第四話 過去とこれから




     *          *




 徳川が江戸に幕府を開き、

 新たな世が始まりつつあった頃――

 彼方次郎兵衛あちらじろべえはただ剣客だった。

 付き従う妻と娘をも顧みる事なく。

 その次郎兵衛の前に現われた男。

 赤坂刑部あかさかぎょうぶ

 始めは友だった。

 共に研鑽し、剣の道を突き進む。

 しかし二人は近付き過ぎた。

 相手の才を羨む程。

 そんな相手を無視できない程。

 次郎兵衛は決闘を申し込んだ。

 難なく相手を倒した刑部は、

 しかし止めは刺さなかった。

 次郎兵衛には妻と娘がいたからだ。

 次郎兵衛は呪った。

 自らを侮った刑部をひたすらに。

 そして外道の術に手を出した。

 修羅降しゅらごう――

 修羅に堕ち、人を越える力を得る術。

 しかし次郎兵衛は堕ちて餓鬼となる。

 醜く卑しい餓鬼は荒れ狂う。

 愛していた妻を無残な肉塊に変え。

 そこまで堕しても尚、

 次郎兵衛は刑部に勝てなかった。

 餓鬼のまま、生涯を終える……。




 そこで終われば良かった。

 残された娘の身に

 異変が起こったのは暫くしてから。

 体内に渦巻くどす黒い何か――

 日増しに臓腑を圧迫し娘を苦しめる。

 ついに耐え切れず吐き出したソレは、

 醜く蠢きながら餓鬼の姿を現わした。

 堕ちた父は黄泉路へ旅立てず、

 闇の眷属として娘に取り憑いたのだ。

 多くの人を殺した。

 肉を貪り食った。

 女子供も構わずに。

 餓鬼は幾度倒しても娘の身に宿った。

 そして娘自身にも異変が。

 死なない。

 どうやっても死ねない。

 全ては餓鬼の執念だと高僧は言った。

 娘の願いを聞き入れ、

 高僧は彼女の体内に封印を施した。

 これでもう餓鬼は現われない。

 誰も殺されない。

 娘は微笑んだ。




     *          *




 尤磨ゆうまはテーブルの向かいに座る椿の話を黙って聞き続けた。

 椿は目の前の湯呑みを眺めながら話を続ける。


「じゃが、その封印では餓鬼を完全に抑えられなんだ。儂が気を緩めると餓鬼は姿を現わし殺生をする。それを何度でも封じるのが、儂の務めじゃ」

「四百年以上?」


 無限とも思える時の長さに尤磨は息を呑む。


「結構年上なんだ」


 香那かなが間抜けな声で言う。

 そうやって混ぜっ返しても、この場に漂う空気の重さはどうにもならなかった。


「儂は人を死なせとうはない。じゃがもう限界じゃった……。餓鬼を……父上を成仏させる為には、宿願を果たさせる他ない。そう思ってしまったんじゃ……」

「それで俺を殺しに来た」


 椿が力なくうなずく。

 尤磨の中に怒りは沸いてこなかった。

 これまでの椿の苦難を思えば、そう考えてしまうのも仕方がないように思えたのだ。


「どうやっても倒せないの? そのジロベエ」


 香那が身を乗り出して聞く。


「うむ……これまで多くの者が手を貸してくれた。武芸者であったり僧であったり神官であったり……。じゃが、何度斬り伏そうとも、どんな術を施そうとも、餓鬼は隠世かくりよとの境たる儂の臓腑から湧き出るんじゃ」


 椿は湯呑みの縁を撫でながら語る。


「隠世との境?」


 尤磨が聞くと椿は頷く。


「隠世はこの世ならざるモノが棲む世界。物の怪の多くはこの世たる現世うつしよと隠世の境から現われるんじゃ。場所であれば四つ角であったり、時であれば黄昏時たそがれどきであったり。父上とえにしの深い儂の臓腑は、父上の執念によって餓鬼が這い出る境となってしもうとる」


 沈痛な面持ちで椿は語った。


「何回倒しても隠世ってとこに戻って、また椿ちゃんの内蔵から湧いて出るの?」


 香那がいつもの軽い調子で問いかける。


「そうじゃ。封印によって普段は隠世との境は閉じておるが、儂が隙を見せると境は開いてしまいよる。そうして現われた餓鬼はそこらの武具や呪術では倒せん。儂がひたすら倒す他なかった」

「やっぱり……」


 と尤磨が言いかけた途端、香那と椿が睨んできた。

 慌てて口をつぐむ尤磨だが、自分が犠牲になるしかない気がする。

 椿は四百年以上も苦しんだのだ。

 その苦しみから解き放つ為だったら、取るに足らない自分の命くらい……尤磨はそう考えてしまう。


「焦らないでよく考えてみようよ」


 姉弟の父が口を開く。


「何か良い知恵でもあるの、お父さん?」


 娘にそう聞かれ、痩せぎすの父が銀縁の眼鏡を指でくいっと上げた。

 いつもの癖だ。


「さっきの話に出た高僧の言う通りなら、椿さんがいろいろと迷惑してるのは次郎兵衛さんの執念が原因て事になる。この執念を消し去れば、椿さんが被っている迷惑は無くなるはず。だよね?」

「そうだな」


 尤磨が頷く。

 椿の悲劇を迷惑で片付けているのが若干気になりはする。


「次郎兵衛さんは刑部さんに勝ちたい。四百年以上もそう拘り続けてる。自分が餓鬼になっても、自分の娘さんに迷惑をかけても、拘り続けているんだ」

「つまり執念だね」


 香那が付け足す。


「その通り。この執念というのは厄介で、高僧の力を以てしても消せなかった。餓鬼が出てこないよう封じるくらいしか出来なかったんだ。どうも執念は横から手出し出来ないみたいだね。次郎兵衛さんは刑部さんしか見てないので周りからいくら働きかけても全部無視してしまうんだ。つまりこう」


 父が両手を開いて自分の両目のすぐ脇に添えた。

 横が見えないように手で遮った形になる。


「視野が狭くなってるのか」


 尤磨が呟くと父がうれしそうな顔をして頷いた。

 一方の香那は嫌そうに表情を歪める。


「私そういう人知ってる。何かに夢中になったら横から声かけても聞こえなくなるんだ」

「うん、それの極端なバージョンだね。普通の人なら肩を揺すられたりしたら正気に戻るけど、次郎兵衛さんの場合はそうならない。彼の執念が強力だからというより、そもそも執念という力は周りからの干渉を受け付けない性質を持つんじゃないかな」


 父は自分の事を皮肉られたとは気付いていないようだ。


「そんな厄介な力、どうすればいいんだ……」


 尤磨はため息混じりの声を出してしまう。


「次郎兵衛さんの執念は彼が見ている刑部さんにだけ反応するんだ。言い換えると、刑部さんだったら次郎兵衛さんの執念に立ち向かえるはず」

「でも刑部はとっくに死んでるぞ」


 尤磨がそう言うと、父が顔を向けてきた。


「彼の代わりはちゃんといるよ。刑部さんの末裔たる尤磨がそうだ」

「え、俺?」


 いきなり指名されてうろたえてしまう尤磨。


「じゃあ、尤磨が餓鬼を倒せば一件落着なの?」


 香那が簡単に言ってくる。


「普通に倒すだけじゃ駄目だね。刑部さんが最初に餓鬼を倒した時と同じ事になっちゃう」

「ああ、そうか……」

「そこで切り札だよ」


 父が自分の前に置いてあったハードカバーの本を広げる。


「これはとある郷土史研究家が出した本なんだ。お母さんの一族についてまとめられてある。そこにこうあるんだよ」

「『一撫流いちぶりゅうの開祖・赤坂刑部が遣う刀は二尺七寸の虻切あぶきりと呼ばれる豪刀であった』ん? 虻を斬るだけなの?」


 読み上げた香那が首を傾げた。


「続きにあるでしょ? 刑部さんが撫でるみたいに軽く刀を薙ぐと、飛んでる虻がぽとりと落ちるんだ。羽だけが斬り落とされてね」

「すごいのかすごくないのか、地味すぎて分かんないね」


 香那が率直に感想を述べる。

 尤磨もすごさがよく分からないので首を傾げた。


「刑部はその虻切で、餓鬼となった我が父・次郎兵衛を斬ったんじゃ」


 あえて感情は示さずに椿が言う。


「この刀で斬ったのに餓鬼は椿ちゃんに取り憑いちゃった。じゃあ、こいつは役立たずだ。全然切り札じゃないよ」


 香那が歯に衣着せず父の案を退ける。

 しかし父はめげない。


「この虻切はね、アップグレードしてるんだよ」

「アップグレード?」


 刀に似つかわしくない言い回しに香那が首を傾げる。

 尤磨の方は父らしい言い方だと思った。


「うん、刑部さんが次郎兵衛さんを斬った評判が広まって、物の怪を退治してくれってよく頼まれるようになったんだって。そうやって妖怪退治的な事をしてるうちに、虻切の神通力はどんどん増していったんだ」

「それがアップグレード?」

「もうちょっと続きがある。この頃の刑部さんはただ物の怪を斬り伏せるだけだったんだよ。でも斬り倒された物の怪はきちんと黄泉路へ旅立てなかったんだ」

「別に倒すだけでいいじゃん」


 香那は相変わらず軽く言う。


「刑部さんもそう思ってたらしい。でもよく考えてみてよ。餓鬼となった次郎兵衛さんは刑部さんに斬り倒されたけど、執念が消えなかったせいで椿さんに取り憑いた。倒すだけじゃ上手くいかない時があるんだ」

「あ、そうか」


 ぽかんと口を開ける香那。


「椿さんの身に起こった事は知らなかったみたいだけど、刑部さんは物の怪もちゃんと黄泉路へ送り出そうって考えを変えたんだ。で、虻切の鍔に観音様を彫って貰ったんだって。これ以降、どんな穢れた物の怪でも浄化されて黄泉路へ旅立てるようになったんだ。これがアップグレード」

「じゃあ、今の虻切で餓鬼を斬れば黄泉路とかいうのに放り出せるの?」

「僕はそう期待してる。虻切は刑部さんが遣っていた刀。ある意味分身なんだから、次郎兵衛さんの執念にも作用すると思うんだ。強力な神通力で次郎兵衛さんを倒すだけでなく、観音様のご加護でもって執念を洗い流してくれるはずだよ」

「便利な刀だね」


 何ごとも軽く考える香那が便利な刀で全てを片付けた。

 ここで俯き加減に話を聞いていた椿が顔を上げた。


「それで全部終わるのか、父君?」


 すがるような視線を父に向ける。


「正直分からない。僕はただのエンジニアだからね」

「そうか……」


 椿が沈痛な面持ちで項垂れてしまう。


「相変わらずお父さんは無責任だ。訳知り顔でペラペラ喋るけど、全部ただの妄想なんだから」

「仮説と妄想を一緒にしないでくれよ、香那」


 娘に文句を言われて情けない顔になる父。

 しかし香那は父の抗議を受け付けない。


「何だかんだ言ってたけど、刑部の末裔たる尤磨が刑部の刀たる虻切を遣って戦えば、ジロベエの執念を木っ端微塵に出来る。お父さんはそう妄想してるんだ?」

「だから仮説だよ。刑部さんの末裔。刑部さんの刀。この二つが揃えば次郎兵衛さんの執念に立ち向かえると僕は思ってる」

「そうか……俺が餓鬼と戦うのか。虻切って刀で……」


 途中からずっと黙っていた尤磨が呟く。


「大丈夫。この霊妙な刀があれば、尤磨の力で餓鬼を倒せるはずだよ」

「そりゃそうだ。刑部が最初に餓鬼を斬った時よりずっと強くなってるんだもん。勝てなきゃ嘘だ」


 香那はわざと尤磨を挑発するように言う。


「むぅ……」

「で、この虻切ってどこにあるの?」


 もうすっかり使う気でいる香那が父に問いかけた。


「この本に書いてあるんだけど、この虻切、今は神社に奉納されてるらしいんだ。綱下つなもと神社」

「お母さんの実家の近くにある神社? あんなとこにあるんだ」


 驚いたように言う香那。

 母の実家には家族で何度か行っているので、尤磨も神社がある事は知っていたが。


「そうか……虻切か……。儂は現存する事すら知らなんだが、手に入るのならあるいは……」


 椿が考え込むところからして、この刀には彼女を助ける可能性があるのだろう。

 尤磨はすぐにでも決断をしないといけない。

 それは分かっている。分かっているが……


「じゃあ、明日取りに行こうか!」


 香那が両手を上にやって伸びをする。

 尤磨は視線を下に向けてしまう。


「尤磨、まだ尻込みしてるの?」


 ちょっと冷たい調子で香那が言ってきた。

 尤磨がいつもの逃げ癖を出さないよう牽制してきている。

 さらに香那は追撃してきた。


「お父さんの言う事がどこまで当てになるか分かんないよ? でも、やれる事はやっておくべきなんだ。目の前の女の子一人助けられないでどうするの?」


 姉の言葉が尤磨の胸の内に突き刺さってくる。

 赤坂刑部の末裔として尤磨があの化物と戦う。

 いかに霊妙な刀があろうとも、命がけの戦いになるはずだ。

 尤磨は河川敷で暴れていた化物の事を恐怖と共に思い出す。

 自分に出来るのか? 尤磨の手のひらに汗がにじんでくる。

 いつものように逃げてしまおうか? そんな考えが頭を過ぎる。

 尤磨が顔を上げたら緊張した面持ちの椿と目が合った。

 この子は四百年以上も苦しんでいる。

 父の仮説が当たっているかなんて分からない。

 でも、今の椿は藁にでもすがりたい心境のはず。

 逃げる? 逃げて良いのか?

 さっき椿を引き留めたのは彼女を救いたいと思ったから。

 儚げな少女は見ていられない程つらそうだった。

 椿を救いたい。その考えに偽りはない。

 彼女の為に出来る事があれば、自分の全力を以て立ち向かうべき。

 今は、絶対に逃げてはいけない時だ。


「分かった、やってやろうじゃん」

「よしっ! その意気だ!」


 隣に座る香那が首に腕を回して引き寄せてくる。


「締まる締まる!」


 というよりも、くっつかれると気恥ずかしい。

 なのに尤磨が逃れようとすればする程、香那はかえって密着して締めてくる。


「ふふふ……」


 前に座る椿が小さく笑い声を出す。


「お主等ありがとう。本当にありがとう」


 椿が柔らかい微笑みを姉弟に向けてきた。

 その笑みは尤磨の心をじんわりと温める。

 逃げなくて良かった。

 ただ逃げるだけでは後ろめたさが募るだけ。

 尤磨に前を向いて踏み出すチャンスを椿は与えてくれた。

 そんな彼女の笑顔をいつまでも見てみたい。

 だから……。


「うぐっっっ!」


 急に椿がのけぞる。

 立ち上がり、イスごと後ずさっていく。


「にっ、逃げろっ!」


 うめくように椿が言う。

 上を向いているが、口から黒いモノが溢れて出ていた――

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