第三話 傷付いた少女

 椿を背負った尤磨ゆうまが玄関の扉を開ける。


「おっそ~い!」


 ダイニングの方から香那かなの苛立った声。

 玄関のすぐ脇にあるダイニングの扉を開けると、テーブルの上にあごを乗せて香那が睨んでいた。

 

「え? 誰それ?」


 椿を見た香那が驚いた声を上げる。


「いろいろあってな。ソファ、ベッドにしてくれよ」


 香那がダイニングから一つ繋がりになったリビングへと走り、ソファの背もたれを倒してベッドにした。


「すごい事なってんじゃん! 病院連れてかなくていいの?」


 慌てる香那には答えず、尤磨は椿をベッドの上にうつ伏せに寝かせる。

 その後セーラー服の破れを少し開いてみると、あれだけの深手だったのに跡がわずかに残るだけになっていた。


「え?」


 香那が驚きの声を出す。


「この子、ちょっといろいろあるみたいなんだよ。傷も勝手に癒えていった。まだ二十分と経ってないのに……」

「あっ! あんたも怪我してんじゃん」

「俺はいいよ」


 黒いモノの爪が腕をかすめたのを尤磨は思い出す。

 わずかに痛みはするが、椿に比べればたいした傷とも思えない。


「そうはいくか」


 香那が救急箱を取りに走った。

 戻ってくるとすぐに尤磨の腕の手当を始める。

 尤磨が思ったより傷は深いようだ。


「おい、何があったのか説明しなよ」

「うーん、いろいろあったんだよ……。説明するのメンドくさい」

「駄目だ。それでも説明しろ」


 包帯をきつく締めて香那が睨んできた。

 仕方なしに、尤磨は椿と出会ったところから一部始終を話す。


「ふーん、立ち向かわなかったんだ?」


 尤磨が語り終えると、香那は椿の傷口を拭きながらそう言った。

 批難めいた響きがないだけに、余計尤磨の胸の内に重くのし掛かる。


「そう、俺は何も出来なかった。ただ逃げた」


 どうにか身体が動いて化物の腕を斬ったが、止めは椿が刺したのだ。


「その事、今はどう思ってる?」

「情けないよ、我ながら」

「そう思えたならいいよ。次はちゃんとしなね」


 香那が優しい笑みを向けてきた。




     *          *




 椿が目を覚ましたら、知らない女が顔を覗き込んでくる。


「あ、おはよう」

「いい匂い」


 まず初めに椿の口からこぼれたのはそんな言葉。

 美味しそうな匂いがどこからか漂ってきていた。


「尤磨! 目を覚ましたよ!」


 尤磨? 綱下尤磨つなもとゆうま

 ここは敵地だ! 椿は慌てて身を起こす。


「く、うう……」


 まだ傷が痛む。

 うまく身体が動かない。


「ほら、急に動くから。まだ寝てな」


 女に肩を掴まれ椿はまた伏せさせられる。


「な、何をする気じゃ……」


 椿は不覚にも囚われの身となってしまった身を恥じる。

 これからどんな報復が待っているか……。


「今、お父さんがお粥作ってるよ。お腹減ってるでしょ?」


 女がにこやかな笑みを見せてくる。

 目と口がやたら大きい大雑把な顔をした奴。


「まだ痛むか、椿?」


 女の隣から顔を出して来たのは尤磨。

 椿はこの男を殺そうとした。

 なのに今、尤磨は椿の身を案ずるような表情をしている。

 何故?


「こんなもの、かすり傷じゃ。儂を捕らえて何をする気じゃ?」

「何って……治療?」


 尤磨が不思議そうに首を傾げる。


「後、回復。良くなるまでウチに泊まりなよ」


 女も気軽な調子で言う。


「儂は……お主を殺そうとしたんじゃぞ?」

「いろいろと訳ありなんだろ? 後で聞かせてくれよ」


 尤磨が椿の前髪にそっと手をかける。


「な、何をする!?」


 女の髪に気軽に触るな! 椿はそう言いたかったが、この状況で女ぶるのもおかしい気がした。


「あざも消えてる……」

「ホントだ……すごい……」


 そうやって、みんな椿を化物扱いするのだ。

 実際、自分は化物。椿は暗い気持ちになる。


「よかったね、椿ちゃん。きれいな顔に傷は残ってないよ」


 女が大きな口を横に広げてにんまりした。


「きれいは余計じゃ」


 大分痛みも収まったので、椿はゆっくりと起き上がる。

 背中に手を回すと、わずかに切り口が残っているがほぼ治っているようだ。

 それよりも……。


「服がズタボロになってしもうた……」


 大切な服なのだ。悲しくなってくる。


「じゃあ、後で縫ったげるよ」

「え?」

「自分がやるみたいに言うな、香那。この家で裁縫が出来るのは父さんだけだろ?」


 尤磨が隣の女に冷たい視線を送った。


「おーい、もう食べるかい?」


 向こうから知らない男の声がする。

 その声に反応した尤磨が椿の顔を覗き込んできた。


「食べられるか、椿」

「て、敵の施しは受けん」

「鶏肉も入ってて美味しいよ?」


 香那も鶏肉でもって椿を誘惑してくる。

 実のところ、さっきから漂う美味しそうな匂いが気になって仕方がなかった。

 ここ数日は作り置きの冷たいおにぎりばかりだったのだし。


「て、敵の施しは受けん」

「ほら、意地を張るなって」


 尤磨がお盆に小さな土鍋を乗せて持ってきた。

 湯気と共に美味しそうな匂いが漂ってくる。

 これがこいつらの拷問なのか?


「アーンてしたげなよ、尤磨」

「ええっ!」


 香那の言葉に声を出したのは椿だった。

 そんな恥ずかしい真似……。


「分かったよ。はいアーン」


 尤磨がレンゲにお粥を載せて近付けてくる。


「馬鹿、尤磨。フウフウしたげなきゃ」


 香那が容赦なく言う。


「あ、それもそうか……」

「分かった分かった! 自分で食える!」


 あまりの恥ずかしさについに屈する椿。

 尤磨からレンゲを受け取り、自分でお粥を口に入れる。


「どう、お味の程は?」


 自分で作ったみたいに香那が言う。


「う、美味いぞ。なかなかのもんじゃ」


 椿は出来るだけ平静を装って言ったものの、久し振りの温かい食べ物には勝てない。

 ぺろりと食べてしまった。


「いい食べっぷりで」


 にまにまと香那が言ってくる。


「お代りいるかい?」


 横から声がしたので見てみると、眼鏡をかけた軟弱そうな中年がいた。

 お粥を作ったという、こいつらの父親だろうか。


「うむ、折角だしの」


 椿が頷くと、眼鏡の男はうれしそうな顔をしてお盆を引っ込めた。

 次いで香那が申し訳なさそうに首を傾げて話しかけてくる。


「ゴメンね、椿ちゃん」

「ん? 何がじゃ」


 こうやって油断させておいて酷い拷問をしてくる気か?

 椿は油断なく香那の挙動を観察する。


「こいつが弱っちいせいで、椿ちゃんに大怪我させちゃった」

「そうだ。俺が逃げたせいで、椿はそんな目に……」


 尤磨が肩を落として項垂うなだれてしまう。


「お主、本当に赤坂刑部あかさかぎょうぶの末裔なのか?」


 椿は疑問に思っていた事を訊く。

 豪の者の子孫とは思えない体たらくだったのだ。


「一応そうなってる」

「一応じゃないよ。尤磨は赤坂刑部が開いた一撫流いちぶりゅうの継承者。ちゃんと自覚してって何回も言ってるよね?」


 二人は今にも喧嘩を始めそう気配を漂わせる。


「今は廃れておるのか?」

「まぁそうだ。弟子なんてのは一人もいない。母さんだけがかろうじて免許皆伝を受けていたんだ」


 尤磨が軽く頷いた。


「その母は死んだんじゃろ?」

「何で知ってるの?」


 香那が驚いたように訊いてくる。


「その訃報を知って、赤坂刑部の末裔がいると分かったんじゃ」


 武術の専門誌に一撫流の継承者が死んだと載っていた。

 椿はそれを図書館で読んだ。


「うん、去年にね。病気が分かった時には手遅れで、三ヶ月と経たないうちに……」


 香那が視線を下にやって静かに零す。

 死んでまだ一年なら悲しみを引きずっているのかもしれない。


「そうか……」


 椿は項垂れてしまう。

 本当に相対すべき者はすでに鬼籍。

 残されたのは出来損ないの継承者だけなのか。

 それでも彼方次郎兵衛あちらじろべえの無念は晴らさなくてはならない。


「儂は……綱下尤磨を殺さねばならん……」

「でも、あの化物……彼方次郎兵衛は倒したんだよな? ……椿が」


 尤磨にそう言われ、椿は首を横に振った。


「あれで終わった訳ではない。お主を殺さぬ限り、怨みはいつまでも続くんじゃ……」

「それってどうにかなんないの?」

「随分軽く言うな? 四百年以上前から続く怨みなんじゃぞ?」


 椿は気軽に言う香那を厳しく睨み付ける。


「四百年以上前? うーん……赤坂刑部が生きてた頃か……」


 尤磨が腕組みをして首をひねった。


「でもさ、言い換えるともう四百年経ってるって事でしょ? いい加減水に流そうよ」


 相変わらず香那は言い方が軽い。


「彼方次郎兵衛を殺した方が言う台詞か? 儂の四百有余年を何だと思っておる」

「そうだって。香那は何だって軽く考えすぎるんだよな」

「じゃあ、あんた殺されるの? 四百年も前の怨みだかのせいで」


 香那に詰問されても尤磨は言い返さなかった。

 椿が少年の表情を窺ってみると、そこには迷いが見て取れる。


「お主……殺されてくれるのか?」

「俺の……」

「駄目だっ!」


 言いかけた尤磨を厳しく香那が遮った。


「あんたって何でそう捨て鉢なの!? お母さんが知ったらどう思うか!」

「母さんはもういないんだ!」

「いる! 私の中にはいる! 尤磨の中にもいるはずなんだ! お母さんから逃げないで!」


 椿を置いて喧嘩を始める。

 こいつらにはこいつらの事情があるようだが……。


「待て!」


 椿が一喝すると二人は黙った。


「儂はなぶり殺しがしたい訳ではない。正々堂々の立ち合いの上、赤坂刑部の末裔を討ち取りたいんじゃ。命を無駄に捨てようなどという者なんぞ、討ちとうないっ!」

 

 椿の言葉に尤磨がうつむいてしまう。

 なんて弱い奴なんだ。

 椿はそう思ったが、侮る気にはなれなかった。


「運命を背負わされるのはつらいものじゃ。儂もよう知っておる」


 椿は静かに語りかける。

 自分の笛を心地よさそうに聴いてくれた尤磨の事を思い出す。

 あの時、二人は通じ合えたように椿は思う。

 それはそうだ。

 二人とも、自分には重すぎる荷を背負っているのだから。

 椿はゆっくりと立ち上がった。


「お主等は優しい奴じゃ……。もう良いわ。尤磨を殺すのは諦める」


 どうにか二人に微笑みを向ける。

 尤磨を殺さねば自分の呪縛は解けない。

 椿の中には相変わらず迷いがあったが、彼を犠牲にする決断がどうしても出来なかった。

 この甘さが、弱さが、今まで多くの苦難をもたらしてきたのに、椿はいつもと同じ過ちを繰り返そうとしている。

 床にある荷物を手にしようと俯くと、足元にはこれから先も続く地獄が広がっていた。

 思わず身が竦んで動けなくなる。

 不意に尤磨が椿の腕を掴んできた。


「駄目だ。このまま行かせられない」

「何故じゃ?」

「俺達は椿の事を知ってしまった。苦しんでるって知ってしまった。だから、行かせる訳にはいかない」


 尤磨は真摯な表情を崩さず訴えかけてくる。

 その言葉に偽りはないだろう。

 椿の目に涙が滲んだ。

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