第2話

 いつもの風景とのあまりの違いに頭が置いてきぼりにされて、言いたいことは山ほどあるけど口をぱくぱくとさせるだけで、言葉が出てこない。

「いやー、大きい買い物しちゃったよ。大人買いってやつだね」

 いや、確かに子供が手を出せる代物じゃないけど、いい大人はいきなりバスケットゴールを買ったりはしないと思う。

「大人買いっていうか、こういうのって衝動買いって言うんじゃないの?」

「まー、そーとも言うのかな」

「何で?」

「欲しかったから」

「いつから?」

「いつだったっけかな」

 はぐらかすように首筋をぽりぽり掻いている。

「……」

 少なくとも、凪ぃが僕の前でバスケットゴールに興味を示したそぶりを見せたことはない。そもそも凪ぃは、バスケ漫画はともかくバスケ自体には一切興味はなかったはずだ。それなのに。

「インテリアとして買ったってわけじゃないよね?」

「イン……ではないね。うちの庭とはいえ、外に置いてあるわけだし」

「飾りとして買ったわけじゃないんでしょ?」

「もちろん!クリスマスツリーとか鯉のぼりとか、そういうのとは違うね。だってほら」

 凪ぃが指差した先、縁側にはバスケットボールが置いてあった。

「……やるの?」

「やるよ」

「何で急に?」

「なんでだろうね。でも直感的にやりたくなっちゃった」

「今まで、これっぽっちもそんな風には見えなかったけど」

「まー、昨日までこれっぽっちもバスケやりたいなんて思ってなかったからね。バスケやりたいなんて見られてたら、それこそ驚きだよ」

 他の誰かがこんなことをすれば、きっとバスケ部を選ばなかった僕への当てつけだとしか思えないけど、凪ぃはそういう人じゃない……と思いたい。

「やりたいって思ったきっかけとかあるの?」

 おそるおそる聞いてみる。どういう言葉でも、嘘でもいいから僕とは関係ないと言ってほしかった。

「きっかけは、ずばりむっちゃんだね」

 一番聞きたくなかった答えが、ど真ん中ストレートで返ってきた。

「それってつまり……」

 本当はバスケ部に、バスケがやりたいのに、意気地がなくてやらないことを選択した僕に対する、嫌味と皮肉めいた嫌がらせのために、こんな無駄遣いをしたというわけだ。

「そう。悩んだときはたいがい、やっぱいいやってあっさり決めちゃうむっちゃんが、やるかやらないかであんなに悩んで、悩みに悩んだ挙句に選ばなかったもの。それにすごく興味をもったんだよ」

凪ぃは噛み含めるように言った。

「あのむっちゃんをあれだけ悩ませたものって、いったいなんなんだろうって。もしむっちゃんがさ、バスケをやることを選んでたら、自分でやろうなんて思わなかっただろうね。むっちゃんからさ、バスケどう?面白い?とか聞いてそれでおしまい。あくまでむっちゃん経由でしか、バスケについて知ろうとしなかったんじゃないかな」

一拍置いて、緩やかに微笑む凪ぃ。

「だからむっちゃんにはある意味、感謝だね。むっちゃんが選ばなかったことで、自分でどんなだか実際にやってみようって思ったわけだから。棚からぼた餅、むっちゃんからバスケってな具合だね。あんがとね、むっちゃん。わたしのバスケ魂に火をつけてくれたのは、他の誰でもない、むっちゃんなんだから」

 思ってもみなかった答えに、僕は息を飲み凪ぃを見つめる。嘘か本当か、真贋を見極めるまでもなく、その言葉はど真ん中直球、小手先の変化や小細工を一切弄してない渾身の快速球として僕の胸のあたりを貫いた。

「そのおかげで、わたしの懐は寒々としてるよ。魂はこんなにも燃え上がってるっていうのに。どうしてくれるのさ!」

「いや、どうしてって言われても」

 今月はまだ始まったばかりというのに、大丈夫なのだろうか。

「うちの母親に頼んで、何か差し入れとか持ってこようか?」

 一転して申し訳なさがこみ上げ、余計なお世話とは思いつつも言ってしまう。

「いやー、お姉ちゃんは確かに料理上手なんだけど、それは間違いないんだけど、わたしの好みとはちょっと違うんだよね」

 僕の母親は、冷蔵庫に保存のきくちょっとしたものを大量に作り置きしていて、ことあるごとにそれらを凪ぃに差し入れしようとするのだが(僕を通じて)凪ぃはそれらの料理をあまりお気に召さないらしく、遠慮がちにやんわりと断っている(僕を通じて)。それらの料理は、我が家の食卓にはしょっちゅう並べられるが、これぞ家庭のお惣菜っていうものが多く、切り干し大根と油揚げを細切りにしたものを薄味のダシで煮たものとか、小松菜の煮びたしとか、きんぴらごぼうとか、ひじきの煮物とか、まあそういった類のやつだ。僕の子供のころからの定番料理で、あんまり好きな言葉じゃないけどおふくろの味といえばそうなのかもしれない。

 妹の凪ぃも、決して料理をしないわけではなく、意外にも手すきの時間を利用して冷蔵庫にちょっとしたものを作り置きしていたりする。ただ僕の母親とは嗜好が異なり(思考もかなり違う)、じゃがいもをつぶしてマヨネーズと粒マスタードであえたものとか、カボチャとかさつま芋をペースト状にしたものとか、焼いた鮭をほぐしてフレークにしたものとか、甘辛く味付けしたそぼろとか、こっちも家庭のお惣菜といえばそうなのだが、我が家の冷蔵庫にあるものとは明らかにベクトルが違う。何より、味付けとか油分はけっこう違う気がする。僕は我が家のものの方が口にはなじむけど、凪ぃの家のやつも嫌いじゃない。

「だったらさ、アレンジとかしちゃえばいいんじゃないの。味変(あじへん)、だったけ?コンビニとかスーパーで買ってきたやつのちょい足しグルメとかアレンジ料理とか、凪ぃ好きじゃん」

「いや、そういうのは確かに好きなんだけど、なんかお姉ちゃんが丹精込めて作ってくれたやつをわたし好みに上書きしちゃうっていうのは、どうにも忍びないというか。栄養とか健康とかお姉ちゃんなりにちゃんと考えて作ったやつをさ、わたしの手で台無しにしちゃうのも、なんだかなぁって。妙な罪悪感というか」

 妙なところで義理堅いのが、凪ぃらしいといえば凪ぃらしい。

「でも大丈夫なの?食費とか」

 先月末にも結構おおきな買い物をしたとか言ってたような。大きなといってもサイズの大きいバスケットゴール的な意味ではなく、金額的な意味でだ。

「うー。まー食べる分には大丈夫……だと思う。しばらくジャガイモとカボチャとさつま芋漬けの生活になるかもしんないけど」

「なんか、それだけ聞くと戦時中みたいだね」

「なんか口がモゴモゴしてることが多くなりそうだけど、気にしないでいいからね」

「いや、戦時中でも水くらいは飲めるから、ちゃんと水飲んでよ」

「わたし、味のない系の水分、苦手なんだよね」

「お茶とかないの?」

「お茶だってお金かかるんだよ。むっちゃんが我が家で毎日のように飲んでいる紅茶にだって!」

「……ごめんなさい」

 返す言葉もございません。

「いやまー、紅茶は大量に買い置きしてあるからいーんだけど。でも食事のときは紅茶ってわけにもいかないからなぁ。あっ、そうだ!むっちゃんの家にさ、たくさんスポーツドリンクの粉あったよね」

 僕の父親はスポーツメーカに勤務していて、健康食品や運動時の飲料やプロテインなどの販売も手掛けているので、我が家にはその手の商品は格安(内緒らしいけど無料のものも結構ある)で手に入る。

「うん。いっぱいあると思う」

「んじゃ、悪いんだけどそれもらってきてもらえると助かるんだけど」

「紅茶よりも食事に合わせにくそうな気がするけど。スポーツドリンクって」

「そかな?わたし大丈夫だと思う」

 僕の母親が聞いたらひっくり返るんじゃなかろうか。我が家では基本、食事時には緑茶かほうじ茶、夏場は麦茶なので、どんなにたくさんスポーツドリンクがあろうとも食事時に出てくることはないし、ジュース系の甘いものとかも一度だって並んだことはない。

「お寿司にコーラとか、全然だいじょぶなタイプだし」

「寿司にコーラ?」

 偏見だけど、その組み合わせはふくよかな体型な人のみに許された行為なのだとばかり思っていた。

「食事とワインの組み合わせをマリアージュ(幸せな結婚)って言うらしいけど、寿司とコーラは、なかなかのオシドリ夫婦なんだよ」

「カボチャとスポーツドリンクって、ぶつかり合って喧嘩が絶えない夫婦になりそうだけど」

「そかな?あっ、ついでにチョコレート味のプロテインももらってきてくれると助かっちゃうな。デザートにぴったし」

 幸せな結婚の果てにどんな結婚生活が待ち受けてるのか、僕の頭では想像すら及ばない。

「バスケして、ジャガイモカボチャサツマイモを主食にして、スポーツドリンクとチョコ味のプロテインで生活するわたしに、いったいどんな展開が待ち受けているのだろうか。体型的な意味で」

 さしもの凪ぃも不安がっている。その不安げな姿にちょっとだけ安心する。

「わかんないけど、服のサイズはアップしそうだから買い替えが必要なんじゃないの?」

「えぇっ!節約生活のつもりが、また出費がかさんじゃうの?むっちゃーん、服買ってー。っていうかお金ちょうだーい」

入学祝いをくれる叔母ってのは聞いたことあるけど、叔母にお金せがまれるとは思ってもみなかった展開だ。その発想はなかった。

「うう。ピンチだよ、今月ピンチだよ。ピンチはチャンスなんだってうちのばっちゃが言ってたけど、わたしのおばあちゃんはピンチとかチャンスとかカタカタは基本的に使わない人だったから、うちのばっちゃっていったい誰なの?」

 こんがらがった糸みたいに頭の中身が混線している凪ぃ。

「知らないけど、凪ぃにしか見えてない人なんじゃないの、たぶん」

 どうせ漫画とかアニメの設定だったり決め台詞だったりを気に入って、凪ぃが普段の生活や口調に取り入れてるだけだろうから、まともに考えるのも馬鹿らしい。

「えっ、うちのばっちゃってひょっとして、囲碁の達人?」

「それはたぶん別人だと思う。わかんないけど」

「じゃああの人、なんの達人なの?」

「いや、そもそもなにかの達人だと決まったわけじゃ。なんか時々現れては偉そうなことをそれっぽく言うだけの人なんじゃないの?」

「なにそれ?うちのばっちゃって薄っぺら!幽霊よりもぺらっぺらのスケスケじゃん。ばっちゃスケスケ。略してばスケ!あのばスケ最悪だな。もうばスケなんか見たくもない」

「バスケに興味もってバスケットゴールまで買った人の言葉とは思えないから、その略称やめてあげて」

 とりあえずバスケに話が戻ってきたので僕はほっとした。バスケットゴールを目の前にして、このままバスケ話からフェードアウトしちゃうんじゃないかと気が気じゃなかったのだ。

「そうだった。金欠にかまけてて忘れてたよバスケのこと」

 買いたてのバスケットゴールを忘れちゃうくらい、本気でお金がないのだろうか。凪ぃの生活への不安がぶり返す。

「まー食べてく分にはだいじょぶなんだけどね。問題なのは」

 さっきまでのふざけ半分の声が打って変わって真剣味を帯びる。

「来月頭に発売の『エイプリルライオネル』の新刊。月末までその分のお金が残っているのかどうか。っていうか題名にエイプリルってついてるのになぜに五月発売なの?名称詐欺だよ!」

「……漫画一冊くらいどうにかなんないの?」

「いや、今月はそれだけじゃないんだよ。注目の作品が目白押しなの」

「……紅茶代ってわけじゃないけど、エイプリルライオネル、プレゼントしようか?」

「ええっ、いいの?いや、でも悪いよ」

 と言いつつ弾ける笑顔からは期待と喜色が滲み出ていて、悪いなんて感情は微塵も感じ取ることはできない。

「あーでも……やっぱり紅茶代なんて受け取れないよ。むっちゃんはわたしの甥っ子なわけだし、紅茶代を毟り取る叔母なんて、さすがにわたしのキャラじゃないよ」

 さっきまで、もっとどストレートに「お金ちょうだーい」言っていた人とは思えないしおらしさを見せる凪ぃ。こんなに自由に振る舞うキャラは漫画の世界でもあんまりお目にかかれない。きっと途中で整合性がとれなくなり、収拾不可能な暴走キャラになってしまうはずだ。

「じゃあさ、紅茶代が受け取れないっていうなら、こうしてもらえないかな?」

「どうするの?」

 僕は後頭部を掻き、少し顔を伏せ、上目使い気味になりながら、それでも自分なりにまっすぐ凪ぃに視線をやりながら言った。

「あれの……使用料金、ってのはダメかな。ちょっと安すぎるかもしれないけど」

 きょとん、と一瞬なにを言われたのかわからない顔。数秒遅れて、理解が追いついたのか凪ぃから笑顔がこぼれた。

「甘い!むっちゃん甘々!あれがいったいいくらしたと思ってんの?漫画一冊くらいであれを自由に使えると期待するなんて甘すぎる!甘ちゃんだよ。アマチュアなみに甘ちゃん。でも、それを許しちゃうわたしも、プロ級の甘ちゃんだね」

 残照が凪ぃを照らし、光に呑みこまれた凪ぃの顔は眩しくて見えなかったけど、口元が緩やかな弧を描いていたので、きっとにんまりとした笑いを浮かべているのだろうと、僕は思った。

 そんなわけで僕と凪ぃのバスケライフが……始まるといいな。



「よしっ、これで全部かな」

「どこから借りてきたの?これ」

 凪ぃの家の庭には昨日まではなかったはずの、地面を均すための手押し車みたいなローラー状の器械や、野球のピッチャーマウンドを整備するようなもの、地面に白線を引く学校ではお馴染みの道具などが、雑然と並べられていた。

「うむ。わたしのありとあらゆる伝手(つて)を頼って揃えたんだよ」

「タダで?」

「もちろん。これ以上の出費はわたしの死活問題になってくるからね」

 これだけのものを一日で、しかも無料で揃えてしまえる凪ぃの交友関係は謎めいているとしかいいようがない。

「んじゃ、やろうか」

 特に指示らしい指示も与えぬまま、手伝うよう凪ぃは促した。

「コート整備をしようってことだよね?」

「そゆこと。だいたいでいいよ。なんとなくわかるっしょ?」

「たぶん」

 少なくとも凪ぃよりかはわかっているつもりだ。

「わたしは線を引くから、むっちゃんはでこぼこの地面を均してね。地面がやわいまんまだとボールが跳ねないし、でこぼこだとあっちゃこっちゃ跳ねまわっちゃうから。雑草は午前のうちに抜いといたからね。いやー忙しい一日だった。朝から電話かけまくって道具全部揃えたりして、おまけに庭掃除までこなしたわけだから。おかげでわたしゃ腰がいたいよ」

 腰を折り曲げて撫でさする凪ぃ。ということはつまり、今日はまったく仕事をしてないということになる。ただでさえ金欠気味なのに大丈夫なのだろうか。マッサージくらいはしてあげようかなと柄にもなく思った。

 さほどの時間もかからず、手早くコート整備を終えると、凪ぃもラインを引き終わっていた。

「よしっ準備完了。いやー、ちゃんと形になるとなんかそれだけでやってやったって気になるね」

 手の甲で額の汗をぬぐい、凪ぃは参考書を揃えただけで勉強をやり終えたみたいな顔をしている。

「これからが本番でしょ」

買ったはいいけど買っただけで満足してしまい、これまであまり眼を通すことのなかったバスケの教則本を捲りながら、凪ぃをやんわりとたしなめた。

「わかってるって。で、なにからやる?」

「やっぱり二人ともバスケど素人なわけだから、この本の一ページ目から、基本の基本からやっていくのがいいかと」

「一ページ目ってなにが書いてあるの」

「柔軟」

「パス」

 基本のキを、一顧だにせず凪ぃは切り捨てた。確かに凪ぃはすでに相当な運動をしてるようだし、僕も今日は学校で体育の授業があったから、わざわざ身体をほぐす必要はないかもしれない。

「次は?」

「えーっと、ボールに慣れるために、ハンドリングってわかる?」

「あー、あれでしょ?『フンフンフンフン』とか鼻息荒く叫びながら、頭回りとか胴回りとか足の間とかでボールをぐるぐる回したりするやつだよね」

 間違ってはないけど、わざわざ鼻息荒く叫ぶ必要はない。凪ぃのバスケ知識は特定の漫画に影響されすぎている。

「おっけーわかった。パス」

「また?」

「だってやりたくないもん、それ。漫画の中でもあんま楽しくなさそうだったし。だからパス」

 パサーでもないのにパスばっかりだ。

「ならハンドリングの次のページは、腰を落としてその場でドリブルなんだけど」

「これ以上わたしの腰をいじめてどうしようっていうのさ!バスケデビュー初日からわたしの腰に爆弾仕込もうとしてるの?その教則本」

 爆発したように凪ぃは語気を荒げる。

「だったらその次。二人一組になってパ」

「パス」

 僕の言葉を継ぎつつ、同時に提案を却下するという離れ業を繰り出す凪ぃ。

「……もしかして、やる気ない?」

 見切り発車みたいにゴールを買ってコートを整備し、いざやる段になったら飽きてしまいすっかりやる気を失ってしまったのだろうか。そういうことは僕にも覚えがあるので、凪ぃの気持ちもわからないでもない。

「あるよ。モチベーションは中の下くらいあるよ!」

「中の下って、ある方に入るの?どっちかっていうと、ない方に入るんじゃないの?」

「あるよ。あるって言ったらある。あるけど、その教則本がわたしのテンションをだだ下げしてくるんだよ。最近、社会人向けにやる気を高める本とか腐るほど出てるけど、その本はあれだ、その逆で人のやる気を奪う本なんだよ。たぶんニッチな層を狙ってるんだよ」

 やる気を奪われたい人なんてニッチすぎる層を狙う出版社があるとは思えない。

「やる気があるっていうなら、凪ぃは何ならやりたいの?」

「とりあえず休け」

「却下」

 予想はついてたので光の速さで切り捨てた。

「えー、じゃああれだ。リングに叩き込むスラムダ」

「ダメ!っていうか無理」

 断固たる決意をもって却下。

「ダメダメってばっかり言ってると、ダメ人間になっちゃうよ」

「凪ぃが僕をダメ人間にしてるんだよ」

「ふむ。若い男をダメにする妙齢の女性、ってのも悪くはないね」

「あのさ、バスケやろうよ」

「じゃあ『バスケが……したいです』って言ってごらん。涙ながらに」

 色んな意味で、泣きたくなってきた。

「今日はやめにしようか」

 吸い取られたように、僕のやる気も萎えしぼんでいく。

「えー、ここでやめたら本気ダメ人間になっちゃうよ、むっちゃん」

 凪ぃの言い分は正しいけど、凪ぃにだけは言われたくない。

「ちょっとその本見せてごらん」

 力なく本を手渡すと、いかにも適当な感じで凪ぃはぱらぱらとページを捲った。その途中で目を見開き、ページを戻して指を差し入れた。

「これだ!」

 じゃーんと言いながら凪ぃは本の両側を破れそうなくらい引っ張って、僕の眼前へと広げた。

「シュートね。まぁいいんじゃないの」

 基本といえば基本だし、もうしたいままにしてもらうことにした。

「じゃーわたしからやるよ」

 言いながら用済みとばかりに本を僕の方に放り、凪ぃは地面のボールを拾い上げる。

「えっ?フォームとか確認しないでいいの?」

「フォーム?そんなの教えられるもんじゃないでしょ。自己りゅーだよ」

「いきなり自己流でいくの?最初はとりあえず基本フォームでやった方がいいよ。男子と女子でも違ったりするし?」

「そうなの?」

 凪ぃのバスケ知識はバスケ漫画にのみよるものだし、バスケ漫画の中に女子バスケを取り扱った漫画というのはほとんどないから、凪知らないのも無理はないのかもしれない。

「うん。女の人でも男なみに筋力がある人なら問題ないけど。小学生なんかだと男子でもまだそこまで力もないから、女子用のフォームでシュートしたりもするみたい」

「ふーん。まーそれも含めて自己りゅーだね。結局やってみなきゃわかんないってことでしょ。自分がどういうフォームならできるのかって。人それぞれだもんね筋力とか体型とかなんて。ようはシュートしてそれがゴールに入ればいいんだから、各自ご自由にってな話だよね」

「そりゃそうだけど。変なフォームで癖がついちゃうと、後がたいへんとか言ったりするじゃん。いざ直そうと思っても身体に染みついちゃって直せないとか、変則的なフォームのせいで身体に負担がかかって怪我しちゃうとかあるって言うし」

「それさ、むっちゃんの実体験?そういう経験あるの?」

 眉根をよせて険しい眼差しを凪ぃは向けてくる。

「……ないけど」

「じゃあ説得力には欠けるかな。やったこともない人の意見より、わたしは自分のやり方を優先するよ」

「でも教則本に載ってるフォームは経験者の教えだよ」

「でも教則本って、誰か特定の個人に向けて書かれたものじゃなくて、世間一般っていうか、この場合だとバスケ始めようとする最大公約数的な人たちに向けて書かれたものでしょ?わたしっていう個人に向けた教えじゃないもん。だからわたしはとりあえずわたしのやりたいようにやってみるよ。それで上手くいかないようなら、そういう大多数の人に向けられた教えだったり、他の色んなものを参考にさせてもらうよ」

 そういえば凪ぃはゲームでもなんでも、説明書を読まずに取りあえずいじってみる性質だった。頭から入るタイプじゃなくて手から動かしていく性質。

「それにさ、むっちゃんがよく見てるNBAの選手たちも、結構シュートフォームなんてまちまちじゃん」

 バスケの試合映像なんてまともに見たこともないくせに、せいぜい僕がみてるのを横目でちらっと見るくらいなのに、凪ぃはそういう細かいところには目敏かったりする。目端が利くってやつだろうか。

「そうだけど、あれは多分、基本を経たうえでたどり着いたフォームなんじゃないの?それに外人、特に黒人は日本人とは筋力も体型も違うっていうのもあるだろうし」

「なるほど……人種差別ですな」

「人聞きの悪いこといわないでよ」

「だってそうじゃん。黒人がやる分には目を瞑るけど、わたしのは許さないって、これ立派な人種差別だよ。がっかり、むっちゃんにはがっかりだよ。わたしはむっちゃんのことブラザーだと思ってたけど、金輪際ブラザー解消させてもらうよ」

「いや、そんなヒップホップな関係性じゃないでしょ僕たち。ってか、黒人といえばブラザーとか、その発想だって人種差別なんじゃないの?」

「むっちゃんだって黒人といえばヒップホップって発想、もうそれ偏ってるからね。今はヒップホップはストリートな世界じゃおさまらないくらいに幅広くなってるんだから」

 凪ぃは意外にもアニメソングとヒップホップを音楽ジャンルでは贔屓にしている。

「わかったよ。僕が悪かった。黒人の人たちにも凪ぃにも謝る。もう好きにしていいからバスケ、とりあえずやろう。シュートも好きにやってください」

 なんかいちいち横からやいのやいの口出すのはやめた方が無難だ。屋外だから日が暮れるとボールもゴールも見えにくくなっちゃうし、好きなようにやらせるのが最善だ。

「おーけーブラザー」

 ブラザーだけは好きにさせておきたくなかったけど、ここはあえてスルー。今いっときだけは弟たる凪ぃのわがままを許すブラザーの役目を甘んじて引き受けることにした。

「とりあえず、ここらへんから撃ってみるとしよう」

 だいたいの目安で引かれた、いわゆるフリースローラインのゴール正面に凪ぃはポジションを取った。サッカーのスローインみたいな投げ方や、野球のワインドアップ(大きく振りかぶる投球方法)のような姿勢や、両手で下から放り投げるというか掬い上げるようなフォーム(おそらく漫画の影響と思われる)など、考え付くだけのありとあらゆるやり方をさんざ試しながらあーでもないこーでもないと首をひねった後、天啓でも受けたのか光が射したような顔をした。

「うん、これだ」

 凪ぃの言う通り、バスケのシュートフォームというのははもちろん個人個人、それぞれ微妙な違いはあり千差万別ではあるけれど、大別すれば基本フォームというのは二種類になる。ワンハンドとダブルハンド。ワンハンドは男性一般が用いるフォームで、利き手でボールをもち反対の手は添えるだけ。ようするに片手投げ。ダブルハンドは、女性や力のない男性が用い、利き手だけでなく反対の手でもボールを支えて投げる両手投げ。

 それだけでもかなり見た目的に違うのだが、さらに異なるのはシュート時にボールを構える位置だ。ワンハンドの場合は構える位置が額から頭の前あたりに構えるのだが、ダブルハンドは胸の前あたりに構える。もちろん人それぞれわずかな違いはあるけど、基本としてはそういう形になることが多い。ダブルハンドは頭より下の胸で構えることで、より下から持ち上げる力をボールに乗せることができるので、両手の力に持ち上げる力も加わり筋力のない人でもシュートの飛距離を伸ばすことが可能になる、という原理になっている。

 で、たぶんあまり筋力のない凪ぃが出した答えは。

「てやっ」

 ボールの持ち方はワンハンドなのだが、構える場所はダブルハンドの位置。胸の前で構えて、ワンハンドで押し出すのと突き上げるのの中間みたいにした投げ方。

「あうっ」

 ボールはゴールリングに嫌われ、地面へ落下。バウンドしながら僕の足元に転がってきた。

「ちぇっ。まーいきなりゴールってわけにはいかないか。次つぎっ。むっちゃーん、ボール頂戴」

 僕の爪先にあるボールを要求する凪ぃ。僕はボールに目もくれず、陶然として凪ぃをじっと見つめたまま固まっていた。

「ん、どしたの?もしかしてそんなに変なフォームだった?奇抜すぎ?」

 僕はたぶん、凪ぃのような自分で考えた独自のフォームでシュートしたりはしないだろう。とりあえず男性一般が用いる基本フォームのワンハンドを試し、でもたぶん力がないから飛距離がでなくて、仕方なく女性の基本フォームであるダブルハンドをやってみたりするのだろう。でも、男性がダブルハンドっていうのは一般的に見栄えが悪いというか―これも偏見だけど―自分的にもいまいち恰好がつかないから、しばらくは飛距離が出ないのに目を瞑りながら、だましだましワンハンドで練習し、そのうち自然と筋肉がついてくるのを待つ。という流れに落ち着くんじゃないか、とやりもしないうちからそんな風に思っていた。

 でも凪ぃは、そのうちとかじゃなくて今どうすれば、どのようなやり方なら自分にとって可能なのかを考え、それを実践した。僕には思いもつかないやり方で。

 しかもそれは、実は僕がひそかに憧れていたフォームだった。ありとあらゆるバスケ漫画を読み漁ったなかで、あまり人気が出なかったのか全六巻で終わってしまったバスケ漫画があった。僕は結構面白く感じたので何度か読み返しているのだけど、とりわけ何度も繰り返し読んでいるエピソードがある。背の低い主人公が、学生離れした大柄な体格の選手の得意技であるシュートブロックを前にして苦境に立たされる、という話だ。で、主人公が対策として用いたのが、胸のあたりに構え押し出すようにシュートを撃つことで、通常よりも低い弾道ながらシュートを撃つまでの時間を大幅に短縮することができ、相手がシュートブロックに間に合わない、というものだ。アンブロッカブルシュート。直訳するとブロック不可能なシュート。

 実際に口にしたなら恥ずかしいネーミングだが、漫画として読む分にはきらきらと輝いて見えた。かっけぇぇぇぇえ!そのエピソードを読むたびに心のなかで呟いていた。

 もしも自分がバスケを実際にプレイすることになったら……運動の苦手な僕にはありえないことだろうけど、もしも何かの間違いで僕が実際にプレイすることになれば、そのシュートをやってみたいなと密やかに胸に抱いていた。

もちろん、早撃ちのガンマンみたいに超高速で撃ちだしているのにすぱんすぱんとゴールが決まっちゃうのは漫画の世界のご都合主義にすぎず、実際にはそう上手くはいかないのはわかりきってるけど、それでも憧れずにはいられなかった。

しばらくしてNBAの有名選手の中にアンブロッカブルシュートそっくりのシュートフォームの選手を見つけたときは、思わず舌打ちしてしまった。だってその選手がいなければ、もしも僕がバスケを実際にプレイすることがあったとして、そのフォームでシュートを撃ってもたぶん誰も漫画から影響を受けたなんて思うことはなく、たんにへんなフォームで撃ってるな、くらいにしか思わないはずだ(なにせそのくらいにマイナーで人気がない漫画なのだ、失礼な話だけど)。でもその選手がいることで、あいつあの有名選手の真似してるぜ下手くその分際で、とか言われかねない。そのNBA選手のプレイ自体は大好きだけど、正直いい迷惑だ。などと実際にプレイしてもいなういちから、そんな風に思っていた。そういう理不尽窮まりないクレーマーになってしまうほど、僕にとって特別なフォーム。

 今しがた凪ぃがやってみせたのは、そのシュートフォームだった。

「凪ぃさ、それ自分で考えたんだよね?」

 アンブロッカブルシュートの載っている漫画は僕が購入したもので、僕が知る限り、凪ぃはそれを読んでいないはずだ。。

「うん。片手撃ちだと届きそうになかったけど、両手撃ちはなんかぱっとしないっていうか、自分的には野球みたいに大きく振りかぶって投げるやつがいいんだけど、なんかいちいち振りかぶるのもそれはそれでどうなんだ、みたいな葛藤もあって。んで、片手撃ちで胸のとこから勢いつけちゃえばいけるんじゃ?って閃きがご託宣のように舞い降りてきたから、それに従ってみたんだけど……そんなにヘン?いや、ヘンなのは構わないっちゃ構わないんだけど、そこまでまじまじと見られると、そんなにみっともなく見えてるのかって」

悩むようなそぶりを一瞬だけ見せるも、すぐにあっけらかんとした顔になる凪ぃ。

「まーでもいいか。高齢になっても現役で活躍した名ピッチャーの山本なんちゃらさんが、お前の投球フォームはタコ踊りみたいだなって若いころに馬鹿にされたけど、自分のなかではそれがしっくりなじんでたから、誰になにをいわれてもそれを貫き通した、ってインタビューで語ってたもん。なぜかそのインタビュー、わたしのオタク友達が愛読してるラジコン雑誌に載ってたんだけどね」

 凪ぃには色々なジャンルのオタク友達がいて、凪ぃ自身はその人と興味のジャンルが違っているけど、オタク魂みたいなところで共鳴する部分があるのだそうだ。

「とにかくヘンに見えようとわたしにはこれがいい感じだから、とりあえずこれでやってみるよ。で、むっちゃんはどーすんの?」

 凪ぃにはそんなつもりは毛頭ないのだろうけど、僕にはまるで挑戦状を叩きつけられたように聞こえた。むっちゃんはどーすんの?

「僕は……」

 もしも僕が凪ぃと似たようなフォームで撃ったら、凪ぃは何て言うだろう。真似っこ真似っこと茶化してくるのか、そんなにわたしのフォームカッコ良かったと自慢げにからかってくるのか。どちらにせよ、まずは基本に忠実であるべきで自己流はよくない、と偉そうにのたまった奴が、人の考えた自己流を真似するなんて、できるわけもない。赤っ恥もいいところだ。だけれども、そんな風に人からどう思われるとかを基準にしてることじたいが情けないともいえる。建前とか自意識で雁字搦めになり、八方ふさがりの袋小路に迷い込んだ僕が、逃げ場として求めたのは。

「まあ、基本が一番だよね」

 教則本に載っていたオーソドックスなフォーム。足元のボールを何の変哲もないフォームで放った。案の定、飛距離は出ず、ゴールにかすりもしない。専門用語でエアボールといい、やらかすと恥ずかしいプレイの代名詞でもある。赤っ恥から逃げたところで、辿りつくのは恥ずかしいところでしかない、まったく僕にふさわしい末路だった。

「へー、はじめてにしては結構きれいなフォームだね。いいんじゃないの?」

 凪ぃはお世辞を言う人ではないので、たぶん僕のフォームはそれなりに見えたんだろう。あれだけ試合映像とか見まくってたおかげなのか、形くらいは真似できていたみたいだ。でもそれはあくまで形だけで中身はからっぽなので、僕は凪ぃの言葉を素直に受け取ることができなかった。何かから影響を受けたと思われるのが恥ずかしくて、自分の憧れていたフォームを捨てた自分が、すごく情けなく思えた。

「かすりもしなかったけどね」

 自嘲するように僕は言った。

「むっちゃんはこれから成長期迎えるから、そのうち届くようになるよ。背だって伸びるだろうし徐々に筋肉もついてくるからだいじょーぶ。たぶん声も低くなっちゃうんだろうな」

 凪ぃは微笑ましい顔の中に寂しげな色を滲ませて言った。

「だといいけど」

「成長期を終えて骨格の固まったわたしとちがって、むっちゃんはこれからどうとだって変われるんだよ、きっと。でも筋骨隆々で野太い声のごっついむっちゃんってのは想像つかないね。それはそれで妄想のしがいはあるけど」

凪ぃの妄想力は留まるどころか、未だ成長中のようだ。

「金欠とはいえ、もひとつボール買っとけばよかったかな。どっちかが撃ってる間、暇になっちゃうんもんね」

「いいんじゃない。片方はボール拾いってことで。それにフォームのチェックとかさ、そういうのもできるし」

「おお!なるほど、自分じゃよくわかんかったりするもんね。んじゃわたしやるから、むっちゃん見ててね。なんか、見られてると思うと、気合い入るね」

 僕だったら緊張で身体が強張るところだけど、そんなのとは無縁な凪ぃは自己流フォームで小気味よくシュートを撃つ。

「うーん。見事なくらい全然入んないね」

 本人は嘆息してるけど、全てリングに当たってはいるし、ど素人にしては悪くないというか、結構いい感じに見える。フォームも変則的ではあるけど、一連の動作に特にぎこちないところもない。たぶん本当に凪ぃにしっくりきているんだろう。

「なんか最後のとこが違う気がする。タイミングが微妙に毎回ずれて、安定しないんだよね」

「リズムが悪いってこと?」

「そんな感じ。なんかいい方法ないかな」

 アイデアを捻りだそうと凪ぃは首を斜めに傾ける。今のところ僕を横に差し置いて既に十二本連続撃っていることにはまったく頓着してないようだ。

「じゃあ僕の撃ってるのを見ながら考えてもらってもいい……」

「そうかわかった!」

 僕の申し出を打ち消すような凪ぃの声。何か思いついたらしく、ボールを僕に預ける気はなさそうだ。カラオケでマイクを手にしたら最後、ずっと離さないタイプかもしれない。

「いくよ、むっちゃん」

 探し当てた宝物を披露する子供のような自慢げな瞳で僕を一瞥し、凪ぃはわずかに膝を曲げ、下半身を沈ませる。流れを止めずに全身を上方へと伸び上がらせ、そのまま腕をゴールへと伸ばしていく。

「凪しゅー」

 撃つ瞬間に凪ぃはそう叫んだ。

「しゅぱん」

 凪ぃの声に重なるように、放物線を描いたボールは、すぱん!とゴールに吸い込まれた。

「いえす!」

 貫くように人差し指を立てた右腕を掲げ、凪ぃは天を突いた。

「おお」

 ゴールリングにかすりもこすりもしない、何にも邪魔されない綺麗なゴール。専門用語でスイッシュと呼ばれる、見る者はもちろん撃った本人も一番気持ちのいいシュート。かすりもこすりもしないのはエアボールと同じだけど、その中身は天と地ほどに違う。

「見た見た?ナイッシューでしょ。わたしの凪しゅー」

 凪しゅーナイッシュー、と連呼して自分を讃える凪ぃ。

「ところで何なの?その凪しゅーっていうのは」

 よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりの得意顔で凪ぃは答えた。

「いやー、撃つときになんか合図っていうか、自分のなかで撃つぞ!っていうのが欲しかったんだよね。ピストルバーンで走り出す短距離走の選手みたいに。で、その合図と同時にゴールのイメージも浮かんでくるような掛け声ないかなーって思ってたら、この凪しゅー、しゅぱんっ!を思いついちゃって」

 凪しゅーは凪ぃシュートの略で、しゅぱんっはゴールに吸い込まれるときのすぱん!になぞらえているようだ。

「これだと上手くリズムとれるっぽいな。もっかいやってみよ」

 と十三本連続で凪ぃはシュートを撃った。

「凪しゅー、しゅぱんっ」

 またしてもゴール。今度はスイッシュというわけにはいかなかったけど、十一本目までよりも、明らかにボールの軌道が安定しているし、フォームの流れもより自然で滑らかさを感じる。眼を瞠る成長ぶり。

僕は驚嘆せざるえなかった。凪ぃが二本連続でゴールしたことにもだけど、それ以上に凪ぃがシュートリズムを生み出すために編み出した方法。これはまたしても、僕の読んだことのあるバスケ漫画に出ていたものだった。こっちの漫画はかろうじて全十一巻まで生きながらえたのだが、たぶんあんまり人気はなかっただろうし知名度も低いはずだ(たいへん失礼な話だが、基本的にバスケ漫画は特定の作品を除けば、ほとんどがそんな感じだ)。

 これまた背の低い主人公が、体力や集中力を消耗した時でも、リズムを崩さずに一定のテンポでシュートを撃つために開発した方法が、シュート発射時に自分の名前を叫ぶ、というものだった。それをやってたのが編み出した最初のうちだけで、途中からそんなのなかったことのようにやらなくなったり、思い出したかのように時々やってみたりと、厳密性に欠いていて一体どういう基準でやったりやらなかったりするんだ?となんだか妙に気になる漫画として僕のなかに記憶されている。

 その技に関しては全然憧れもしなかったし、どちらかといえばださくて恰好悪いと思っていたのだけど、もしも僕が万が一バスケをやることがあったとして、どうにもこうにもシュートが入らない時があれば、最終手段として試してみるつもりの最後の切り札として温めていたカード。それを凪ぃは、シュート練習の十二本目で、まったくの独力でたどり着いてしまったのだ。

 僕の驚きを尻目に、もはや意味とか関係なく、ただ口にして言いたいだけの単語を連呼する子供さながらに、凪しゅー凪しゅーと上機嫌に口ずさんでいる。

「凪ぃってさ……全部自己流なの?何かから影響とか受けたりしないの」

 自己流を編み出すなんて離れ業はもちろん、あからさまに何かから影響を受けることすらためらってしまう僕は、尋ねずにはいられなかった。

「ん?そりゃあるよ。っていうかしょっちゅうだね」

「そうなの?」

 まさか今しがた見せたシュートも、僕の買いそろえたバスケ漫画を密かに盗み見を。

「うん。今のだってさ」

やっぱり!

「言ったじゃん、陸上の短距離選手のピストルスタートからの思い付きだって」

 何だ、そういうことか。わずかにがっかりしてしまったのは、凪ぃが受けた影響とは、僕みたいに誰かの考え付いた方法をそっくりそのまま真似をするというのとは違う、一見すると関連性のないものを結びつけるという発展的かつ柔軟性を感じさせるものだったから。同じ穴のムジナを見つけたと思ったら全然違っていたことに残念がっている自分が、情けなさすぎた。ただがっかりしたうちの九割はそういう情けないものだけど、残り一割はあのマイナーバスケ漫画たちについて一緒に語り合える相手と出逢い損なった、ということでもあったりするのかもしれない。自分の気持ちは、自分のシュートフォームと同じで自分ではよくわからかない。

「影響なんて受けまくりだよ。いいことじゃん、なにかに影響されるなんてさ。それでその人の世界が少しでも広がるんなら万々歳だよ」

「でもさ、そういう連想的な影響ならともかく、誰かの影響を受けてそれをそのままそっくり真似するっていうか、そういうのはどう思うの?」

 自分のことだけど、取り澄ました顔で他人事のように尋ねた。

「んー、俗にいうパクリってやつ?」

「まあ悪く言えば」

 そうだねぇ、と腕組んで凪ぃは考え込む。

「結局さ、機械じゃあるまいし完コピってありえないよね。なにかをやろうとすれば、どうしたってその人の個性とか生まれ持ったものとか、長い時間をかけてその人に刻み込まれたものとか染みついちゃった癖とかが、どうしたって顔をもたげちゃうでしょ」

 自分では気づかないけど、自分の中にどうしようもなく存在してしまうものってのは確かにある。気づいていてもどうしようもないものも、同じようにある。

「だからいーんじゃん。パクっても」

 。屈託も邪念も何もないかのように、凪ぃはあっさりと言ってのけた。

「いいの?あんなに自己流にこだわってるのに?」

「わたしのなじみの世界でもさ、パクリってのは線引きが難しいって言われてるし」

 なじみの世界とは、たぶんオタク界隈のことだろう。

「本人的にはグレーゾーンなんだけど、一般社会的にはまっくろけっけ、みたいなパターンもあるし。なんともいえないんだけど……まあ商業的なレベルでのパクリってのはさすがに問題あるし、超えちゃいけない一線とかって確かにあるんだろうけど、個人でやってる分には問題ないんじゃない?だから普通に真似するのなんて、全然ありでしょ。カラオケなんてわたしにとってはモノマネ大会みたいなもんだよ。まー最近はなぜだがわたしがカラオケ行こうよって誘うと、友達全員つれない態度だから一人でいってるけどね。ひとカラモノマネ大会ってさ、あれ結構寂しいんだよ」

 やっぱりマイク独占タイプなんだろう。

「あー、こんなこと言ってたらなんかカラオケ行きたくなってきた。むっちゃん、つき合って!」

 思わぬ話の流れに、流れ弾喰らったみたいに僕は慌てふためく。

「やだよ、絶対嫌」

 音楽の歌のテストでさえ、前日から憂鬱すぎて、明日学校に近くのどっかの国の打ち上げたなにかが爆破とかしないかな、などと穏やかじゃない妄想をしているという僕にとって、カラオケなんかあり得ない。

「だいじょーぶ。むっちゃんは座って聞いているだけでいいから」

 人前で歌うのを恥ずかしがる性格の僕を見越して、凪ぃのなかでは助け舟を出したつもりなのかもしれないけど、それはそれで嫌だ。凪ぃのモノマネワンマンライブを見せられるのは苦行に耐えるようなものだ。

「嫌だってば」

「ちぇっ、なんかすっかりカラオケ気分が盛り上がっちゃったんだけどな。でもほらっ、これだって何気ない会話の端っこに出たカラオケって単語から影響受けたからだよ。わたし今、すっかりカラオケしたいモードだもん。こんなちょっとしたことで、気分とか影響受けちゃうんだからさ、人って影響受けずにはいられないんだよ。生きてるってのはそういうことだよきっと。影響受けずに生きてる人なんかいなくてさ、まったく影響受けてないとしたら、それはきっと生きてるけど生きれてないっていうか……なんていうのかな」

凪ぃは言葉を選ぶように、手繰るように言葉を継ぐ。

「たぶん……む雲っちゃってるんだよ」

 呟くようにして言い、いつもの仕草。いつも通りされるがままの僕。その行為が終わるまでは僕は何も言わない。

「おしっ、これでおっけー。くりあくりあ」

 眼鏡を拭いてもらったせいか、霧が晴れたかのように目の前の世界が澄み渡っていた。

「じゃ、凪ぃ的には影響を受けるっていうのは全然ありなの?」

「ありあり。自己流も影響を受けたり真似してみたり、パクリはまぁお茶を濁すとして、そういうの全部ひっくるめたうえでの自己流なんだよ。だからむっちゃんもばんばん影響うけた方がいいよ。一番だめなのはやらないことじゃないかな。やってみなきゃわかんないんだから何事も。やらずしてわかったふりしてるのが一番いくない」

 影響を受けたり人の真似をしたと思われるのが恥ずかしくて、結局やらずに流してしまう僕のことをずばり指摘され、射抜かれたような思いだった。

 今からでも、今さらすぎるけど、あのフォームで撃ってみようか。真似かもしれないけど、たまたま凪ぃがそのやり方で上手くいったからそれに自分も相乗りしようっていうさもしい根性なのかもしれないけど……それでも、やってみようか……いやでも、そんなみっともない真似は……ぐるぐると巡り、答えの出ぬまま逡巡する想い。

「しかし自分でも凪しゅーにはびっくりだね。まさかこんなにしっくりくるとは。何度でも言いたくなっちゃうよ。凪しゅー凪しゅー」

 悶々と悩む僕をよそに、再び念仏のように凪しゅーを繰り返す凪ぃ。

「あっ」

 突如、凪しゅーを打ち切り、何かに気づいたように凪ぃは叫んだ。

「凪しゅー凪しゅー言いまくってたら、なんかむしょうに『釜しゅー』食べたくなってきちゃった」

 釜しゅーとは、駅前のデパ地下に売っている凪ぃも僕も大好きな石釜シュークリームのことで、二人の間ではそう呼んでいる。

「……凪ぃって、影響されすぎだよ」

「でも、時間的には今から釜しゅー買いに行けば、帰ってくるころにはお茶の時間にちょうどいいよ」

「そうだね。僕まだシュート一本しか撃ってないけど、ちょうどいいね」

 ジト目で見つめるが、凪ぃは気にもかけない。

「一日目だし、ちょうどいいんじゃない。いきなり百本とか撃つと、腰がびっくりして悲鳴をあげちゃうよ」

 百本撃てば腰が抜けたりすることもあるかもしれないけど、さすがに一本じゃ逆の意味で腰砕けだ。

「よしっ、今日はここまで!もうここからは釜しゅーのお時間です」

 すっかり気分は釜しゅーモードといった様子。こうなるともう何を言っても無駄だろう。釜しゅー食べるまでは収まりがつかないのが、凪ぃっていう人だ。

「わかったよ。じゃあ駅前まで買いに行ってくるから、その間休んでていいよ」

「えっ、むっちゃん買ってきてくれるの?」

 もうマッサージをしてあげる気はすっかり失せていたので、代わりにひと時の休息くらいは与えてあげることにした。

「うん。お茶の用意だけよろしく」

「おーけー。むっちゃんも今日は釜しゅーでいいの?」

「うん。ほとんど何にもしてないけどなんか疲れたから、ちょっといつもより甘いお菓子を食べたい気分だし。何にもしてないんだけどね!」

 何にもしてないの部分にたっぷり嫌味と皮肉成分を盛り付けて声高に強調してみるものの、凪ぃは柳のように受け流す。

「甘いっていっても、あそこの釜しゅーは普通のお店のシュークリームに比べたら、大分甘さ控えめだよ。大人の味っていうか。ほんとはむっちゃんは舌だけはけっこう大人の舌してるよね。アダルト舌だね」

「微妙な年頃の甥っ子にそういうこと言うもんじゃないよ」

「おおっ、むっちゃんもそういうの気にする年齢になったんだね。思春期真っ盛りだ」

 これ以上会話を続けるとへんな方向に流れていきそうな気配が濃厚だったので、さっさと買いにいくことにした。

「じゃ、いってくる」

「いっておいで。お金は後で払うからよろしくー」

 別に急ぎってわけでもないからゆっくり歩いていってもいいのだけど、運動苦手な僕にとってはかなり珍しいことに身体を動かした気分だったので、駅前までひとっ走りしてみた。シュート一本はさすがに物足りなかったようだ。

「いらっしゃいませ。何になさいますか」

 僕と凪ぃはこの店には何度も買いにきているので、店員さんの顔はすっかり覚えている。お馴染みのアルバイトとおぼしき若い女性が応対してくれた。

「えーっと、凪しゅー」

 何度も連呼されて耳に残ったままの言葉が口を衝いて出てしまった。

「じゃなかった、えーっと釜しゅー」

 慌てて言い繕うが、今度は僕と凪ぃの間だけの呼び名である釜しゅーをうっかり口走ってしまう。普段のなかで耳や口にこびりついてしまったものが、この場でダダ漏れになってしまっている。

「じゃない。すいません、あの、えーっと、そうだ。石釜、石釜シュークリームを二つください」

 学校で「先生」と呼ぼうとしたのに間違えて「お母さん」と言ってしまった小学生のように、僕は恥ずかしさに耐えきれず目を伏せて言った。顔が熱い。

「ふふっ」

 店員さんの笑い声。そりゃそうだろう。わけのわからない言葉を連発した挙句、しどろもどろに注文する客なんて、滑稽で気持ち悪いと思われるに決まっている。

「あっ、すいません。別にお客さんを笑ったわけじゃなくて」

「えっ?」

 僕は顔を上げる

「いや、私たちも内輪では『釜シュー』って呼んでるんです。で、前に私も、お客さんに『こちらの釜シュー、焼き立てでーす』とか言っちゃったこととかあるから、それ思い出しちゃって。普段使ってる言葉って、やっぱり口が覚えてるってことなんでしょうね」

 耳も口も言葉も心も、意識するしないにかかわらず、なにかに接すれば影響を受けずにいられないものなのかもしれない。

「なんで、これから注文するときは釜しゅーでも全然大丈夫です。お客さん、結構な常連さんですもんね」

どうやらあちらも僕の顔を覚えてるらしい。常連ってほどでもないと思うけど、そういう扱いを受けるのは悪い気はしなかった。

「あっでも、なぎシューっていうのは?」

 それは覚えていてほしくなかった。

「いや、それには深いわけがありまして」

 訳はきかずにいてくれるとありがたい。浅すぎるから。

「他のお店にあるのかな?なぎシュークリーム。薙刀シュークリームの略とか?」

 その発想はなかった。

「もしくはウナギシュークリーム、いや蛹(さなぎ)シュークリームの略とか。」

 発想しすぎ。

「あの、もういいですから」

「あっ、すいません。でもなんだか気になっちゃって。妙に耳に残りますよね。なぎしゅーって」

「金輪際忘れてくれて結構ですので」

「そう言われても、なにかの拍子に言っちゃいそうだな」

 バイト仲間同士の会話などなら問題ないだろうけど、お客さん相手に言ってしまったりすることのないよう、密かに健闘を祈りつつ、店を後にした。

「てなわけで、凪ぃのおかげで散々だったよ」

 帰るなり、事の元凶たる凪ぃに店でのやり取りを文句を言うように説明した。

「えー、そんなことが」

 いつになくショックを受けている様子。凪ぃがこの手のクレームに責任を感じたりするのは珍しかった。

「そんなむっちゃんと若い女性店員さんの甘酸っぱいやりとりがあったなんて。そんなスイートスカッシュでキュンキュンハートなシーンを見逃してしまったなんて。わたしとしたことがーーーーー」

 うわぁ。一人で行ってよかったと心底思う。口で説明しただけでこうなのだから、実際に見られていたらと思うと、心胆寒からしめることこの上ない。

「くっそー、なんで一緒に行かなかったかなー。むっちゃんと、かすたーどちゃんの甘々なやり取りを見逃すなんて」

「カスタードちゃんて誰のこと?」

 おおよそ見当はつくけど。

「決まってるじゃん。その店員さんのこと。きっとかすたーどくりーむのように、とろーっと黄身がかった、ちょっと天然はいったウザかわいい系の人柄なんだろうな。っていうか佐藤さんでしょ?この時間にバイト入ってるのって」

「佐藤さんっていうの、あの人?ちょっと丸顔の背の低い人だけど」

「うん、佐藤さんだね。間違いないよ」

 凪ぃが細かいところに目敏いのは知ってたけど、ひょっとして馴染みの店の店員さんの名前を全て憶えてたりするのだろうか。

「でも今日からわたしのなかではカスタードちゃんだね。佐藤さんは。これまではしゅがーちゃんって心のなかで呼んでたけど」

 聞くまでもないので、佐藤さんをシュガーって呼んでる理由は聞かなかった。

「ほんと一生の不覚だよ。この腰が憎い。ちょっと腰を甘やかしたばっかりに、甘い瞬間を見逃してしまった。ほんと肝心な時に役立たずな腰だよ、こいつったら」

 馬に鞭うつみたいに、凪ぃは自分の腰を叩いた。一方僕は、役立たずな凪ぃの腰に感謝した。いまならマッサージをしてあげてもいいくらいだ。

「まあいいや。今日のお茶の時間は、それを肴にして堪能しよう」

「勘弁してよ」

「しかし、あんだけ連呼してると影響って受けちゃうもんなんだね。やっぱいいことだね、なんであれ影響を受けるってのはさ。むっちゃんがわたしの『凪しゅー』の影響うけてなかったら、かすたーどちゃんとのそんな展開もなかったわけだし」

「別にいらない展開なんだけど」

「そんなことないよ。おかげで、今まで丸顔ってくらいしかむっちゃんの中で認識してなかったかすたーどちゃんが、凪しゅーから薙刀シュークリームとか蛹シュークリームとか発想しちゃうちょっと不思議ちゃんっていうイメージに塗り替えられたでしょ?いいことだ」

「佐藤さんにとって、それっていいことなの」

「丸顔よりかはいいんじゃないの」

「僕のなかでは、丸顔は消えてないんだけどね。丸顔から丸顔の不思議ちゃんになっただけで」

 丸顔イメージは拭えずに残ったままだ。

「なんかかすたーどちゃんがかわいそうになってきた。消してあげて、丸顔」

「いや、何か釜しゅーの形状も関係してるのか、丸顔のイメージが一層強化されちゃった感じで」

「うーん、お前も罪なやつだね」

 釜シューにフォークを突き立て、パリっとした皮と甘さ控えめカスタードをたっぷり掬い取って口に含ませると、凪ぃはほころぶような笑顔になった。

「でも許しちゃう。許さざるをえない」

「凪ぃ、いただきます言ってないよ」

 横から窘める。

「おっとごめんごめん。頂きます、じゃなくて頂いてます」

 作ってくれた人と売ってくれた人、加えて買いに行った僕を労うように凪ぃは言った。僕もそれに続き、甘さ控えめの釜シューを頂いた。いつもより少し甘い気がしたのは、気のせいだろうか。今日に限ってあの店のパティシエさんが砂糖の分量を間違ったりはしないだろうから、僕の舌や心が、なんらかの影響を受けたということなのか。どうであれ、いつもより少し甘いものが食べたい気分だった僕にはちょうどいい甘さだった。なるほど、影響を受けるっていうのは、そう悪いことではないのかもしれない。

「でもさ、バスケも奥が深いね、やってみると。ただゴールにボール入れりゃいーんでしょって思ってたけど、シュートひとつとっても、やり方次第で色々あるし。むっちゃんがやるべきかやらざるべきかであんだけ苦悩した理由の一端が垣間見えたよ。」

 シュート経験十三本にしか満たない凪ぃが、熟練した経験者のごとくのたまった。

「僕はまだ、そこまでの奥深さを体験できてないけど」

 シュート経験が一本で、お菓子の使いっぱしりの経験しかない僕は、雑用係を任されたお荷物新入部員のように言った。

「これからだよ。こっからこっから。ちょっとずつ掘り進めていけばいいんだよ、バスケをさ。漫画をちょっとずつ漁っていったみたいにさ」

「バスケ漫画は打ち切りが多いから、僕らもそうならないように気をつけなきゃね」

「縁起でもないこと言わないでよ、むっちゃん。打ち切りの恐怖ってのは、味わったことない人にはわからないだろうけど、それはそれは恐ろしいものだなんだよ」

 背筋に悪寒が走り抜けたように背中をぞわりと震わせる凪ぃ。フリーライターという職業柄、何か思うところがあるのかもしれない。

「まーむっちゃんが言いたいこともわかるけどね。部活とかならそうそう辞めるわけにもいかないし、県大会出場!とかそういう目標立ててやる気アップさせたりもできるけど、そーゆうのないもんね、わたしら。止めようと思えばバスケは今日限りにしちゃえるし、県大会目指すのは勝手だけど出場資格ないもんね」

 人は何かを継続してやっていくには理由が必要だ。勝利のためにとか、文武両道の実現のためとか、協調性や規律を身に着けるためとか、健康維持のためとか、人生の充実のためなどなど、何かしらの理由を求めてやまないのが、人間ってものなのだと中学生ながらに思ったりする。老若男女、理由や動機を求めてやまない。

「まー、わたしの場合は大枚はたいてゴール買っちゃった手前、元とらなきゃみたいなセコい理由で続けることもできるけど」

 設備投資したからには、減価償却するまでは引くに引けない。凪ぃが懐事情に行動を左右されることは珍しくないけど、そういうのは凪ぃらしくない気がした。

「なんかせせこましくって無粋だよね。元とるまでは、なんて気持ちでバスケやってるやつ、バスケットマンの風上にもおけないよね、きっと」

「バスケやる理由とか関係なくとにかく無我夢中でやってたら、いつの間にか壊れる寸前くらいにぼろぼろにゴール使い倒しちゃいました、みたいのがバスケットマンらしいかもね」

「うんうん。正しい漫画の世界だよね」

 そうはいっても、現実の世界ではそうはいかないことを僕らは語らずとも知っている。だから、理由を求めてしまう。

「バスケを知りたいから、じゃ弱いかな、続けていくには」

「探究心旺盛な人なら問題ないかな。移り気で飽きっぽいタイプは難しそうだよね」

 凪ぃはのめり込んだらはまり込むけど、一か所に興味を落ち着けておけない人でもある。漫画は大好きだけど、あらゆるジャンルに触手を伸ばしているし三冊同時読みなんて離れ業をしていることもある。一心不乱に差し向かいになる時と、そうでない時の落差も激しい。一方の僕は僕で飽き性の権化だと自認しているくらいで、バスケ漫画は例外的に何度も繰り返し読んだけど、それ以外でそういうことは基本的にない。

 そんな僕らが続けていけるだろうか。打ち切りの不安が背筋を這い上がる。

「勝利とかさ、払った分の元を取るとかさ、何かを目指して、そういんじゃなくて、生活の中にさ、自然とバスケが埋め込まれている……そんな風になれないかな?」

 凪ぃは、自分でもまだ考えがまとまらないまま、選びながら言葉を紡いでいった。

「なんていうのかな。こう、朝起きたら顔洗って、歯磨いて、ご飯食べて、まー諸々あって、わたしの場合はお茶してくっちゃべって漫画読んだりして一日を過ごすでしょ?」

 諸々の中に仕事があることを僕は切に願った。

「お茶するのは美味しいからだし、お喋りしたり漫画読んだりするのは楽しいからってちゃんと理由はあるんだけどさ、もはやそんなこと意識せず息するみたいにやってるわけだよ、わたしのなかでは」

「確かに凪ぃが無言だったり漫画読んでなかったりすると、どうしたの病気かな?なんて思っちゃうかも」

「でしょ?息してないのと一緒なの。空気なんだよ、わたしにとってお喋りとか漫画はさ」

 空気っていわれると凄い軽いもののように聞こえるけど、ある意味で人間が生きていくにはもっとも大事で重いものだ。

「そんな風にさ、バスケがなっていくといいよね。わたしたちにとって」

 たち、の所にほんの少しだけ力が籠っていた。

「せっかくむっちゃんが興味もってさ、わたしもそれに釣り込まれるように興味もってさ、挙句の果てに庭にゴールまで買っちゃったりしたんだからさ。よしっやるぞ!ってんじゃなくてさ、なんか今日は天気いいからバスケやるかーとか、朝イチでシュート撃ってみて入ったら今日一日いいことあるかもーとかさ、どういう形でもいいんだけど、普段の何気ない生活のなかに埋め込まれていくといいな。バスケがさ」

 僕はバスケをやるのであれば、高い意識と向上心をもって取り組まなくてはいけないとばかり思い込んでいたけど、そんなバスケもあるのかもしれない。バスケ漫画なんかでそんなことばかりやってれば、展開が緩すぎて打ち切り決定だけど、僕と凪ぃのバスケライフが打ち切りを迎えないためには、かえってそういうやり方の方が長続きしそうだ。そういう方が、凪ぃと僕らしい。凪しゅーと、たった一本のシュートと、釜しゅーと、どうでもいいお喋り。そんなのが僕らのバスケなのかもしれない。

「じゃあとりあえず、そういう形で続けていけるといいね」

 僕は釜しゅーを食べ終え、フォークを置いた。

「だね。やっぱ運動した後の『釜しゅー』は最高だもんね。あー美味しかった」

 凪ぃもフォークを置き、二人一緒に「ご馳走様」と合掌し、僕と凪ぃのバスケライフ一日目が終わった。

 次の日。凪ぃは眠そうな顔で僕を出迎えた。

「どうしたの?目の下の隈、すごいけど」

「いやー、なんだかもう、疲れてたし腰も痛かったのに、妄想が止まらなくて眼鏡少年とスイーツ店勤務の不思議ちゃんのロマンチックラブストーリー、無我夢中で書いちゃったよー。おかげで一睡もしてない。うー、眠いのに腰が痛くて眠れないよー」

 影響受けるのも考えものだ。おかげで僕らのバスケライフ二日目は、二時間みっちりのマッサージだけで終わってしまった。



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