第八話 少年は走る

 虻切あぶきりを握り締めたまま尤磨ゆうまは後ろによろめき、無様に尻餅をついた。


「へへ……」


 現実に理解が追い付かず場違いな声を漏らす。

 刀身もつばも粉々に砕け散ってしまった。

 今尤磨が持っているのは本当に柄だけとなった虻切だ。


「何それ? 何だよ、それっ!!」


 香那かなが叫ぶ。


「いや、申し訳ない。こんな事になっているとは……」


 宮司は居心地悪そうに頭をくが、尤磨達がこの刀にどれ程の希望をかけていたかは分かっていないはず。

 しかし、彼を責めるのは筋違いだ。


「ううっっっ!!!」


 椿のくぐもった声。

 尤磨が慌てて見ると、椿は大きくのけ反りながら後ろによろめいていた。


「ぐばっ! ぐばがぁぁっ!!」


 口から黒いモノが溢れ出始めている。


「マズい。ショックがでかすぎたんだ!」


 香那が焦った声を出す。


「逃げて! 宮司さん、逃げるんだ!!」

「え?」


 尤磨が叫んでも事態を飲み込めない宮司はひたすら戸惑っている。


「いいから、早く!」

「げばがはががぁぁげはぁっ!!!」


 仰向けのまま椿が吐き続ける。

 口から溢れ出た黒いモノは、椿の身体を伝って地面へと流れていく。


「な、何だあれは!」


 宮司はただ震えている。


「祟りだよ! 早く逃げないと祟られるぞ!」

「ひっ!」


 香那の嘘にようやく宮司が逃げ出す。


「よし、これで心置きなく暴れられるぜ」


 香那の呟きが強がりなのか尤磨には判断がつかなかった。

 尤磨の方は最悪の事態を前にして身体の震えが止らないからだ。

 虻切があればアイツにも立ち向かえるはずだった。

 でもないんだ。目の前で木っ端微塵に砕け散ってしまった。

 どうすればいい?


「くばがぁぁああぁぁ!! あぐぁがはがぁああががっっっ!! がばはっ、げばがぁぁがはぁぁがぁぁっっ!!! ががぁぁあっ!!」


 椿の身体を黒いモノがけがす。

 のけ反る身体を震わせて少女は止めどなく吐いた。

 どうする? どうしようもない……。

 尤磨は身が竦んだまま動けない。


「尤磨、取れっ!」


 コートを脱いだ香那が椿の刀を投げて寄こす。

 自分も残りの一刀を手にしている。

 尤磨は姉の強さに勇気づけられ、ジャケットを脱ぎ捨てて目の前の地面に突き刺さった直刀を掴んだ。


「くらぇあっ!!」


 香那が地面に溜まる黒いモノに刀を突き立てる。

 一瞬痙攣したヤツから黒い腕が現われた。


「させるかっ!」


 香那を狙うその腕を尤磨が横薙ぎに斬り捨てる。

 地面に転がった腕は黒い液体に戻り、また本体へと戻っていった。


「斬っても動くのかっ!?」


 尤磨が驚愕する。

 河川敷で尤磨が腕を切り落とした時には、腕はそのまま動きを止めたはずだ。


「がはげぇぇ、ぐばがはぁぁぐぁあがかぁぁあああっっ!!! がげはっ、ごばぁぁあがぁあげぇっ!! あぐぁがぐぁげけぇがはぁぁぁっっっ!!!」


 椿の嘔吐は止らない。

 上を向いて硬直したまま終わりなく吐く。

 地面に大きく溜まった黒いモノがせり上がり、餓鬼の姿を現わしていった。

 大きい。

 河川敷の時の倍くらいある。

 尤磨は思わず後ずさってしまう。

 勝てる訳がない……でか過ぎる……。

 椿の為に戦うと決意したはずなのに、強大な敵を前にして尤磨は情けなく立ち竦むのみ。


「うぉりゃあっっ!!」


 香那が前に踏み込み、餓鬼の大きく突き出た腹に刀を突き刺した。


「きぇあぁっっ!!」


 餓鬼が吠えて爪を振り下ろす。

 身を引いてそれを避ける香那。


「ぼさっとしてんな、尤磨!!」


 餓鬼から目を離さず言う。

 尤磨は自分とは比較にならない姉の強さを今更のように痛感する。

 尤磨の背中に痛みが走った。また母に斬られた傷跡だ。


『香那に負けてばかりで恥ずかしくないのか!』


 母に叱責され、尤磨はどうにか一歩を踏み出した。


「畜生! やってやるっ!」


 敵に向かって走り出す。

 まずは椿とジロベエを切り離さねば。

 尤磨は地面を這う黒いモノに刀を走らせた。


「斬れた!」


 ジロベエがたたらを踏み、椿から離れる。

 椿はまだ吐き続けているが、これで少なくとも二つに分離した。


「がばぁっ!! げばがはっっ!! かはっ、がばはっっ!! げばがはぁっっ!!! かっ! かはっ、はぁっ、かっ!!」


 椿の口から溢れる吐瀉物としゃぶつの量が減っていく。


「かはっ!! かっ!! はぁあんっ!! ぅんっ!」


 硬直していた椿から不意に力が抜けた。


「椿!」


 地面に倒れ伏す前に尤磨が受け止めると、口からするりと黒いモノが流れ落ちる。

 吐ききったようだ。


「大丈夫か! 椿、椿っ!!」


 しかし椿は荒く息をしたまま虚ろな目をしている。

 その二人の間に、ぬっと黒い粘液が割って入った。

 それは細かく歯の並ぶ口となり、椿の頭を呑み込もうと迫る。


「させるかっ!」


 そいつの口の根元に左右から手を入れた尤磨は、身をひねってそいつを後ろに投げ飛ばした。

 地面に転がったのは黒いヤツのうち小さい方の断片。

 まずはこれをやる。

 尤磨が手にした刀を薙ぐとその粘っこい塊は後ろに跳ねた。

 そのまま大きい方のヤツと一つになる。


「ちっ!」


 細長い尾となったソレが横薙ぎに尤磨を狙った。

 刀で斬り付ける。

 キン! と高い音。

 尾は固い刃となっていた。

 一旦引いた刃が勢いを付けて戻ってくる。

 尤磨が刀で受け止めると、そいつは刀身にぐるりと巻付いた。

 ギンッ!

 刀が真ん中で折られる。


「くっ!」


 大きく上に伸びた尾が狙うのは椿。


「椿!」


 振り下ろされた尾の先端が、椿をかばった尤磨の右肩を貫いた。


「ぐぅぅぅっ!!」


 尾が引き抜かれる。

 あまりの激痛に尤磨は声が出ない。

 敵は尾を高々と振り上げて二撃目を狙っている。


「椿を……椿を……」


 しかし尤磨の視界は揺らいで定まらない。

 視界の端に何かが見えた。

 何の役にも立たない古くさいゴミ。


「いいや……」


 彼方次郎兵衛あちらじろべえ赤坂刑部あかさかぎょうぶの虻切によって命を絶たれた。

 次郎兵衛は虻切に強い怨みを抱いているはず。

 錆びて砕け散って何の役にも立たない。

 しかし、おびき寄せるには絶好の餌だ。


「こっちだ、次郎兵衛!!」


 地面を蹴って走る尤磨。

 尾は迷いを見せた後、尤磨の方へ切っ先を向ける。

 虻切の柄を掴んだ尤磨はジロベエを見据えた。


「来い! 彼方次郎兵衛!! 赤坂刑部の末裔が、お前を斬り捨てた虻切で相手をしてやる!!」


 片手で握った柄を突き付ける。


「馬鹿っ! やめろ尤磨!!」


 香那が叫ぶ。既に血塗れだ。

 ジロベエ本体が尤磨に身体を向ける。


「椿を頼んだぞ! 香那!!」


 勝ち目なんてどこにもなかった。

 しかしあいつら二人を――尤磨にとって大切な二人を、死なせる訳にはいかない。


「きぇあああっ!!」


 餓鬼が咆哮する。

 ここに至って尤磨は心が凪ぐのを感じた。

 静かな草原に佇むように。

 今まで何を恐れていたのだろうか。

 ほんの少し前、餓鬼を前にして震えていた自分を全く他人のように感じてしまう。

 今なら何でも出来る気がした。

 何でも――

 鋭い尾が振り下ろされた。

 尤磨は僅かに身を横に滑らせる。

 何も得ずに地面をえぐる刃。

 横から鋭い五本の爪が。

 身体を沈めた尤磨の上を過ぎた。

 ジロベエが突進する。

 尤磨はもりの中へと誘い込んだ。

 木々をかいくぐり、へし折り、餓鬼が迫ってくる。

 尤磨が思った通り。

 餓鬼は気の通ったものは透過出来ない。

 それは大地であったり人間であったり樹木だったり。

 これなら時間が稼げる。

 二人が逃げるだけの時間が。

 尤磨も生きて帰る。

 それは無理だと思った。

 尤磨の手にあるのは半分に折れた椿の刀。

 そしてボトムの腰元に挿し込んだ柄だけの虻切だ。

 捨て鉢になって命を捨てるのではなかった。

 生きたい。

 椿と共に生きていきたい。

 強くそう願いながら、それ以上に二人を生かす為に命を捨てても惜しくはないと思った。

 今の尤磨は自分の命の価値を知っている。

 二人を生かす為に必要な、使い時を誤ってはいけない大切な命だ。


「悪くない。悪くないぜ」


 尤磨の身体にはかつてない程の力がみなぎっていた。

 燃え尽きる前のまばゆい輝き。

 しかし、ただで燃え尽きるつもりはない。

 行く手に竹があった。

 椿の刀でそれを切り、振り返り様に餓鬼へと投げる。


「喰らえ!」


 切りたての竹はまだ気が通っているはず。


「きぇあっ!」


 ジロベエは腹を突かれて声を上げた。

 この程度では致命傷にならない。

 しかし奴を逆上させる事は出来る。


「もう一本!」

「きぇああっっ!」


 肩を竹で刺されて叫ぶ餓鬼。

 ジロベエは木々をなぎ倒しながら尤磨のすぐ後ろまで迫った。

 鋭い爪が僅かに背中をかすめる。

 尤磨は尚も走り続け、大木の間をすり抜けた。

 すぐに振り返って刀を構える。

 ガン!

 木々の間隔は狭く、へし折れない程太い。

 衝突した餓鬼がよろめく。

 尤磨の狙い通り。

 踏み込んだ尤磨はまず餓鬼の下腹を刺した。

 それを支えに上へ跳び、でかすぎる腹の上に乗る。


「うぉりゃあぁぁっっっ!!」


 真っ黒い喉下を、撫でるように薙ぐ!


「きぇえええっっ!!」


 斬り口から黒い瘴気しょうきが噴き出す。

 餓鬼は体勢を崩して仰向けに倒れるが、まだ動きは止らない。

 やはり折れた刀では浅かったか。

 刀を逆手に持ち、喉の斬り口を狙って大きく振り上げる。

 尤磨の全身に激痛。

 餓鬼の鋭い爪で掴まれた。


「まだまだぁぁっっ!」


 刀を傷口に投げ付ける。

 僅かに刺さった。

 尤磨にはそれで十分。

 全体重を乗せ、足で踏み込む!


「くぇぇっっっ!」


 確かな手応えを感じた瞬間、尤磨の身体が浮遊する。

 餓鬼に投げ飛ばされ、激しく樹木に叩き付けられた。

 一気に気が遠くなる。

 空白の後、うっすらと意識が戻ってきた。

 時間の感覚はまるでない。

 どうやら枝の上に引っかかっているようだ。

 見下ろすと仰向けに倒れるジロベエがいた。

 身動き一つしない。

 倒したか?

 そう思いかけた尤磨の中に違和感が。

 ヤツは倒されると霧状になって消えるはず。

 マズいと歯がみ。

 餓鬼の頭が歪んで体内に引っ込む。

 続いて出っ張り過ぎた腹が勢いよく持ち上がった。

 腹の根元、みぞおち側が大きく裂ける。

 中にずらりと並んだ鋭い物は恐らく歯。

 その口の上に赤くギラギラ光る玉が二つ現われる。

 顔だ。

 ひたすら醜い顔。

 さらにその化物は仰向けのまま手足を地面の方へ伸ばした。

 巨体が持ち上がる。


「くぇああああっっっっ!」


 一声鳴くと、四つ足のまま元来た方へと疾走した。

 マズい……マズい……。

 尤磨の中にひたすら焦りが広がる。

 しかし、意識は遠のいていった――

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