第五話 出立に向けて

 テーブルから離れた椿が勢いよく身体を前へ折る。


「げばはぁっ! げぇあぁぁあげばぁっっ! がはっ! がああっ!!」


 激しく黒いモノを吐きながら、椿は自分の口元を手で覆う。

 その手の隙間から、尚も黒い液体はこぼれ続けた。


「げばっ! がはぁっ! ……にげ……っ げはぁっ! にげ、ろ……っ!」


 椿が上を向き、大きく喉を鳴らす。

 液体を飲み下すつもりのようだ。


「ぐふぅっ! くっ! ぅうんっ!!」


 どうにか椿の嘔吐は途絶える。

 しかし椿の前には人の背丈程ある禍々しいヤツが立っていた。


「けぇああっ!」

「あれがジロベエ……」

「俺が出くわしたのよりはずっと小さいがな」

「ぐぅ……くふぅ……うぅ……」


 無理に嚥下したせいか、椿は力なく壁にもたれかかったまま動けないでいる。

 今回のヤツは河川敷のヤツよりずっと小さい。

 香那かなと二人でなら、椿が回復するまで持ちこたえられるのでは?

 尤磨ゆうまは思考を巡らせる。


「ぼさっとしてんな、尤磨!」


 いつの間にかキッチンにいる香那が叫ぶ。

 その声に背中を押されて尤磨もイスを手にテーブルの上へ跳び乗る。


「食らえっ!」


 香那が出刃包丁を投げた。

 しかしそれは黒いヤツをすり抜ける。


「うぉりゃっ!」


 尤磨もイスで横殴りにしたがやはり餓鬼には当たらない。

 そのまま体勢を崩してテーブルから落ちる。

 尤磨が見ると化物の足は床の下にめり込んでいた。

 奴は物体を透過するようだ。


「尤磨!」


 香那が投げて寄こした刺身包丁の柄を掴み、化物向かって繰り出した。


「クソッ!」


 全く手応えがない。包丁では駄目だ。

 黒いモノが尤磨の手にまとわり付いてきた。

 手を引いても粘液状のソレは離れない。


「気を入れい!」


 椿の声。

 尤磨は焦りを鎮めて集中する。

 すっと手を引くとようやく黒いモノが剥がれた。


「全ては気じゃ!」


 言いながら、椿は笛が入っていた筒を手にする。

 蓋の反対側をひねって筒を持ち上げると中から直刀が二本出てきた。

 

此奴こやつ等を、やらせはせんっ!」


 二刀を逆手に構えた椿がジロベエ目がけて跳躍する。

 一本は胸に突き刺さったが、もう一本は爪で受け止められた。

 化物の空いた手が椿を狙う。


「包丁が駄目なら、殴ればいいんだよっ!」


 香那が後ろからジロベエに殴りかかった。

 延髄に当たる部分に打撃を受け、化物の動きが止まる。


「けへぁっ!」


 生身なら当たるようだ。

 香那が二撃目の構えを取る。


「よっしゃ、続けてぇっ!」

「ヤバい、香那!」


 尤磨は香那の背中に手を伸ばし、スウェットパンツを引っ張って後ろに転がせた。

 危うく黒い爪が香那のいた場所を横切る。

 その黒い腕に手をかけた尤磨は、勢いに逆らわず化物の身体に捻りを加えた。

 さらに膝の裏を踏み付ける。

 黒いヤツが大きくよろめいた。


「でかした、尤磨っ!」


 椿が二刀構えた手を大きく振り上げる。


現世うつしよに、貴方の佇む場所はないっ!」


 黒いヤツの両胸に、深々と鋭い刃を突き立てた。


「けぁああぁっ!」


 断末魔の悲鳴を上げてジロベエが動きを止める。

 刺された場所から激しく黒い蒸気を噴き出し、やがて身体全体が黒い霧となって消えた――






 ヤカンのお湯が沸く。

 父が慣れた手付きで尤磨にお茶を淹れてくれる。


「ありがと」

「いやいや、僕にはこれくらいしかできないからね」


 戦いの間、父は化物から離れたところに避難していた。

 武術を習っていない父の場合はそれが賢明な判断だ。

 激しい戦いをしたと思ったが、化物は物体を透過するようなので意外に被害は少なかった。

 せいぜい香那を狙ったジロベエの爪が食器棚を浅く傷付けたくらいか。

 椿によると攻撃の意図があれば普通の物体も破壊するらしい。

 申し訳なさそうに謝る椿だったが、もう古いから別にいいと父は軽く笑って済ました。


「大変な事になったな……」


 尤磨は食器棚に残った鋭い傷跡を見ながら呟いてしまう。

 今のヤツよりずっと巨大な敵と、今度は向かい合って戦わねばならない。


「男冥利みょうりに尽きるでしょ?」

「え? 何それ?」


 父が意外な事を言ってきたので聞き返す。

 眼鏡をくいっと指で上げてから父は続ける。


「女の子の為に命を賭ける。男の子にとってこれ程頑張れる事はないでしょ?」

「うーん、簡単に言うなぁ」


 尤磨は頭をかいて苦笑いをしてしまう。


「まぁ、やるのは僕じゃないから気楽に言ってしまえるんだけどね」

「何だそりゃ」

「僕は武術の事が分からない。だから、夕那さん――お前達のお母さんがする事に口出しは出来なかった。でも、お前達の事はずっと見ていたよ」

「うん」


 父が湯呑みに口を付ける。


「尤磨が嫌々稽古をしてるのは分かっていた。でも、それ以上に苛立っているお母さんの事が気掛かりだった」

「苛立っている?」

「息子に自分の気持ちが伝わらないから苛立っていたんだよ。僕は夫として妻に助言してみた。一度休んで、落ち着いてみてはどうかってね。お母さんは首を横に振ったよ」

「そういう人だよね。横を見ないで真っ直ぐだ」

「お母さんを許せる?」

「許せる?」


 そう言われて尤磨はぎくりとなる。

 自分は母を恨んでいるのだろうか?

 どんなに泣こうが許そうとしなかった母。

 後ろから模造刀で斬り付けてきた母。

 母が死んでしまった時、これでつらい修行はなくなったとホッとしなかったか?


「許してあげて欲しい。お前のお母さんは、確かに尤磨を心から愛してたんだからね」

「うん、分かった」

「本当に分かった?」

「う、うーん。正直、まだわだかまりって奴があるね」


 父が微笑んできたので照れ笑いを返す。

 普段は頼りないけど、尤磨にとって心を開いて話せる相手だ。


「今回の出来事が全部片付けば、また考えが変わるかもね」

「だといいね。生きて帰れたらの話だけど」

「駄目だ。生きて帰りなさい」


 そこだけ厳しく父は言った。






 ダイニングの扉が開く。

 入ってきたのは風呂上がりの椿だ。

 香那の物らしいハーフパンツとTシャツを着ている。


「良い湯じゃった。香那が邪魔だったがの」


 バスタオルで長い黒髪を頭の上でまとめており、それを整えながら尤磨の前まで来た。

 手を下ろした椿が尤磨をじっと見る。


「ん、どうした?」

「尤磨、さっきは助かった。お主もなかなかやりおるわい」


 ジロベエとの戦いの事を言っているようだ。

 にっこりと笑みを向けられて、尤磨は面映ゆく感じてしまう。


「まぁあの程度はね。一応、母親に鍛えられてたんで」

「うむ。今回は尤磨の力に頼らねばならぬ。よろしゅう頼むな」


 椿が深々と頭を下げてくる。


「おいおい、やめろって。餓鬼の話には赤坂刑部が深く関わってるんだ。俺は一撫流いちぶりゅうの継承者としてはた迷惑なご先祖様の後始末をするだけだっての」


 本当のところ、そんな建前はどうでもいいと思っていたが。

 尤磨はあくまで椿の為に戦うつもりをしていた。


「そうなのか? まぁ、そうか」


 顔を上げた椿は何だかがっかりしているように見える。

 何か間違えたのかと尤磨は焦ってしまう。


「いや、その……。可愛い女の子の為だから頑張れるんだけどな?」


 今度は軽薄すぎるかと言って後悔する尤磨。


「可愛いっ!」


 真に受けたらしい椿が素っ頓狂な声を上げる。

 こういう純真な所が可愛いと尤磨は思う。

 と、いつの間にか椿の真後ろに香那が。


「喜べ尤磨! この子、結構おっぱい大きい!!」


 椿の腋の下から手を突っ込んで、あろう事か彼女の胸を下から持ち上げやがった。

 ぽよんと揺れる。


「何をするっ!」


 椿がひじ鉄を食らわせようとするが、予測していたらしい香那は難なくかわす。


「いいじゃんいいじゃん、尤磨にご褒美」


 にやにや笑いながら尤磨の影に隠れた。


「何がご褒美じゃ! 乳ならお主の方がでかかろうが!」


 椿が顔を真っ赤にして吠える。


「私のおっぱいは揉み飽きてるんだよ、こいつ」

「いつ揉んだんだ、いつ」


 この姉貴、余計な濡れ衣を着せようとしていた。


「え、揉み飽きてる? お主等って夫婦めおとなのか? きょうだいかと思っておったんじゃが?」

「いやいや、姉弟だっての」

「ふふふ……姉弟みたいな夫婦ふうふって、よく言われちゃうの」


 後ろから尤磨に艶めかしく抱き付く香那。

 ノーブラの巨乳が肩に当たるのもお構いなし。


「へぇ……そうか……そうなのか……」


 椿は目に見えてヘコんでいる。

 いつもの眼光がどこかへ行ってしまっていた。

 そんな反応をされて尤磨は危うく勘違いしかけるが、どうにかこうにか踏み止まる。

 椿のような可愛い子が自分に……なんてあり得ない。


「冗談だよ、椿ちゃん!」

「え?」

「私達はただの姉弟。こいつは生まれてこの方恋人なしの可哀想な奴なんです」

「へ、へぇ、そうなんじゃ?」


 何故か椿の顔に生気が戻る。


「姉として二人の仲はがっつり応援して参りまするので。ガンバ、椿ちゃん!」


 などと腕を突き出し親指を立てた。


「何を頑張るんじゃ! 儂にそんなつもりはないわいっ!」


 椿はぷいっと横を向いてしまう。


「あーあ、逆効果だったか~」

「分かっててやったろ、香那」

「てへっ!」


 舌なんて出してかわい子ぶりやがった。






 尤磨も続けて風呂に入る。

 あの黒いヤツは触れただけで身を清めたくなる存在だ。

 尤磨はあの化物と戦う事を宣言したが、実際に相対してちゃんと戦えるのかあまり自信を持てなかった。


「分かってるのか? 今度は逃げられないんだぜ」


 母に叩きのめされ、泣きながら地面に這いつくばる日々。

 地面を這いながら逃げようとした尤磨を、母はさらに打ち据えた。

 父によると母は苛立っていたという。

 息子に気持ちを届けたいが届かない。

 その事に苛立ちながら、尚も剣士として打つ。

 あくまで剣士。それが母。


「つっ!」


 不意に背中の斬り傷が痛んだ。

 医者によると斬り傷は完治しているらしい。

 こうやって痛むのは心因性の幻覚のような物だと言われていた。


「母さんの呪いか……」


 尤磨が臆病になるとこの傷は痛んだ。

 河川敷で化物と出くわした時も、身が竦んで動けなくなった尤磨を追い立てるかのように痛みが走った。


『逃げるな! 立て! 立って打て!』


 おそらくは母の叱責なのだろう。

 母の死後、尤磨が毎日の稽古を止めた時も背中は強く痛んだ。

 しかし痛みは一晩で引いたので、そのまま尤磨は武術から逃げてしまえた。

 死んでしまった母は生前程には自分を痛めつけられない。

 そう理解した時、尤磨は初めて母の死を実感した。

 それから尤磨は自由に生きてみたが、結局何も得られなかった。

 逆に逃げてしまった事で多くのものを取りこぼした筈。

 今、尤磨は強い焦りを感じていた。

 逃げてはいけないものから何故逃げてしまったのか。

 拳を握り締めた尤磨だったが、浴室の壁を殴り付けるのは思い留まった。

 今さら後悔しても遅い。

 尤磨は、これまでの自分とこれから向かい合わなくてはならなかった。






 風呂場から廊下に出た尤磨の耳に心地良い音が流れ込んでくる。

 ダイニングの扉を開くと思った通り横笛を吹く椿がいた。

 リビングのソファに腰掛けた父と香那が、透き通る調べを楽しそうに聴いている。

 尤磨も香那の隣に座って聴くことにした。

 椿の笛の音がここまで心に染みてくるのは、彼女が過ごしてきた日々のいろいろが込められているからに違いない。

 単に不幸と呼んでいいとは思わなかった。

 僅かな間だけ咲く野の花のような幸せな日々もあったろう。

 つらい別れはいくつも重ねながら……。

 彼女が生きてきたこれまでが、あの細い笛から流れ出ていた。

 椿が演奏を終える。

 みんなで拍手をすると、はにかんで。


「へへ、いろいろ思い出してしもうたわ」


 椿は少し目に涙を滲ませていた。


「イロイロなオトコが去来した訳ですなぁ~」


 香那が腕組みをして頭を左右に振る。

 余計な事を言い出す姉に、いい加減うんざりしてくる尤磨。


「妙な言い方をしよるのう。そんな色っぽい話なんぞ、これっぽっちもありゃせんわ」


 椿は口を尖らせて反論した。


「嘘言いなよ、四百年も生きててさ。その数多の男の列に、我が弟が加わる訳ですよ。良かったね、尤磨。ハジメテはケーケンホーフなお姉さんだよ?」


 香那がウインクして親指をぐっと立てる。


「香那、お前なぁ……」


 姉の下ネタに弟はドン引きだ。


「ケ、ケーケンホーフって何なんじゃっ!? 儂はれっきとした生娘じゃぞっ!」


 言ってしまってから、椿の身体が固まってしまう。

 椿がゆっくりと顔を巡らせる。目があってしまう尤磨。

 見つめ合ったまま、ビミョーな時間が過ぎていく。

 椿の顔がみるみる赤くなった。


「うう~~~!!」


 両手で顔を覆ってしゃがみ込んでしまう。


「あの~、ゴメンね? 椿ちゃん」


 ものすごく申し訳なさそうに首を傾げる香那。


「お主、そういう言い方をすれば、かえって儂の居心地が悪くなると分かっておるじゃろ!?」


 椿が指の隙間からぎろりと睨む。


「てへっ!」


 香那がかわい子ぶって舌を出した。

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