エアーバスケ
荒谷改(あらたに あらた)
第1話
「すごい、最長記録じゃん」
夢中になって読んでいたからか、誰から声をかけられたのか、一瞬よくわからなかった。嫌ってくらいよく知った声だというのに。
「何のこと?」
読んでいた漫画から目線を上げ、正面にいる凪ぃへとピントを移す。
「むっちゃんの夢中時間の記録だよ。まちがいなく記録更新したね」
にんまり顔の凪ぃ。自分のことのように嬉しそうな顔だ。
「何それ?計ったこともないくせに」
「顔みてりゃわかるよ。もう、食い入るように読んでたもん」
確かにこんなに漫画に没頭したのは初めてかもしれない、と自分でも思うけど、そこまで大袈裟に言われると何だか気恥ずかしい。
「記録とかはともかく、確かに面白かったよ」
「面白い?そんなレベル超えてるでしょ!神だよ神!いや、もう神話だからね、その作品」
「神話って……でもバスケ漫画ってあんまり有名作品がない中で、金字塔って云われてるだけはあるね」
「うん。この作品を超えるバスケ漫画は今後出てこないだろうってもっぱら言われてるくらいだからね。その世評に恥じない名作だよ」
あまりに名作名作って言われてるから、かえって敬遠してこれまで読んだことがなかったけど、世間の評価が高いのも頷ける。退屈しのぎに何気なく手に取っただけなのに、あっという間に十巻まで読み進めてしまった。
「けどさ、悩みに悩んだんだよ」
「何を?」
「むっちゃんに声かけるかどうか。声なんかかけたら水差すことになっちゃうじゃん。むっちゃんの記録更新街道に。でもどーにも我慢できなくて。あれだよ、世界記録更新間違いなしのマラソン選手の走りにコーフンして、思わず沿道から飛び出してその勢いのまま抱きついて台無しにしちゃったような気分だよ。わたしもまだまだ未熟だね。熟してない!未熟女」
凪ぃって何歳だったっけ?と喉まで出かかったけど、女性に歳を尋ねるのは失礼だ、と何かの漫画に描かれていたので寸出のところで留まった。えーっと、僕の母親が今年で四十になるはずだから、妹の凪ぃとは確か五歳差とかいってたような。三十五って、世間的には熟女になるのだろうか?十二歳の僕にはそのへんの感覚はちょっとよくわからない。でも、目の前にいる叔母の凪ぃが成熟してないのは確かだと思う。十二の僕からしても、幼いどころか幼稚だと思うことすらあるし、外見も年相応の雰囲気がない。大学生のようなキラキラした若々しさはないけど、予備校生とか浪人生っぽいパリっとしてない印象って言えばいいだろうか。
「でも嬉しいな。むっちゃんがそんなに面白がってくれて。自分が面白いと思った作品を同じように面白いって分かち合えるのって気分いいし、なによりそれが甥っ子だってんだから最高だよね」
「そういうもん?」
「もんもん。ただでさえ他の人と、このシーンでテンションマックスだよねーとかこのキャラ自由すぎーキャラ崩壊ぎりぎりじゃん!とかここ胸キュンポイント高すぎでしょーとか語るのって楽しいのに、甥っ子とできるんだよ?成長を感じるよ。この作品の良さがわかる年齢になったんだなーって」
しみじみと言いながら、僕の頭を撫でようとする凪ぃ。身を引いて躱す僕。凪ぃはことあるごとに、僕の頭を撫でようとする。子ども扱いされてるみたいで、僕はそれが好きじゃない。だってむっちゃんの髪さらさらで癖のない猫っ毛だから気持ちいーんだもんとのことだが、子ども扱いされてるみたいだし、自分の髪質も好きじゃないのであまり気分ははよくない。
「うー、ナデナデチャンスだと思ったのにー。面白い作品に出逢って気分いいときくらいケチケチしなくったっていーじゃん」
「それとこれとは話が別。ていうかさ、作品の面白さを他の人と共有できるのって楽しいって言ってたけど、確かにこの漫画面白いとは思ったけど、凪ぃがさっき言ってたテンションマックスとかキャラ自由すぎとか胸キュンとか、そんな風に思ったりはしてないんだけど」
キャラ同士の掛け合いが絶妙だなとか、練習シーンでのあれが伏線になって試合で効いてるなとか思いはしたけど、凪ぃの抱いた感想とはだいぶちがうような気がする。それともまだ十巻までしか読んでないから、この先を読めば凪ぃの感じた面白さを僕も感じたりするのだろうか。
「そうなの?じゃあむっちゃんはこの作品読んでどう思ったのさ?」
自分の作品への感想を口にする。
「えー?なんだか冷静!そして平静!面白い作品に出逢ったときってさ、もっとこう、血が滾るような感じになるでしょ。いきり立つようなさ」
拳をぎゅっと握りしめる凪ぃ。
「そりゃまぁ熱い展開の時は盛り上がったりしたけど」
実は途中で一度、ちょっとその場に立ち上がってシャドーボクシングをしたくなるくらいに興奮したっていうのは内緒だ。恥ずかしすぎる。凪ぃっぽく言うなら、それは僕のキャラじゃない。
「まーでも、まだ十巻でしょ。序の口序の口。こっからが本番だからね。もうね、右肩上がりとかそんなもんじゃないよ。急上昇アップアップの連続で舞い上がったと思ったら飛翔して、ついに神の住む天上界を貫いちゃうからね。そして神話となる、みたいな。うー、はやくむっちゃんと語り明かしたいなー」
「ネタバレとかしないでよ?」
凪ぃは自分はもちろん、人の作品鑑賞も大事にする人だから、あまりそういう心配はないけど、このテンションはちょっと危険だ。
「したいけどしない。せっかくの出逢いを横から邪魔するような真似はしたくないもん。ネタバレ全然おっけーって人もいるけどね、やっぱね。そこんとこは心得てるからだいじょぶだよ」
胸に掌を当て、誓いを立てるようなポーズ。
「んで、どーする?中断させちゃったけど、また続き読む?それとも、そろそろお茶にする?」
ふと時計を見ると、いつの間にか三時を過ぎている。いつもなら凪ぃと紅茶を飲みながらお菓子を食べる時間だ。さっき読み始めたばかりだと思ってたから、こんなに時間が経っているとは思わなかった。とはいえ、時間経過だけを考えれば、よくこの短い時間内で十巻も読み進めることができたなとも思う。元々、読むスピードは遅いほうではないけど、いくらなんでも速すぎる。それだけ集中してたということなのか、さすがにちょっと目が疲れてるし頭もなんだか痺れたような感覚がないでもない。ちょっと一呼吸置いたほうがよさげかな。
「お茶にしようかな」
「うん。そーしよっか」
よっこらせ、と立ち上がり、台所へと向かう凪ぃ。いつも通りの動きだけど、なんだかいつもより足取りが軽い気もする。スキップ手前の歩き方、みたいな。
「今日はお茶受けなににする?タルトとかクッキーとか、焼き菓子とかこないだ買ってきたからあるけど」
「うーん……今日はいいや」
「んじゃ、いつもの?」
「うん、いつもの」
いつも通り作り置きしておいてくれたチーズケーキを凪ぃがタッパンから取り出してくれる。だいたいいつも、この時間帯に凪ぃとお茶をして、僕は凪ぃお手製のチーズケーキを食べる。凪ぃはチーズケーキを作って一日寝かせ―そうすると味がなじむのだそうだ―その翌日に味見として食べるけど、その日以外はだいたい他のお菓子を食べる。お気に入りの店のケーキとかタルトとかシュークリームとかを順繰りに食べつつ、スーパーやコンビニで売ってる新商品のお菓子とかもくちょこちょこ試しては、これはありだなとかこれはないわーとか、そんなことをよくやっている。
僕もたまには他のものを食べたりもするけど、あまり甘い物が得意でない僕にとっては、凪ぃが作ってくれるチーズケーキが一番口に馴染む。凪ぃがこれ美味しいよ、あんまり甘くないしむっちゃんの口にも合うんじゃない?と勧めてくれるお菓子は、確かにだいたい美味しいんだけど、結局ローテーションとしては定着しないで再びチーズケーキへと戻る。しょっちゅう食べてるから新鮮な美味しさを感じたりはしないけど、何だかんだ自分の肌に合う感じ、といえばいいのだろうか。
「ほい、お待たせしました。いつも通りの凪ぃメイドのチーズケーキだよん」
ホームメイドといえばいいのに、凪ぃはいつもこういう言い方をする。特に凪ぃメイド、の部分を強調して。だってわたしが作ったんだし、そこは声を大にして言いたいわけさ、とは本人の弁だが、ちょっと恩着せがましい。とはいえありがたいことに違いはないのだから、文句を言えた義理じゃないけど。
「そいじゃ頂くとしますか」
「うん、いただきます」
両手を合わせて紅茶を一口。含んだ瞬間にふわりと香りが立ち上がり、鼻へとぬけていく。ゆっくりと香りを味わってから、カップからフォークへと持ち替え、チーズケーキへと取りかかる。いつから始まったのかあまり覚えていないくらいに、ずいぶん長い間続いている、僕の学校終わりの過ごし方。
学校が終わると逃げるようにまっすぐに凪ぃの家へ向かい、本棚から適当に漫画や本を選び、それを読む。すべて凪ぃの蔵書だ。凪ぃ曰く、身銭を切り、魂を削り、足と頭と時間をフルに使い蒐集した、血と汗と涙と凪ぃ汁の結晶なんだそうだ。
そんな風に言われると、おいそれと手に取るのも躊躇ってしまいそうになるけど、凪ぃはどれでも好きなもの読んでいーよ、と気軽に言ってくれている。凪ぃはかなり丁寧に自分の蔵書を扱うけど、僕が蔵書に興味をもって触れることは嫌がらないどころかむしろ嬉しそうにしている。手入れの行き届いた風合いの凪ぃの蔵書を手にすると、自然とその扱いも繊細というか優しくなるのだけど、うっかり汚してしまったり折れ曲がって紙に跡が残っちゃったりするようなこともある。そういう時は隠してもしょうがないので、素直に凪ぃに謝る。凪ぃはいつも「ありゃりゃ、まー形あるものは壊れないものも汚れないものも痛まないものもないんだから、しゃーないしゃーない。形とか型ってのは、どーしたって変わっちゃうものだからね。致し方なし、いや痛し型なしだよ」と言って笑って許してくれるけど、その目の奥は笑ってない。モノによってこめかみに青筋ひくつかせながら貼りついたような笑みを浮かべている。素直に怒ってくれたほうがよっぽど怖くないときもあるくらいだけど、決して叱ったりはしない。そういう人だ。それが僕の叔母さん。ただし叔母さんっていうと破裂しそうなほどこめかみの血管が浮き出るので、凪ぃと呼ぶことにしている。
この家に頻繁に通うようになったのは、ここが僕にとって「凪ぃの家」になってからだ。もともとは母の母、つまり僕の祖母の家で、祖母が亡くなるまではこの家は僕にとって「おばあちゃんの家」だった。
「おばあちゃんの家」だったころは、近所に住んでいたけれど訪れるのはお正月とかお盆のときくらいで、必ず母親を伴い僕一人で足を踏み入れるということもなかった。
小学校四年の時に祖母が亡くなり、この家をどうしようか、となったときに、僕の母は処分しようと思っていたらしいが、妹の凪ぃがここを残したいと言いだし、それなりにすったもんだあったらしいけど、結局凪ぃが遺産として受け継ぐことになった。その代わりに凪ぃは他のあらゆる遺産の権利を放棄し、結果的に母は家を処分した上で受け取れる遺産額よりもたくさんの額を受け取ることができたようで「ローン助かっちゃったわ!」とほくほく顔をしていたのを、子供心に記憶に残っている。
そんな経緯もあり、遺産分与の件で妹の凪ぃに多少の恩義というか負い目を感じているところが母にあるようで、その恩義や負い目を少しでも軽減するためなのか、母に言わせると生活がちゃんとしてない凪ぃのお目付け役というかお助け役というか、そんな役目を僕が担うことになった。家の汚れ加減とか、食事の栄養の偏り具合とか、そんなのを見て報告する、というのが僕の建前上の役割。僕がもし家が汚かったよと報告すれば、母は腕まくりをして掃除をしに乗り込んでくるだろうし、偏った食事ばかりしていると報告すれば、大量の差し入れをタッパンに詰めてやってくるだろう。もちろん僕はそんな密告をしたことは一度もない。
凪ぃが生活するこの家は、一般的な意味で整理整頓されたきれいな部屋、というわけではないけど、凪ぃなりに、凪ぃの考えにもとづいたやり方でもってちゃんと調えられている。
食事にしても、栄養学的にはもしかしたら偏りがあるのかもしれないけど、凪ぃのなかではバランスが取れている。体調的にも何ら異常があるようには見えないし、一年に一回受けている定期健診でも何の問題もないらしい。
要するに独自の基準や独自のこだわりをもっている人で、例えば僕が今使っているフォークひとつとっても、一般的な鉄製のものとは一味ちがうデザインや素材のものだ。それが何か問題を引き起こすのであれば別だけど、そうでない以上、僕にとってもそれなりに居心地のいいこの「凪ぃの家」という空間を乱しかねない母をわざわざ呼び寄せたりはしない。特に問題はなかったよ、とさらりと報告するだけ。問題がないわりにはしょっちゅうあの家に行くのね、と訝しげに言われたりしたこともあるけど、「いい歳して付き合ってる男の人もいないみたいで、何だか寂しそうにしてるから」と言うと、なるほどね、という顔で頷きそれ以上はこの話題には触れてこなかった。凪ぃには内緒の話だけど。
以前なんとなしに、どうしてこの家を受け継ぐことにしたの?と尋ねると、だってこの広い家に無料で住めるんだから逃す手はないじゃん、それなりに愛着もあるしね、と凪ぃはけらけら笑っていた。ついでのように言い添えた「愛着もあるしね」の方に重きが置かれているように聞こえたのは、僕の気のせいだったろうか。
家賃タダ、という名目でこの家を受け継いだ凪ぃはあまり社会人らしくは見えないけどもちろん働いていて、けれどもどんな仕事をしているのかはイマイチ判然としない。文章を書いて生計を立てている、ということは間違いないみたいだけど、どこか特定の会社に勤めているわけではないらしい。母の方も詳しくは知らないようで、どことなく怪しげな仕事をしているが、とりあえずはやっていけているらしい、という認識みたいだ。ちゃんと説明をしてしまうと、眉を潜められたりいらぬ心配をされたりと煩わしいことになりそうな気配を事前に嗅ぎ取ってのことか、凪ぃの方もあえて詳らかにしてないフシがある。なので僕もあまり詳しいことはわからないけど、凪ぃ曰く「わたしのことはフリーダムな生活字者(生活者プラス活字者)と思っていてくれればいいから」とのことだ。考えても埒が明かないのでそのことについてはあまり深く考えないようにしている。とりあえず普通に生活するうえでは、困窮するほどお金に困っているようには見えない。けどたまにタガが外れたみたいに本やら漫画やらを買い漁るときがあって、そういう時は多少、懐が寂しそうな様子ではあるけど、食うに困ったりはしてないないようだ。
仕事内容はよくわからないながらもちゃんと自足している凪ぃは基本、この家で仕事をしている。だいたい僕が学校に行っている時間に仕事をしているようで、僕が来るときには大概だらだらとしている。なので凪ぃが本当にちゃんと仕事をしているという実感は僕にはない。ちゃんと仕事してるの?と疑いのまなざしを向けることもあるけど、そんなだらーっとした凪ぃによって作り出された、この家の独特だけど穏やかな空間の佇まいや、締りはないけどゆったりした時間の流れ、まとまりはないかわりに何が出てくるかわからない本棚に収められた凪ぃの蔵書、を悪くないと思っている僕は、この家に足しげく通い続けている。ほぼ日課のように。
「ごちそうさまでした」
いつものように、両掌を合わせて。
「はい……こっちもごちそうさまでした。やっぱここのタルトは絶品だわ。サクサク感が違うんだよね。サクっサク!感なんだよね。堪能したー」
凪ぃもいつものように、ご満悦で食べたものの感想を口にする。
「しかし悩むね」
飲み干して空になったカップを置き、腕を組む凪ぃ。
「何が?」
「決まってるじゃん。一服して、再び漫画に戻るであろうむっちゃんを強引に引き止めて、この作品の十巻までの魅力を大いに語り合うか、むっちゃんの集中記録更新の延長戦を黙って見届けるか。うーん、悩むなー。作品に魅了された同士としての立場を選ぶか、雛鳥の成長を見守る親鳥の立場を選ぶか、どちらも捨てがたい」
「どっちも捨ててください」
言い捨てて僕は立ち上がり、自分のと凪ぃの分の皿とカップを台所へと持っていき、さっと洗う。そのまま水が流れるように漫画へと戻った。
「ううっー、捨てないでおくれー。わたしを見捨てないでー。もう殿方はもちろん、同年代の結婚していった女友達にも、誰にも捨てられたくないんだよー。もう捨てられるのはたくさんなんだよー」
芝居がかった調子で手を伸ばし縋りついて来ようとする凪ぃ。凪ぃのふざけた動作に隠された真の狙いを咄嗟に察知した僕は、寸でのところで身を躱す。
「なんとっ、わたしの腹のうちを読みおるとは、お主やりおるな」
抜け目なくナデナデチャンスと見て取った凪ぃの腹積もりはお見通しだ。
「バレバレだよ」
「というより、ひょっとしてこれは、言わずともわかり合っちゃう阿吽の呼吸ってやつでは」
色目を使うような目配せを凪ぃはこちらによこしてくる。
「阿吽の呼吸で密通してるくらいならさ、こっちの空気察して漫画に戻らせてほしいんだけど」
「空気は読むものじゃなくて作るものって、うちのばっちゃが言ってた。だからむっちゃんが漫画に戻ろうとする空気を壊そうと思って」
「親鳥の立場は?」
「あれは投げ捨てた。わたしには向いてないよ」
「悩むなぁとか言ってたのに」
「悩みは捨てるものだよ。女は年齢とともにそうなってゆくのさ」
「こっちとしては黙って見守っててほしいんだけど」
「喋りながら見守るってのは?」
「よーするに喋りたいんだね。かまってほしいんでしょ」
「おおっ、阿吽の呼吸。さすが」
とまぁ、呼吸が合ってるんだかずれてるんだかよくわかんない、いつも通りの日常がいつものように過ぎていく。
そんないつも通りの繰り返しのなかでも、やっぱり少しくらいの変化はあって、僕の日常は「あのバスケ漫画」に出逢ってから―結局あの後、十巻まで読んだ流れに乗るように一気に最終巻まで読み通してしまった―ほんのわずかばかり変わっていった。傍目にはいつものように学校終わりに凪ぃの家に寄って読書をして過ごすだけの、変わり映えのない日々であけど、その中身が違う。これまでは気の向くままに面白そうな本を手に取り読んでいただけだったけど、あの出逢い以来、選ぶ本の傾向がはっきりと特定のジャンルに偏るようになった。
自分でも意識したわけではないのに、なぜか手に取るのは決まってバスケ関連の漫画。バスケ漫画はスポーツ漫画のなかではそんなに人気のジャンルではないらしく、野球やサッカーなどに比べると数も多くないので―量だけでなく質もそんなに高くないと一部では陰口を叩かれていたりもする―本棚にあるバスケ漫画はあっという間に読みつくしてしまった。仕方ないのでしばらくは同じ漫画を繰り返し何度も読み返し、「あの作品」に至っては、印象的なシーンはもちろん、試合展開や試合結果、登場人物の体重や身長まで暗唱できるほどになってしまった。
飽きもせずよくそんなに同じ漫画を何度も読むねーと凪ぃからにやけ顔でからかわれたりもしたけど、自分でも呆れるくらい何度でも読めた。読む前から全部の内容が頭に叩き込まれてるのに、いざ読んでみると不思議なくらい、作品の世界に入り込むことができた。笑っちゃうくらいに。
他のバスケ漫画に関しても「あの作品」ほどではないけど何度も読み返した。ジャンルとしては充実してないといわれているバスケ漫画の中には面白いものもイマイチなものをあったけど、当たり作品から外れ作品まで、それぞれ回数に違いはあれど、全ての作品を何周かはした。これまで何にものめり込むことなく、すぐに投げ出してしまう飽きっぽい僕からするとありえなかったことだ。凪ぃっぽく言うならキャラじゃない。まあ、バスケ漫画には打ち切り作品も多く、巻数が少ないものがほとんどなのでそんなこともできた、という切ない理由もあるのだけど。
とはいえさすがに新しい刺激も欲しくなる。これまでは漫画はもっぱら凪ぃの家にあるのを読むだけだったけど、自分のお小遣いをやりくりして凪ぃの家にはないバスケ漫画を、近所の本屋だけでなく二駅先の漫画の取り扱いの豊富な書店に遠征して買うこともあった。 出不精の僕にとっては休みの日に遠出―僕にとって二駅先は自分の足でいける最果ての地だ―するだけでも珍しいけど、バスケ漫画欲は留まることを知らずエスカレートするばかり。そのうちに二駅先から電車を乗り換え、マニアックな漫画も置いてあって助かると凪ぃが口にしていた古本屋に行って、定価よりも高い値段のついたお世辞にも上手いとは言えない絵柄のバスケ漫画を、それこそ清水の寺から飛び込むような気持ちでレジの怪しげな店員さんのところに持っていったりもした。色んな意味で怖かった。
そんなことをしているうちに、さすがにバスケ関連の漫画はあらかた読みつくしてしまった。キラキラした瞳の女の子たちが恋に友情に奮闘する少女漫画ですら、何かしらバスケに関わりのあるシーンがあったりすればとりあえず手を伸ばした。少女漫画に関しては右も左もわからないので、最初は凪ぃから「そういやあの漫画、ヒロインがバスケ部っていう設定だから、がっつりバスケやるわけじゃないけどバスケのシーンもちょこちょこあったよ」って教えてもらっていたけど、そのうち教えてもらわなくても何となくわかるようになった。説明するのは難しいけど、匂うのだ。単純にユニフォーム姿の表紙絵や裏表紙のちょっとした内容説明でわかることもあるけど、それだけじゃなくて主人公の雰囲気とか画風とか、そんなものからバスケの匂いを嗅ぎ取ることができるほどになってしまった。おかげでバスケ漫画ハンターと凪ぃにからかわれる羽目になった。
あくまでバスケ目当てで少女漫画を読んでいたら、バスケに関係なく、少女漫画というジャンルの実り豊かさに圧倒されることになったのは内緒。にしておきたかったけど凪ぃにはあっという間に見抜かれてしまった。自分でもキャラじゃないなと恥ずかしくてたまらなかったけど、茶化してくるとばかり思っていた凪ぃは意外にも、
「漫画好きなら当然だよ。偉大すぎる歴史と伝統、それらを真摯さと謙虚さをもって踏まえつつ、そんなものは意にも介さず革新と刷新を繰り返す少女漫画という広大なフィールドに飛び込んでおいて、魅せらずにいられる人なんているわけないもん。陶然として当然な、胸キュン満載な世界なんだから。ようこそ、むっちゃん。いらっしゃい、むっちゃん」
瞳をキラキラさせて、凪ぃのキャラをさらに煮詰めて爆発させたような面持ちで僕を受け入れてくれた。茶化さずに受容してくれたのは有難いけど、うっとりとした目つきでどこか違う世界へと僕を誘おうとする凪ぃはちょっと不気味で、すごく気持ち悪かった。
そんな危ない凪ぃの怪しげな世界への誘いをスルーしつつ、僕は漫画だけでは飽き足らず、バスケ関連の書籍にも手を出すようになった。最初は小説、を探そうと思ったけどバスケ小説というのはほとんど見当たらず、何冊かを読んでしまうとすぐに読むものがなくなってしまった。仕方ないのでバスケ教則本とか戦術本とかに目を通してみたけど、実際のプレイ経験がないせいか、いまいちピンとこない。そこで活字方面からではなく映像方面からバスケというものに切り込んでみることにした。衛星中継ではアメリカのプロバスケットボール中継が週に何試合か放送されていたので、それを凪ぃの家で録画して見た。そこで僕は出逢うことになる。神様と。
いや、神様だけではない。そこには神様もいれば、威厳たっぷりの王様も、将来性に溢れている王子様も、いまだ開花してない原石たる無名の若者も、独善的なやんちゃ坊主も、貴婦人のごとく上品な紳士も、無軌道で無鉄砲な輩も、それこそありとあらゆるキャラたちが、狭いコート内で飛び跳ね、ぶつかり合い、己を剥き出しにしていた。なんだか世界の全てがその中にあるみたいだった。僕にはそう見えた。そうとししか見えなかった。
以前にちらっとバスケ中継をみたときは、そんなことは露ほども思わなかった。けど、ありとあらゆるバスケ漫画を読み漁り、バスケに関するものを貪るように追い求めていた僕には、そうとしか見えなくなっていた。
そのようにして、僕のバスケ漬けの日々は加速していった。要するに、バスケにハマっちゃったのだ。
「すっかりバスケ小僧だね」
いつものように録画したバスケの試合を見てると、横から凪ぃが声をかけてくる。
「そういうわけでもないけど」
アメリカプロバスケットボール(NBA)の選手名鑑を片手にバスケの試合映像が流れる画面にかじりつきながら言っても、説得力はないかもしれない。
「もう選手の名前もほとんど覚えちゃったんでしょ?わたしからみれば、誰が誰だかさっぱりなんだけど。外人の顔と名前って覚えにくいよね」
確かにNBAでプレーする選手は黒人プレーヤーが多いし、髪型なんかも坊主とかが多いので、他の人種と接する機会の少ない日本人特有の感覚なのかもしれないけど、一見すると見分けがつきにくい。おまけにNBAというのは選手の移籍が頻繁に行われるので、昨日まであのチームでプレーしてた選手がいつの間にかいなくなり、他のチームでプレーしてるなんてのはザラにある。そんな事情もあり、最初のうちは特別目立つ選手以外はこの選手誰だっけ?なんてことばかりだったけど、プレーをつぶさに観察していればやはり選手それぞれに違いがあるし、移籍情報なども選手名鑑などで細かくチェックしているうちに、ほとんどの選手の名前や所属チーム、プレイスタイルなんかもだいたい把握できるようになった。
「まーそれだけのめりこんじゃったってことなんだろうね。いやー、まさかむっちゃんがここまでバスケ一色になるとはね。わからないもんだねー人ってのは。たいしたもんだ」
「別にバスケ一色ってわけじゃないってば」
感心してるような言葉の裏で、からかわれてる気がして何だか決まりが悪い。
「あーそっかそっか。確かにバスケ一色じゃないよね。少女漫画もつまみ喰いしてるもんね。この浮気者」
やっぱりからかわれている。反論できないだけになおさら憎らしい、
「まーいいことだよ。なんであれ、なにかに興味をもつってのはさ。それが役に立つとか立たないとか、そういうのに関係なく、なにかに興味をもって熱中するってのは、それだけで素晴らしいことなんだから」
「そうなの?」
「そーなの!わたしの趣味なんかはお姉ちゃんに言わせるとどーでもいいことなんだろうけど、そこに世間一般的な価値があるとかないとかそれこそどーでもいいんだよ。大切なのは、熱中してるっていうそのことなんだから」
「そういうもんかな」
「もんもん。だってさ、誰からも認められてないのにその人だけが価値を感じてるとすれば、それこそ素晴らしいことじゃん。誰も気づいてないことに気づいていて、誰にも触れられないものに触れているってことなんだから。だからさ、どんなことであれなにかに興味をもったんであれば、それは大事にしたほうがいいよ。まーたまにそれが犯罪なんかと結びついちゃう不幸なケースもあるっちゃあるんで、絶対ってわけじゃないけど、でもやっぱり大事にした方がいい」
凪ぃは独自の規範を持っている人だけど、基本的に社会のルールはちゃんと守る人だ。
「だからさ、バスケとか少女漫画とかはもちろんさ、むっちゃんはこれから色んなものに興味をもったりするんだろうから、それをちゃんと大事にしたほうがいいよ。それが例え他の人に理解されなくてもね。もしかしたら自分自身で、こんなのに興味をもっても意味ないよなとか、興味はあるけどわざわざ時間とか労力とかお金とか使うほどじゃないしめんどーだからいーか、とか思っちゃったりしても、そこはちゃんと自分の好奇心に手間をかけてあげた方が絶対いいよ」
凪ぃの言うこともわからないではないけど、ちょっとした好奇心にいちいち立ち止まっていたら、それこそ時間なんていくらあっても足りないし、そのうちに面倒になってしまいそうだけど。
「もちろん興味のあるもの全てを手に入れられるわけじゃないから、できる範囲でいいんだけど、面倒臭いで全部片づけちゃったらさ、大げさに言うと人生が……わたし風に言えば眼が……む雲っちゃうよ」
すっと手を伸ばし、僕の眼鏡の柄に指をかけて、そっと外す。取った眼鏡に優しく息を吹きかけて、胸ポケットに忍ばせた眼鏡拭きを取りだし、ゆっくりと丁寧に、磨きあがるように拭(ぬぐ)う。眼鏡拭きは誕生日に眼鏡ケースとセットでくれた僕の眼鏡拭きとお揃いのもの。凪ぃは眼鏡をかけていないし伊達メガネをかけたりもしないけど、いつもそれを懐に忍ばせている。
凪ぃはことあるごとに「む雲ってるよ」と言っては僕の眼鏡を拭きたがる。「む雲ってる」とは「むっちゃんの眼鏡くもってるよ」を略したもの。僕の名前である「むくも」に引っ掛けてもいるのだろう。確かに眼鏡っていうのは気付かないうちに指紋や指の汚れがついたりして、そのせいでくもったりもするけど、そこまで頻繁に拭く必要はない。たまに気が付いたときに拭くくらいのものだけど、凪ぃはちょっとした汚れでも気になるのか、本当にしょっちゅう僕の眼鏡をお馴染みの動作で綺麗にしようとしてくれる。おかげで僕が自分自身で眼鏡の手入れをする必要がほとんどないほどだ。
眼鏡につきまとう雑務がひとつはぶけた、というわけではないけど有難いことには違いないので、僕はいつも凪ぃがするままに任せている。眼鏡をかけるようになり、最初にそれをやられた時は、頭を撫でられるのだと勘違いして思わず躱してしまったりもしたけれど、今では頭を撫でられる時と眼鏡を取ろうとしている時の腕の伸ばし方の違いが、感覚でわかるようになった。なので、眼鏡の時は身構えたりはしない。
「別にくもってないでしょ?」
「ん?どーだろね。自分では案外気づかないもんだよ。たぶん、一番近くにあるものほど、かえって見えにくいってことなのかもね」
確かに映画館の一番前の席っていうのは見づらいし、テレビだってあんまり近寄りすぎると見えにくい。
「だから距離感ってのは大事だよね」
バスケを見ていても、選手と選手のプレーする距離が近すぎて窮屈そうにしているなんてことはよくあったりする。チームメイトとは適度な距離を保ってプレーしたほうが、お互い伸び伸びとプレーしているように見える。
「そうだよね。いくら好きだからって、入り込みすぎてまわりが引くくらいのテンションでまくしたてる、とかそういうのはよくないよね」
凪ぃが時にみせる、愛する作品に対するリアクションへの当てこすりのつもりで言ってやった。いわゆるオタクと呼ばれる人たちには珍しい行為ではないらしいけど、あんまりに作品にのめりこんで語るのでついていけないし、顔面距離も近すぎるほどに前のめりで迫ってくるので勘弁してほしいのだ。
「まあベストな距離感を保つっていうのは、なかなか難しいっていうかある意味不可能なんだけど、その都度その都度ベターな距離感ってのは探っていくべきだよね。そのへんは心得つつわきまえなきゃだよね」
当てこすりに気づいているのかどうなのか、さらりと受け流す凪ぃ。
「だ・か・ら!、いくらお互い好き合ってるからって、もうこれ以上ないってくらいに密着してベタベタとくっついて歩いてるカップルとかは、もう言語道断!なんだあいつら、近すぎるよ!近いんだよ!まだ誓いあってもないくせに、近い合ってんじゃないったらありゃしない!まわり見えてないよ全然!む雲りすぎ!くもってるどころか煙ってるよ!煙いよ!むせちゃうよ!む雲りすぎてむせちゃうんだ」
いや周りを見てほしいのは凪ぃなんだけど。それに「む曇る」はあくまで「むっちゃん(僕)の眼鏡がくもっている」の略だからこの場合は僕は関係ないんで「む雲りすぎ」って言わないでほしいんだけど……などなど言いたいことは山ほどあるけど、こういう状態の凪ぃには何をいってもしょうがない。妙齢の独り者女性には仕方のないことなのだ。致し方なし。凪ぃっぽく言えば痛し型なし。
「そうだね。そういうのはちょっと見ていていい気分ではないよね。ちょっと落ち着こうよって思うもんね」
凪ぃへと向けた言葉のように、僕は言った。
「うん、そうだそうだ。近すぎるのはいくない!興味のもったことには近づいてみた方がいいけど、近すぎはダメ。いくない」
と何度も連呼するうちに凪ぃはようやく落ち着きを取り戻してくれたようだ。まぁこんな風に突として激情に駆られたり、勢いまかせに熱く語りだしたりなんてのは、いつものことなんだけど。
「けど、もうちょっと近くてもいいんじゃない、なんて場合もある」
と、凪ぃはいつもとは違う調子で言った。あれ?と僕が思う間もなく、
「バスケ」
「え?」
「もうちょっとさ、近づいてみてもいいのかもよ」
凪ぃは遠慮がちに、でも思い切ってという感じでそろっと切り出した。僕の胸が、とくんと波打ったような気がした。
「……珍しいね」
「ん?そかな?」
凪ぃは、これはいいよ!とかあれはすごい面白いよ!とかこんなに美味しいのもあるんだよ!とか、自分がいいと思ったことを僕に教えてくれることはしょっちゅうだし、漠然とした感情の部分―好奇心とかそういうはっきりとした形のないもの―で、こーした方がいいのかもね、みたいにそれとなく口にすることはあれど、具体的にこーした方がいいとか、あーすべきとかこーしろとか、そういうことを僕に押しつけたりは基本的にしない。
「キャラじゃないかな?」
「じゃない、と思う」
たはは、と苦笑いをする凪ぃ。
「まー余計なお世話だよね。嫌だった?」
いつになく、不安を色合いを顔に浮かべ、凪ぃは上目使いで僕を覗きこんでくる。
嫌?……「じゃない、かな」
「そっか」
ほっとしたように凪ぃの顔がわずかに緩む。珍しいことは重なるものだ。僕の前で凪ぃが緊張感を見せることはまずない。
「でも、もっとバスケに近づくってどういうこと?」
素知らぬ顔でぬけぬけと尋ねたものの、凪ぃの言いたいことのだいたいの意味はわかっていた。漫画や本、試合映像などすっかりバスケ三昧の僕に対し、もっとバスケに近づいてみれば、というのは要するに。
「うー、わかってるくせに。いけずな奴め!」
自分からはっきり口に出すのがなんとなく憚られるのは凪ぃも僕も同じらしい。
「だからさっ、やってみたらってこと!バスケを」
根負けしてもう我慢できない、とばかりに投げつけるように凪ぃは言った。
「……」
どう答えたものかわからず、言葉に窮する。自分でもわかってはいた。思ってはいたのだ。やってみようかと。これだけバスケ漫画を貪り、試合映像にあれだけ興奮するのだから、実際に自分でプレイしてみたら、いったいどうなるのだろう。それは何度も頭をよぎり、心の奥の方から幾度となく湧き上がる思いだった。でも、いざやろうと思うと。
「知ってるよね?僕が運動苦手なの」
体育の成績はいつも五段階評価の二。体育の授業では何をやるにしてもいつも後ろの方に一歩も二歩も下がるようにしている。運動会ともなれば明日学校に隕石が落ちればいいいのに、とてるてる坊主を逆さに吊り下げながら祈っている。
「……知ってる。むっちゃんは……うんち、だね」
「その言い方はやめて」
なんとなく気まずい空気を打破するためにあえて使ったのだとわかってはいても、その単語はさすがに受け入れ難い。
「いーじゃん。運動音痴とか運動神経皆無とかより、なんか深刻度合いがうすれて。うんちの方が」
「うんち呼ばわりとかされたら、今だと確実にいじめられてるって思われるよ」
「えー、そーなの?わたしらの世代じゃ普通に使ってたけどな。なんか神経質な時代になっちゃったね。運動ダメなやつとか壊滅的運動神経の持ち主、とかより全然かわいげがあるのに」
「かわいげはないでしょ」
「そんなことないって。例えばさ、京都弁のほんわか系少女に「ウチうんちやねん」とか
言われてごらん。ね?かわいーでしょ。思わず顔がほころんじゃうでしょ?」
「それくらい超特定の言い方と言う人に限定しなきゃきゃダメってことじゃん。そこまでしなきゃかわいくなんてならないってことでしょ、逆に言えば」
「えー、むっちゃん頑固―。頑固なうんちだ」
「なんかその言い方だと僕が便秘気味の人みたいじゃん」
「あっ、そういえば便秘のときは駅前の店のサツマイモムースとヨーグルトソースが何層にもなったケーキを食べると一発で治るよ。美味しいうえにすっきり!」
「いや、便秘気味でもないのにそんな情報もらっても。それに店側だって便秘にまつわる形で情報流してほしくないんじゃない?もっと純粋に美味しいとかお洒落でかわいいとか、スイーツ店ならではの魅力を情報として発信してほしいはずだよ」
「うー、そんな憎まれ口を叩くむっちゃんかわいくない。かわいげのないうんちだね」
「元々うんちって言葉にかわいげがあるとは思ってもないけど、もしかしたらあるのかもしれないかわいげがないとしたら、もうこれ、救いようがないってことじゃん。うんちとして」
「まーでも、今って色んなキャラが受け入れられちゃう時代だから、頑固なうんちとか、意固地なうんちとか、皮肉系眼鏡うんちとか、そんなのもありかもよ」
「……いい時代になったもんだね」
「うん、まったくだね。ありがたい時代だよ」
脱線しまくることで、あえて話の本線を煙に巻くように仕掛けたのは、凪ぃなのか僕なのか。どちらとも言えないけど、たぶん二人ともが何となくの阿吽の呼吸で示し合わせたことなのだろう。そうして話がくだらない方向に流れるにまかせたまま、お茶の時間となりバスケの話は自然と立ち消えになった。もちろん、僕の中から消えることはなかったけれど。
たいがいの中学校は生徒に部活動を課している。僕が今年の四月から通うことになった近所の中学もその例に漏れない。なので僕はいま、おおげさに言えば人生の分岐点にいる。一方の道は文芸部に繋がっていて、もう一方の道は……僕的には険しい修羅の道、にしか見えないのだが、思い切って飛び込んでみたくもある、のだけど二の足を踏む。そんな状態。
「わたしだったら迷わず飛び込んじゃうけどね、修羅の道にさ。かっこいいじゃん修羅道なんて。あっ、そーいえばちょっと昔のだけど天空洗機シュラトってアニメはすごいおすすめだよ。特に、ここぞの洗濯シーンで『りんぴょーとーしゃーかいじんれつざいぜん!』って唱えるシーンがかっちょいいんだよ」
凪ぃなら修羅の道を選ぶだろうと思ったから、蛇の道は蛇、ではないけど修羅道を迷わず選ぶ人にどんな思いでそっちの道を選ぶのか尋ねようかと思ったのだけど、尋ねる相手を間違ったかもしれない。何やら呪文を唱えて印を結んでいるこの人は、蛇は蛇でも蛇として邪道すぎた。邪道を行く蛇に尋ねた僕が間違っていた。
「まー、ある程度安全に舗装されてるっぽい道を行くのもありだし、なにが飛び出してくるのかどこに繋がってるのかもわからない道を行くのもありだよ。蛇に睨まれた蛙みたいにただその場に立ち尽くして、なにもしないよりかはよっぽどいいと思うよ。文芸部コースにしろ修羅コースにしろ、むっちゃんがなにかやろうって意志を感じるもん。なんか適当に選んでお茶を濁しておいて結果的には幽霊部員を目論んでるって雰囲気は全然ないもんね。立派立派。わたしなんか今みたいに部活の種類が全然なかったってのもあるけど、初日以外はいっさい顔ださなかったからね、囲碁将棋部に」
「囲碁将棋部員だったの?」
「だって文化部っていったらそれくらいだったんだよ。あとなんだっけ?手芸部だったかな?あんまよく覚えてないけど。運動部以外の女子はほとんどそこに入ってたんだけど、手芸部だとなんか女子同士の変な派閥争いとかに巻き込まれそうな匂いがして。で、消去法で囲碁将棋部」
「女子中学生が消去法で囲碁将棋部にたどり着いたっていうのは、時代を感じさせるよね」
「時代のせいだよ、まちがいなく。もし今の時代だったらさ、『ヒカルのGO!』を読破して『エイプリルライオネル』の続刊を正座で待機してる今のわたしだったら、囲碁将棋部のエースになってるに違いないのに」
囲碁漫画と将棋漫画のエース格を持ち出して、過去の時代を嘆く凪ぃ。その時代にこの二つの名作漫画が誕生してなかったことに、当時の囲碁将棋部員とその顧問はひたすら感謝するべきだ。こんなのが自分の部のエースだとしたら、モチベーションはだだ下がりだ。
「んで、、提出は明日までなんでしょ?」
「うん、一応ね。ちょっとくらいは遅れても大丈夫だとは思うけど」
遅れれば遅れるほど、心の天秤の針は文系部の方へと傾きそうな気がしないでもない。今ここで、ままよ!とばかりに飛び込まない限り、修羅の道には縁遠くなりそうな気がしてならない。
「よしっ、ここは潔く決めた!」
「おおっ、いつになく男らしい。で、どっち?」
期待に満ち満ちた目の凪ぃ。
「保留!」
「ほりゅー?」
「うん。明日は入部用紙を忘れたってことにする。で、明日は土曜だから、日曜を挟んでじっくり考えることにする」
「うーむ、ある意味潔いけど男らしくはない気がする」
男らしさを投げ捨てることで得た数日の猶予。それもあっという間に過ぎ去り、土日明けの月曜日。相も変わらず凪ぃの家。
「およ?珍しい。今日はバスケ見てないの?月曜はだいたい試合録画してるやつ見てるのに」
少女漫画をぼんやりと読んでいる僕を見て、凪ぃが言った。
「何となく。今日はそういう気分じゃなくて」
「ふーん。その漫画、つまんないでしょ?」
「ん?どうかな、よくわかんない」
ちっとも漫画に集中できず、とりあえず目で追っているだけなので面白いのかつまらないのかよくわからない。
「つまらないって言ってるわりに、かなりの巻数あるみたいだけど」
凪ぃの本棚をちらりと一瞥する。
「うん、全巻揃えたからね」
当然のことのように凪ぃは言った。
「つまらないのに?」
「つまんないものを、ぼーっと読みたい気分のときもあるからね」
確かに、今の僕がそんな気分だった。
「そういえばさ」
「ん、どしたの?」
「部活。文芸部にしたよ」
「……そっか」
凪ぃはそれだけ言ってそれ以上は何も聞かなかった。どうして文系部にしたの?とか、バスケ部はやめちゃったの?とか、問い詰めたり問い質したりするようなことは、決してしなかった。
「ほらっ、やっぱり運動苦手な僕がバスケ部に入ると、逆に迷惑かけちゃうかもしれないし」
聞かれたわけでもないのに、何故か僕は弁解するように言った。
「まあ、土日の二日間じっくり考えて決めたよ」
土日の二日間、じっくり考えて入部用紙に希望の部活を書きこんだ。そして今日の朝、期待と不安が五分五分に入り混じった気持ちで担任の先生の到着を待っていた。
「やっぱり自分らしいのは文芸部かなって」
待っている間に、教室の後ろの一番奥、角のところに陣取っている、クラスの中で比較的目立つグループ。運動が得意で、制服はだらんと着崩していて、髪の毛は長かったり短くしてワックスでとさかのように逆立てたりして、いつもクラス全域に行きわたるくらいの大声で喋っている、そういう一派。基本的に僕とは縁遠い、クラスメイトであるという以外では平行線のようにいつまでたっても交わらない人たちのお喋りが、聞きたいわけでもないのに大声で喋っているので自然と耳に入った。
「自分らしくないのものを、無理してやることもないかなって」
彼らのお喋りの内容を総合すると、いま彼らの中で一番アツいのはバスケらしいということ。そしてこの学校の男子バスケ部の現状は、去年の最上級生が幅を利かせていた影響で今年の三年生と二年生部員(去年の二年生と一年生)は数が少なく、あれこれと指図するうるさ型のタイプもいない。なので、彼らがバスケデビューするには格好のチャンスなのだ、ということだった。
「だからさ、文芸部にした」
僕は引出しの中で皺になるくらい握りしめていた入部用紙を机の上に取り出し、脇から覗かれないよう身体全体で覆い隠す格好で、元々書いてあった字が痕跡ゼロの状態なるまで力いっぱい消しゴムで擦り、文芸部、と書き記した。
「まあ、バスケは見るのは好きだけど、そこまでやりたいかって言われたらそこまででもないし。それに普段仲の良い友達も、バスケやる人とかいないしさ」
普段、普通に喋ったりするクラスメイトはいても、特別に仲の良い友達なんて僕にはいない。
「それに一度入っちゃったらそう簡単に辞められないじゃん、中学の部活って。それで幽霊部員になるよりはいいのかなって。別に学校でしかバスケできないわけじゃないんだし。もし本当にやりたくなったら、地域の同好会とかサークルとか、今なんてインターネットとかで探そうと思えばいくらでもあるし。あっ、知ってる?今ってバスケの家庭教師とかもあるんだって。すごい時代だよね。そんなのまであるんだから、やろうと思えばいつ何時でもどんな場所でもできるんだよ。だからわざわざ学校でやる必要もないかなって」
責められてもない罪に対して言い訳でもするようにつらつらと言葉を並べたてる。つるつるとした言葉が僕の舌を上滑りしていくようだった。
「……そっか」
凪ぃはそれ以上、何も言わない。何も聞かない。
「うん……いい時代だよね」
バスケ部に入らない理由を時代のせいみたいに押しつけた。
「そだね。むっちゃんの言う通り、やろうと思えばいつでもどこでもできる時代かもね。囲碁将棋だって、わたしもやろうと思えばできるってことだね。いやー、いい時代になったもんだ」
「……やるの?」
「うーん……この家の蔵に曰くありげな碁盤でもあって、そこからわたしにしか見えない幽霊がどろん!みたいなことがあればやるかもね」
この家はそこそこの年季はあるけど、蔵はない。
「やらないってことだよね」
「そうと決まったわけじゃないよ。もしかしたらわたしにしか見えない蔵があるかもしれない」
「幽霊どころか見えない蔵まで必要なくらい、やる確率は低いってことだね」
「他の人には見えなくても、その人にしか見えないものって案外あるんだよ。知ってる?韓国とか、受験戦争が尋常じゃないくらい苛烈なんだって。でね、その苛烈な戦争を勝ち抜くためにすごいカンニンググッズとかあるんだよ。なんか特性のインクペンとかがあって、それで書いた字は傍からはまったく見えないんだけど、そのペンとセットになったコンタクトレンズをかけると見えるようになってるんだって。すごくない?」
「カンニングのためにそこまでするの?そんなに受験って韓国人にとって大きいんだ?」
「なんか一生を左右しちゃうくらいなんだって。受験なんて些細なことなのにね、わたしたち日本人の感覚からすると」
何年後かに受験をする僕としては、決して些細なことではないし、うちの母親なんかも絶対に些細なこととは思わないだろう。というかたぶん、受験を些細なことと言い切っちゃう凪ぃの方が日本人としては珍しい感覚の持ち主なんだと思う。
「韓国ほどじゃないけど、些細ってことはないんじゃないかな」
「そーかな?まあ感じ方は人それぞれだからね。だからさ、見える見えないも人それぞれってことだよ。だからわたしが囲碁に開眼することも、なくはない」
「蔵の見えるコンタクトとかさすがにないでしょ」
「いやー、わかんないよ。バーチャルリアリティ技術も進化してるし」
「そりゃそうだけど」
確かに昨今のその手の技術革新は目覚ましいものがあるらしいけど、そこまでやらなくちゃ見えない蔵に、いったいどれだけの価値があるというのか。
「他にもさ、特性のインクペンで書いて、それとセットになった特性の塗料が塗られた眼鏡をかけて見ると、書かれた文字が見えなくなるのもあるんだって」
「眼鏡かけた本人に見えなくなっちゃったら、意味ないじゃん」
カンニングの役に立つとは思えない。
「これはね、カンニングじゃなくて、学習用なの。サブリミナル効果?脳の潜在意識とか無意識領域に働きかけるんだって。視覚の死角を通して記憶に植え付ける?だったかな。本人には字が見えてないから勉強してるって意識はないんだけど、実はうっすらと透けた感じで見えていて、脳が勝手に記憶してるんだって。だから勉強してないのに勉強してってる状態らしいよ。すごくない?」
「何か、胡散臭いっていうかオカルトめいてるっていうか、疑似科学もここまでくると何でもありだよね」
「だから蔵だって今は見えてないけど、本当はわたしの脳が見ちゃってるかもよ」
「裸眼じゃん、凪ぃ」
「というわけで、わたしの囲碁デビューは蔵待ちってことだね。蔵が見えるようになったらデビューの頃合いってことかな」
「ずいぶんと遅いデビューになりそうだね」
僕のバスケデビューはきっと待てど暮らせどやってこないだろうから、それに比べれば随分ましかもしれない。
「でも人間なにがきっかけになるかはわかんないしね。急に今だ!って思う時だってあるだろうし」
「まあ、そうかもね」
それ以上、特に言葉が続かず、なんとなく気まずさを感じた僕はそれとなく漫画に戻ろうとする。
「んじゃ、お茶にしよっか」
あれ?と思い、時計を見る。
「お茶の時間にはまだ早くない?」
「ん、今がお茶時かなって、なんとなく思ったんだけど。まだ早い?」
「……いや、僕も、何となく今がいいかな」
いつものお茶で、いつもの気持ちに心を落ち着かせたい。そんな気分だった。
「んじゃ、よっこらせ」
立ち上がり、いつも通り凪ぃはお茶の用意を始める。ただいつもと違い、僕にこんなお茶請けもあるけど今日はどうする?と聞くこともなく、無言で凪ぃメイドのチーズケーキを出してくれた。
「いただきます」
「はい、いただきます」
中学生にはなったけど、たぶんこのいつも通りの日々が続いていくんだろうな、と思いながら、いつも通りのチーズケーキを食べた。
次の日もいつも通りに、と思っていたけれど、文芸部の初日だったので、凪ぃの家に行ったのは、日暮れ間近のいつもより遅めの時間だった。
すると、凪ぃの家の前に、見慣れない大型トラックが止まっていた。なんだろうと思って家に入る。
「それじゃ、ありがとうございました。失礼します」
「はい、ご苦労様―」
玄関で配達らしい人が僕の横を通り過ぎる。。
「荷物でも届いたの?」
「そ。ちょっと欲しい物があったからね。ネットで買っちゃった。いやーほんと便利でいい時代だね」
「珍しいね」
凪ぃはよっぽど欲しい物の時でないと、ネットショッピングを利用したりしない。直に見て手に取ったうえで買いたいタイプの人だ。
「まー、どうしても欲しくてね」
「へぇ」
明細をのぞき見すると、相当な金額だった。よっぽどの稀覯本でも買ったのだろうか?それらしい物は見当たらないけど。
「なに買ったの?」
「ふふん。それはまあ、見てのお楽しみだね」
「ふーん」
あんまりに自慢気なので、なんたかわざわざ聞くのも癪な気がして、興味ないふりして無視してやろうかなと思った。思ったのだけど……。
「じゃーん」
無視しようにも無理やり目に飛び込んできたので無理だった。
「今が買い時、だとおもったから買っちゃったよ」
凪ぃの家の庭に、バスケットゴールが、でーんと居座っていた。
この日から、いつもの僕と凪ぃの日常にバスケットゴールが入り込んでくることとなった。
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