなしくしててくれないや。罪な女だな、君も』とかさ。言い方ってもんがあるわけ、世の中には。親しき仲にも礼儀あり。親しいからこそ、うっかりすると無神経で無遠慮なこと言っちゃったりするもんなんだから、そこはちゃんとしよう。はいっ、やり直し」

 ケアレスミスのあった解答用紙を突き返すようにして、凪ぃは言った。

「……」

 凪ぃの言ったことに理路がないわけではない。言いくるめられてるだけのような気もするけど、間違ったことを言っているわけではない。けれどもどこか納得がいかない。だって凪ぃはきっと、普通すぎて気が乗らないからもっと違うフレーズを捻りだしてわたしを楽しませてごらん、ってだけなはずだから。でもいったんこうなると、凪ぃはテコでも動かない。絶対にパス出してくれない。僕は肩を落とし、仕方のないことなんだよ、致し方なし痛し型なし、と自分に言い聞かせ、自らを奮い立たせるように、思いつくまま口にしてみた。

「か、カモン」

 英語の授業でも発音したことないんじゃないだろうか。直訳すれば『来いよ』ってとこだろうか?

「くくくっ、か、カモンって……いやー、そうきたかー。発想としては二十九点くらいだけど、ほかならぬむっちゃんが言った、ということを鑑みれば、五十点くらいはあげてもいいのかもね」

 肩を震わせ笑いをかみ殺しながら、偉そうに凪ぃはのたまった。

「……ずるいよ。僕にばっかりパスの声だし押し付けてさ。てかここまでやったんだからパス頂戴よ」

 何だかんだ言って、僕と凪ぃはまだ一度もパスのやり取りをしていない。

「だいたいさ、これじゃ凪ぃの裁量しだいじゃん。パスくれるのかどうか。要はさ、相手に伝わればいいんでしょ、パスが欲しいかどうか。そりゃ『飯!』じゃさすがに味気ないっていうのもわかるけど、お互いに通じ合えばそれで問題ないんだから、何でもいいじゃん」

 僕は唇を突き出して不平を申し立てる。

「でもわたしとしてはそれじゃ盛り上がんないんだもん。パス熱がちっとも」

「じゃあここでもう決めちゃおうよ、出して欲しい時の掛け声。パスの度にいちいちこんなやり取りしてらんないからさ。ちなみに僕は『パスッ』で全然問題ないんだし、問題だと感じてるのは凪ぃなんだから、他人まかせにしないで凪ぃが提案してよ」

 もうあれこれ言われるのも恥ずかしいし面倒だ。今後の流れを淀みなくするためにも、僕は強めの口調で厳命した。

「おおっ、むっちゃんがムっとしてる」

「そういうのいいから。で、どうするの?」

「じゃあ、さっきむっちゃんが言った、噛み気味っていうか、ちょっと恥ずかしくて言い淀んだ風の『か、カモン』で」

「却下」

 蒸し返されるだけでも腹立つのに、パスする度にいちいちほじくり返されちゃたまらない。

「えー、じゃあねー……チェストパスだから『ちぇすとー』は?いや、違うな。いっそのこと『ぱいぱい』は?チェスト=胸だけに」

「……本当に毎回それ言いたい?今たまたま言いたかっただけでしょ?毎回なるとつらいと思うよきっと」

「……むっちゃん。きみは正しい。でも、わたしのことだからそういうテンションのときもあるだろうし、むっちゃんは『パスっ』でいいいから、わたしも極力そうするけど、たまーにテンションがちょっとあがってるときだけ『ぱいぱい』とか言っちゃってもいいかな?」

 己を客観的に見つめた冷静な凪ぃのおねだり。

「……わかった」

 それなりの妥協点を僕と凪ぃは見出し先へと進むことにした。これ以上ゴネても時間と労力の無駄だと、お互いの歩調を合わせた判断。

「んじゃ、いくね。用意はいーい?」

 いいよ、と言いながら僕は一度咳払いをして、

「パスッ」

 何度目かのパスの要求。

「えいっ」

 ようやく凪ぃから放たれたパスをキャッチ。

「ぱいぱい」

「……」

 凪ぃへとパスを返して、ようやく初めてのパス交換が成立した。

「うむ。よしっ、問題なし。じゃあ次はお互い動きながらいこうか」

「もう次に進むの?もう少し反復練習した方がいいんじゃ」

 始まるまでの助走期間が長かっただけに、余計に進みの速さに不安を覚える。

「止まった状態でのパスは、普通に要求されたタイミングでおっぱいのところにパス出すだけでしょ?これはもうおーけー。コントロールなんてやりながらちょっとずつ向上させていくものだから、今日はこれでいいよ。じゃー次は動きながらだね」

「まあいいけど、で、動きながらって僕が動くの?」

「そう。これは結構難しいよね。むっちゃんが走る速度に合わせなきゃいけないから、どのくらいのスピードで走るのか把握しなくちゃだし、むっちゃん自身も自分の走るスピードとわたしのパスのスピードを考慮したうえで、今このタイミングならちゃんとキャッチできるってタイミングでパスを要求しなくちゃ駄目だからね」

凪ぃの言っていることは、ある意味で当たり前のことだが、そういう風に噛み砕いて説明されると、何だかすごく難しいことのように思えた。

「むっちゃん、動いて!」

 せっつくように言われ、前方に走り出した。

「パスッ」

 凪ぃからのパスは、僕の進行方向とは逆側にずれた。

「あっ、遅かったか。いや、走る速度に対してむっちゃんのパスを要求するタイミングが遅すぎたのかな?」

 確かに凪ぃのパス速度や声掛けに対する反応速度なんかを考えると、もうちょっと早めにパスを要求するか、あるいは走る速度を緩めた方が出しやすかったかもしれない。

「でも、ちょっとずれただけだし。どうする?次は凪ぃがキャッチする側?」

「いや、今日はとりあえず、わたしが出す側、むっちゃんが受け取る側でやってみよう。いきなり二つの役割を交互にやるより、まずはお互いがひとつずつそれぞれの役割をできるようになってから、役割を交代していこうよ」

 意外にも、練習の進め方が丁寧というか、すごく慎重だ。単に自分が動くのが面倒くさいから、出す側に徹したいというだけなのかもしれないけど。だとしても運動の苦手な僕としては、あれこれいきなりやるよりも、ひとつひとつゆっくり消化していくほうがやりやすいし有難い。

「わかった。じゃあ次はもう少しゆっくり動いてみるね」

「うん、あんがと」

 さきほどよりも少し速度を落として動き出した。加えてさっきは胸の前に構えていた手を、少し前方に出すことにした。だいたいこの辺りにパスを出してくれたらキャッチする時にはちょうど胸の前で受け止められるよ、というサインのつもり。

「パスッ」

「てやっ」

 今度のパスは、進行方向側にややずれた。

「あうっ、またダメか―」

「でもさっきより取りやすかったよ。ずれも少なかったし」

「あー、やっぱり走ってる方向にずれた方が、まだ取りやすいんだね。そりゃそうか、逆側に動くよりも動きやすいもんね」

うんうん、と納得したように頷く凪ぃ。

「むっちゃんが身振りっていうか手振りで、自分の前の方に出してって教えてくれたのが効いたね。今の気遣いはジェントルでよかったよ」

 たぶん当たり前の動作だと思うんだけど、そんな風に言われると妙に照れた。というより、こんな当たり前のことにわざわざ感謝というか感激している凪ぃの方が、ある意味よっぽどすごい。

「なんとなくわかってはいたけど、いざやってみるとやっぱり違うね。パス交換ってこういうことなんだね」

「こういうことって?」

「だからさ、お互いがお互いのこと、相手はどんなパスを出せるのか、どんなパスなら受け止められるのか、どれくらいのどんな方向のずれとかミスならフォローしてもらえるのか、どれくらいまでならフォローできるのか、そういう色んなことを考えた上で、パスを出したり受け取ったりするってことだよ」

 普通はそこまで細かく考えたりはせずに、何となくというか、特に意識もせず感覚的に漠然と理解してやっているのだろうけど、噛み砕いて言葉にすればそういうことなんだろう。凪ぃは大雑把な面もあるけど、変なところでやたら細かいというか妙に敏感だったりする。

「要するに会話みたいなもんだよね」

「会話?」

 会話のキャッチボールなんて言葉もあるけど、それみたいなものだろうか?

「そう。この話題なら相手は食いついてくるかなとか、この話をいきなり切り出されても困るだろうからどうでもいい話でワンクッション置いてからの方がいいなとか、こんな乱暴な言葉づかいだとあの人はびっくりするだろうからもっと穏やかに言おうとか、速射砲みたいにまくしたててもこの人なら上手く捌いてくれるから大丈夫だよねとか、そういうのを事細かには考えてないだろうけど、頭と心のどっかでなんとなーく考えながら喋ってると思うんだよね。で、会話相手も、こういう風に返したら相手も喋りに興が乗ってもっと会話が盛り上がるなとか、ここは相槌を打つだけで余計な口を挟まない方がいいだろうなとか、ここで茶々入れてもこの人なら上手いこと舵取りしてくれるだろうから無茶苦茶にまぜっかえしてみたりしようかなとか、いちいち意識はしてないけど、やっぱり脳とハートのどっかでなんとなーく考えながらやってると思うんだよね、お互いにさ。それって要するに、いまわたしたちがやってるパス交換と同じでしょ?」

 僕は目を見開いたまま、しばらく言葉を失った。

「あれっ、どしたの?むっちゃんならこういう話しても、軽やかに捌いてくれると思ったからしたのに。そのリアクションはどうなのさ」

 それはあまりにも僕を過大評価しすぎだ。それとともに、僕は凪ぃをこれまで過小評価していたらしい。凪ぃがそんな繊細な考えのもとで会話をしているなんて、夢にも思っていなかった。そんなにもちゃんと考えてくれた上で、キャッチするだけでも一苦労というか疲労感と徒労感満載の会話を仕掛けていたのか。あまりにも僕を過大評価しすぎだし、有難迷惑ですらある。ていうかやめてほしい。

「僕は凪ぃの会話についていけなことも多々あるので、動くスピードとかパスの速度を緩めるみたいに、もう少しテンション緩めて落ち着いた会話をしてもらえるとありがたいんだけど」

「パス交換はまだまだだけど、わたしとむっちゃんの会話は、わざわざ『ぱいぱい』みたいな声掛けなしにばっちり成立しちゃう阿吽の呼吸レベルに達してるからだいじょーぶだよ」

「いや、逆方向にずれまくるなんて日常茶飯事じゃん。食らいつくのがやっとのボールに必死に飛びつく千本ノックやってるみたいな気分になってばっかだし」

「わたしそんなにスパルタな会話してたっけな。シルクのような柔らかいパスを出してるつもりなんだけど」

「いや、キラーパスしか受け取ったことないんだけど」

 バスケしてる最中なのに、野球とかサッカーの会話してるような気分になるほど、僕と凪ぃの認識は食い違っていた。

「でも、それだけパスも奥が深いってことだよね。毎日の会話ですら阿吽の呼吸っていうのは簡単には出来上がるもんじゃないんだから、パスも一日二日でどうにかなるもんじゃなくて、長い時間を積み重ねて出来上がるもんなんだね」

 特に僕たちみたいなど素人なら余計にそうなのだろう。往々にして、パスのような基本的なものほど、突き詰めると難しかったり奥深かかったりするものだし。突き詰めたこともないくせにそんな風に思った。

「よし、じゃあ普段から千本ノックにも耐えてるむっちゃんだから、これしきの練習へっちゃらだよね。ばしばしやっていこう」

 鬼コーチのように凪ぃは発破をかける。

「お手柔らかにお願いします。ばっちこーい」

 気合いの抜けるような張りのない棒読みで応じ、練習再開。

 その後も、何度も何度も繰り返し凪ぃはパスを出し、僕はパスを受けた。何度も何度もやったけど、なかなかぴたっと完璧なパス交換とはならなかった。そんなこと当たり前だけど、それでも僕らは何度も挑戦した。

もしもパス交換が会話みたいなものならば、バスケど素人ではあっても、普段ずれまくりではあるものの無駄に会話を重ねている僕らなので、奇跡的に上手く噛みあって理想的なパス交換ができるのではないか。口にはしないけど、お互いそんな風に思っていたのかもしれないし、ムキになってたり意地になったりしているところもあったかもしれない。それくらい没頭して何度も同じ行為を繰り返した。

一回一回の動きはたいしたものではないけど、それだけ何度も繰り返すとさすがにかなりの運動量に達していたので、溜まった疲労は限界に達しつつあった。パスを出す側の凪ぃですら、肩で息をしている。それでも、お互い無言で続けた。お喋りする余裕はもはやなかったけど、パスによる会話をやめることはなかった。

「(パス)ッ……」

 欲しいタイミングで声を出そうと思ったが、あまりに何度も出し過ぎたのか、焼けついたように喉が枯れ、言葉は声にならず、吐息となって霧散した。

のに。

 バシッ!

 凪ぃから僕の元へ、動いている僕がまったくその動きを緩めることも乱すこともなく、これ以上ないほどピタリと胸の間に収まる理想的なパスが届けられた。

「どうして」

 胸に収まったボールと凪ぃを交互に見つめる。声は出せなかったはずなのに。

 凪ぃも眼を見開いたまま、おもむろに口を開く。

「いや、なんか無意識っていうか、今このタイミングでむっちゃんパス欲しいんじゃないかって瞬間的に思っちゃったというか。あれっ、でもなんであんなにピッタリ受け取れたの?わたしのイメージよりパスのスピードだいぶ遅かった気がするんだけど」

「いや、なんとなく凪ぃが疲れてそうだったから、ちょっと動く速度緩めたほうがいいのかなって、なんとなく瞬間的に思ったというか、自然にそう足が動いたというか」

「……」

「……」

 僕と凪ぃは顔を見合わせる。これってひょっとして……。

「「阿ぁ吽んの呼ぉ吸ぅ」」

 同時に発した僕と凪ぃの声はぴたりと重なることはなく、同じ言葉は微妙にずれて、エコーがかかったような間延びした響きとなって空気を震わせた。

「いや、なんでさ?ここはぴったり声を揃えるとこじゃん。むっちゃん言うタイミングちょっと遅いよ」

「いや、凪ぃが早いんだよ。ここはいちにのさんっ!のタイミングでしょ?」

「違うよ!イチニッサンのリズムだよ。なんで二と三の間にワンクッション置いちゃってんの?いらないよその『の』。間髪入れずにいくとこじゃん」

「いや、二人とも疲れてるから、あんまり急ぎすぎてもついてけないかなっていう優しさの『の』だよ。焦って台詞を噛んだりすることのないようにっていう、気遣い『の』だよ、あれは」

「いらなーい、その優しさ。無駄な気遣いだよ。強引に引っ張ったり押し倒したりしてほしいのに、紳士的な振る舞いされても、かえって迷惑」

 その比喩は中一男子的にリアクションしづらいだろうという気遣いを僕は切望した。

「またくもう、息がぴったり阿吽の繋がりってのは難しいもんだね」

「ほんとだよ」

 凪ぃ相手だと尚更に、とは言わないことにする。だって、少なくとも一度は、何回も何回も繰り返した中の一度だけは、僕と凪ぃはわざわざ口にだしたりすることなしに、ぴったりと息があったのだから。言葉抜きのパスによる繋がり。あれはちょっと、言葉にすると安っぽくなっちゃうけど、奇跡的なまでの手応えがあった。自分だけの手応えじゃなくて、この手応えを相手もまた感じているんだろうな、という根拠のない思い込みに近い実感。ああいう感覚は普段なかなか味わえないものだ。今までたくさんのバスケ漫画やバスケの試合映像を見たけれど、実際にバスケをやってみるまではあんな興奮を感じたことはない。読んだり見たりするのとは、まったく異質の体験だ。

 凪ぃも同じようなことを感じているのかもしれない。僕に難癖をつけながらも、未だ興奮冷めやらずといった面持ちで、パスを出した手を時折まじまじと確認し、ぐーとぱーを繰り返すように掌を開いたり閉じたりしている。掴んだものの手応えを後追いするかのように、何度も何度もぐーとぱーを繰り返していた。

 というわけで、今日はここまでにしよう、なんてわざわざ口に出すまでもなく、僕と凪ぃはバスケライフ三日目の終わりをむかえた。


 パス練習に没頭しすぎて、いつもより遅めのお茶の時間となり、おまけにいつもよりぐったりしながらのまったりティータイムを過ごしてしまったので、帰るのがすっかり遅くなってしまった。

 小走り気味に凪ぃの家の前を歩いていると、普段はあまり顔を合わせることのない、お隣の住人とばったり出くわした。港さんという老夫婦で、仲睦まじくおっとりとした、感じのいい人たちだ。さほど親しい間柄というわけではないけど、僕は一応おじいさんおばあさんと呼ばせてもらっている。

「あ、こんにちは」

「あら、こんにちは」

「こんにちは、いまからお帰りですか?」

「はい」

「気をつけてね。だいぶ日が暮れるのも早くなってきたから」

「はい、家近いから大丈夫です。ありがとうございます」

「私たちは毎日、ほとんどこの時間に散歩に行くことにしてるんですけど、むくも君と会うのは珍しいですね」

 そういえばそうね、とおばあさんが同意する。

「あ、今日はちょっといつもより遅くなっちゃって」

「そういえば、ずいぶん賑やかだったわね」

「凪さんの家はいつも賑やかですけど、今日は一段と賑やかでしたね」

「すっ、すいません。うるさくて迷惑でしたよね。ごめんなさい」

 騒音による近所迷惑を訴える口調ではまったくないし、迂遠な嫌味というわけでもなさそうだったけど、あれだけ騒いでうるさくないわけないので、恐縮して深々と頭を下げた。

「あらっ、別に遠まわしに責めてるとか非難してるとかじゃないのよ。そうじゃなくて、楽しそうで羨ましいわ、って」

「二人の賑やかな声を聞いてるだけでも顔がほころんじゃいましたね」

 微笑みながら頷く老夫婦。

「本当にすみません。うるさいだけじゃなく、妙な掛け声とか下品な会話とかも聞かせてしまって。今日だけじゃなくて、たぶん普段からも色々と騒がしかったりしてごめんなさい。凪ぃ……いえうちの叔母は、ちょっと変わってるというか、奇抜なところのある人で、悪い人じゃないんですけど。本当にごめんなさい」

 心の底から謝罪した。さぞ喧しかっただろうし、さぞお耳汚しな言葉を耳にしたことだろうから。

「本当に気にしないで。凪さんの家から聞こえてくるのが、ちょっと風変わりな声だったり会話だったりっていうのは、もう心得てるから」

「最初のうちはやや面食らいましたけど、今ではもう、言わずもがな、楽しみですらありますしね」

 こちらへの配慮ではなく、嘘偽りなさそうな、そんなたおやかな顔で理解ある言葉をかけてくれる。どうやら凪ぃの人柄は、もはやお隣の老夫婦にとっては、言うまでもなく伝わっているようだ。

「それじゃあ、気を付けてね」

「はい、失礼します」

「さようなら」

 煉瓦色の西日越しに去っていく老夫婦の背中をなんとなしに見つめ、僕はその場にしばらく佇んだままでいた。

両手にスーパーの買い物袋をもったおじいさんと、家の門扉を押さえるおばあさん。おじいさんが通りぬけると、おばあさんはささっとおじいさんを追い越し、玄関のカギを開けて再び玄関扉を押さえる。旦那さんが玄関に入ると、奥さんもそれに続き、おばあさんの手が添えられた扉がゆっくりと閉まっていった。ドアが閉まる瞬間に、扉とドア枠の細い隙間から、ただいま、というハーモニーのように重なりあった老夫婦の声が、風に乗って僕の耳にかすかに届いた。

パス練習はすっかり終わったものだとばかり思っていたけど、まだ終わっちゃいなかった。パス交換に必要不可欠な、息ぴったりの阿吽の呼吸を会得した教材を目の当たりにして、そんな風に思わされた。バスケに繋がる教えっていうのは、案外なにげない日常のなかに転がっているのかもしれない。これからも続くだろう凪ぃとの日常にもそんなものがたくさんあると、いいのだけれど。

 そういえば、今日は僕の方も疲れていたし時間も時間だったので、凪ぃにマッサージしてあげることはできなかった。もう若くはないし、大事ないといいけれど。

「しまったーーー!むっちゃんに腰マッサージしてもらうの忘れた!今頃になってすごい痛くなってきちゃったー。むっちゃーん、ヘルプッ、ヘルプミー、戻ってきて―、むっちゃーーーん」

 凪ぃの雄叫びのような叫び声。近所迷惑極まりない。たぶんまだ僕が家の近くにいることを期待しての、遠吠え。

「あれっ、もう帰っちゃったのかな?いや、そんなことないはず。じゃあ、これならどーだ。『か、カモン』『か、カモン』『か、カモン』」

噛み気味っていうか、ちょっと恥ずかしくて言い淀んだ風の、僕にとってほじくり返されたくない、思い出したくもないパスを求める掛け声。凪ぃはそんな僕の心の襞を巧みに引っ掻き、挑発するように大声で助けを求め続ける。

「むっちゃーん『か、カモン』『か、カモン』『か、カモン』」

 スルーすべきか飛びついてでもキャッチして全力で口を塞ぐべきか。僕は疲れた足を引きずって、渋々嫌々、バスケライフの延長戦に臨むこととなった。


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