第二話 吐き出したモノ

 棒立ちのまま動けないでいる尤磨ゆうまの前で、のけ反った椿は腹の底から絞り出したようなうめき声を漏らす。


「うぐぅっ! ぐぅ……がはっ……あぁっ……あっ!」

「お、おい、どうした椿」


 尤磨には近寄っていいのかすら分からない。

 自分への態度の豹変と言い、椿の異変はあまりに突然だった。


「ぐぅあぁぁあっっ!! かはぁぁっ!!!」


 勢いよく上体を折り曲げた椿が、俯いたと同時に口からナニカを吐き出す。

 黒い液体がとめどなく椿の口からあふれ出る。


「げばはぁぁっ! かはぁあぁぁぁくあぁぁっっ!!!」


 尤磨は異様な光景に足が竦んだまま動けない。

 椿の吐瀉物としゃぶつは尋常でない量で、しかもそいつは踊るように動いていた。


「がはっ! かはっ、かあぁぁあぁくはぁああげっ!! げはぁぁぁかかぁぁ! がっ!! ぐかっ、かはぁぁっあぁぁっっ!!」


 小さな身体に比べてあまりにも量が多すぎる。

 吐き出された液体は流れ広がる事なく、巨大な水滴のように椿の前に溜まり続けた。

 外に出て喜んでいるかのように表面が波打っている。


「くあぁっ!! かはっ! かっ! はぁぁっ!」


 ようやく全て吐き終えたらしい椿が顔を上げた。

 蒼白だが、眼光だけが恐ろしく鋭い。

 椿が吐き出した黒いナニカは膨張しながらせり上がっていった。

 やがて形がはっきりしてきたソレは、人のように手足があり、胴があり、顔があったが、明らかに人ではない。

 人にしては手足は細く長く、腹は破裂しそうなほど大きく膨れ、大きく開けた口は顔から大きくはみ出していた。

 全身、墨のように黒いのに、口の上にある目だけは赤く光って尤磨を睨み付けている。


「さぁ、今こそ仇を討ち召されい」


 椿が明らかな敵意を尤磨に向けてきた。

 尤磨がとっさに身を引いたのと、黒いヤツが腕を振ったのはほぼ同時。

 黒い爪が尤磨の腕をわずかに裂いた。


「くぅぅっ!」


 腕の痛みが、今のこの状況が現実だと知らしめる。

 恐怖が身体を強ばらせる前に、尤磨は背を向けて走り出した。


「逃げるな! 戦え!」


 椿の鋭い声が聞こえるが、あんなモノと戦うなんて冗談じゃない。

 武器も何もないのにどうやって?


「きぇあぁぁっ!」


 黒いモノが声を上げながら迫ってくる。

 バランスの悪い身体だから足は遅いと思ったが甘かった。

 どうする? どこへ逃げる? 尤磨は頭を働かせる。

 ここは河川敷。ちらりと横を向くと十メートル程の高さの土手があった。

 これを乗り越えれば住宅街だ。

 込み入った町中なら逃げおおせるかもしれない。

 だが、こいつは尤磨だけを狙うのか?

 分からなかった。

 他人を巻き込む可能性は十分にある。

 不意に寒気がして身を横に転がすと、今さっきいた場所に黒いヤツの爪が振り下ろされた。

 あんなものを食らってはひとたまりもない。

 あんなヤツを人のいる場所で暴れさせてはいけない。

 尤磨は足を止めた。

 武術を捨てた自分は空っぽの存在。尤磨はそれを知っている。

 価値のない自分のせいで他人が傷付くなんてあってはならない。

 尤磨は当たり前のようにそう考えた。


「きぇああっ!」


 尤磨の倍以上の背丈がある化物が、両手を高々と上げて咆哮ほうこうする。

 それをぼんやり眺める尤磨。


「へへ、ジ・エンド」


 空っぽのまま無為に生きるくらいなら、こんな得体の知れないモノに殺された方が余程面白い気がした。


「何してる!」


 爪が振り下ろされたと同時に誰かが横からぶつかる。


「つ、椿?」

「何をしておる!? 戦え! 戦って死ね!」


 椿が尤磨の胸倉を掴んで揺さぶってきた。

 尤磨を殺すつもりのはずなのに。


「何で助けるんだ?」

「助ける!? 助けるのではない! お主は正々堂々の立ち合いの上、彼方次郎兵衛あちらじろべえに殺されねばならんのじゃ!!」

「彼方次郎兵衛?」

「アレだ!」


 椿が指さしたのは黒い化物。

 こちらの様子をうかがいながら右に左に動いている。


「あれ……人間なのか?」

「そうじゃ! お主は赤坂刑部あかさかぎょうぶ末裔まつえいとして、アレと立ち合わねばならんのじゃ!!」


 赤坂刑部。

 尤磨のいつもの夢に出てくるご先祖の名前だ。

 確かに夢の中ではあいつも異形のモノと戦っている。

 あいつのせいだっていうのか?

 混乱する尤磨は未だに事態が把握できない。


「やむを得ん、これを使え!」


 椿が直刀を渡してくる。先端に向かって尖り、刃渡りは五十センチ程度。


「これならアレと立ち向かえる。これを使って尋常に勝負せい!」

「きぇあっっ!」


 化物が大きく開けた口で向かってくる。

 とっさに刀を振ると手応えがあった。


「きしゃぁぁっ!」


 のけ反った黒いヤツが距離を取る。

 唇辺りから瘴気しょうきが立ち上っていた。


「よしいいぞ! しっかと戦うがいい!」


 椿が尤磨から離れる。

 尤磨はどうにか立ち上がったが、あんな化物相手に戦える気がしない。

 死んでしまってもいいと開き直っていたのに、今では恐怖が心身を縛っていた。

 武器を手に戦うという新たな選択肢が、化物と相対しているという現実を改めて突き付けてきたのだ。

 化物が尤磨に向かって大きく跳ねる。

 尤磨はそこに隙を見たが斬り込む為の一歩を踏み出せない。

 辛うじて横に転がって避け、また背を見せて走り出す。


「どこへ行く! 戦え!」


 椿の罵声が聞こえるが無理なものは無理だ。

 今、尤磨が逃げているのは化物からではない。


「戦える訳がないだろ? 俺が? 香那にも勝てない俺に何が出来るってんだ」


 今は逃げる時ではないと分かっていたが、尤磨はどうしても振り返って敵と向かい合う事が出来なかった。

 自分自身と対峙出来ない。

 一度逃げてはならないものから逃げてしまうと、あらゆるものから逃げざるを得なくなる。


『逃げるな! 負け癖が付くぞ!』


 母はそう言って強く戒めてきた。

 その言葉を今になって実感したがもう手遅れだった。

 尤磨はただひたすら逃げるしか出来ない。

 息も絶え絶えに走り続けると、前方に何か大きな物が落下した。

 さっきの化物だ。


「けぁはははっ!!」


 黒いヤツは笑っていた。

 尤磨はついに膝を地面に付けてしまう。

 赤坂刑部の末裔? 一撫流いちぶりゅうの継承者? そんなもの、尤磨には重荷なだけだった。

 もう全部捨ててしまう。全部終わりでいいじゃないか。


「うつけがぁっ!!」


 椿の声がしたと同時に尤磨の肩に重みが加わる。

 顔を上げると尤磨の肩を蹴って椿が跳躍していた。

 手には尤磨が持たされたのと同じ刀。


隠世かくりよに、戻られよ!!」


 椿の刀が化物の肩に突き刺さる。

 それを掴んだまま相手の背の上に乗る椿。

 一気に背を斬り裂いていく。

 化物が叫び声を上げ、背中の椿を掴んで放り捨てた。


「ぎゃっ!」


 土手に激突した椿が悲鳴を上げる。


「椿!」


 少女の奮戦を見てもまだ尤磨は立ち上がれない。

 どうしても足が動いてくれなかった。

 さらに化物は彼女に迫り、その背中を爪で抉った。


「ぐあっっ!!」


 追撃の手を緩めず黒いヤツが腕を振り上げる。

 不意に尤磨の背中に痛みが走った。母に斬り付けられた傷跡が軋む。


『立て、尤磨!』


 母の鋭い声に怯懦が吹き飛び、尤磨は遮二無二に駆け出した。

 今まさに椿目がけて振り下ろされる化物の腕。

 尤磨はそれを無心の内に斬り上げる。

 黒い腕がどさりと地面に落ちた。

 尤磨が振り返ると椿の背中には五本の大きな裂傷が。


「ぐ、ぐぅぅぅっ……」

「椿! 椿動くな!」


 しかし少女は荒い息を吐きながら立ち上がる。

 深手をものともせずに跳躍すると、化物に刺さった刀を手に取った。

 暴れる化物だが、椿はしっかり刀を掴んで振り落とされない。


「戻られよ! 現世うつしよは、貴方には明るすぎるっ!!」


 前に踏み出した椿が、化物の肩まで一気に斬り裂く。

 斬り口から勢いよく黒い気が吹き出た。


「きぃぃぃっっ!!」


 叫び声を上げながら化物が地面に倒れ伏す。

 やがて身体全体が黒い蒸気となり、跡形もなく消え去った。


「椿!」


 尤磨が駆け寄ると椿はぐったりと横たわって動かない。


「すぐに救急車を!」

「やめよ」


 スマホを持つ手を椿が掴んでくる。


「この程度の傷、すぐに癒えるわ……」

「何言ってる!」


 尤磨には命に関わりかねない大怪我にしか見えない。


「よく見よ」


 椿が背中を向けてきたので傷の様子を見ると、傷付いた場所が白く泡立っていた。


「この程度の傷なら勝手に癒える。儂は、そういう者じゃ……じゃからこのまま……」

「椿!? 椿!!」


 椿の口元に耳を近付けるとかろうじて息はしている。

 気を失っただけのようだ。

 尤磨は自分の手が震えていることに気付く。


「無様だ……」


 自分の不甲斐なさに、胸が苦しくなった――

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