第5話「彼のいない日々」

 ジュンの来ない日が続いた。

 彼のいない朝や放課後は静かだった。


 来ないだけじゃなかった。

 授業中に一緒になっても、わたしのほうを見ようとしなくなった。

 完全にわたしのことを避けていた。


 だからといって、特別寂しさはなかった。

 憤りも感じなかった。


 元に戻ったのだ。

 ピアノに憑りついた幽霊と、見えない男の子の関係性に。

 そうだ、彼はわたしが見えなくなったのだ。

 そう思うことにした。


 したのだけど、目は自然と彼に吸い寄せられた。

 授業中に、休み時間の廊下に、下校していく生徒たちの中に、彼の姿を追った。 

 そのたび、髪にバレッタをした女の子が一緒にいるのが目に入った。


 智恵だ。

 前から仲が良かったけど、最近とみに親し気に話している。

 だからどうしたってわけじゃない。

 子供同士がくっついた。仲良くなった。それだけのことだろう。


 その夜、わたしはピアノを弾いた。

 誰かに聞こえても、気味悪がられても構わないと思った。

 むしろ自分からおかしな噂を立てて、追い出されてしまおうと思った。


「そうよ。こんな泥臭い田舎、わたしの趣味じゃないもの。寒いし、ガキしかいないし、全然つまらないもの」


 鍵盤に指を立てた。ラウドペダルを踏みしだいた。


「次は都会がいいわ。やっぱりわたしみたいな女の子には都会が似合う。そうよ、懐かしい東京の……」


 懐かしい・ ・ ・ ・……東京の・ ・ ・


 わたしは鍵盤を叩く手を止めた。

 自分で言ったことに疑問を抱いた。

 なんでわたしはそんなことを思ったのだろう。

 流浪の旅の中で、たしかにわたしは東京にいたことがある。

 だけど東京だけでもなかったはずだ。

 西へも東へも行った。

 都会はいくつも経験してる。

 なのにどうして東京だけを懐かしいなんて思ったのか……。


「どうして……」



 その時、部屋の外から足音が聞こえてきた。

 気づかれたのかと思い、慌ててピアノの中に引っ込んだ。

 蓋を閉じてから、別に隠れる必要はないのだと思い出した。

 もともと気づかせるためにしていたことなのに。



 ガラリと戸を開けて顔を覗かせた、予想とは違ってジュンではなかった。

 校長だ。

 細目の初老の男性。格安でオークションにかけられていわたしを買いつけ、運び込んだ人物。


「今……今のはまさか……っ」


 校長はわたしに向かって歩み寄って来た。

 呆然とした、幽鬼のような足取りだった。


「今の曲……あのコの得意な……っ、あの指運びも、足運びも……っ、高音域で詰まる癖も……っ」


 ……は?


「何度言っても治らなかった……あのコの……っ」


 ……何言ってるの? こいつ……。


「注意すれば拗ねて、私の家に来て個人授業を受けなさいと言えば拒否し、思惑をすべて見通すような目をしていた、生意気な……あの女の……!」


 校長は、ピアノの蓋に乱暴に手をかけた。


「ちょっとやだ……っ、やめてよ! そんな雑に扱わないでよ!」


 わたしの抗議の声は、もちろん届かない。


「あの女……!」


 校長は勢いよく蓋を持ち上げた。


「──鷹野頼子の!」

「きゃああああああああ!」


 まるで服を脱がされ乱暴されているような気になって、わたしは悲鳴を上げた。

 悲鳴を上げてから、校長がわたしの名前を呼んだことに気がついた。

 鷹野頼子。

 そうだ、それがわたしの本名で、この男が……わたしを……!


「おまえか!? おまえなのか!? おまえがそこにいて、成仏できずに弾いてるのか!?」


 ダァン、強く鍵盤を押された。

 校長の手が、黒鍵も白鍵も関係なく、上から無茶苦茶に押し込んだ。

 何度も何度も、わたしの体を弄り回すように。


「未練たらしく!」

「やだ……やめて!」

「またぞろ、若いオスでもたぶらかそうってのか!?」

「触らないで!」

「この売女ばいたが! 死んでもなお私を裏切ろうというのか!」

「やだ! 壊れる! 壊れちゃう! お願い許して! 乱暴にしないで!」

「鷹野頼子ぉ!」

「助けて! ジュン!」

「──やめろ! 頼子さんから手を離せ!」


 石のような静寂が訪れた。

 校長は完全に動きを止めた。


「ハア……ハア……!」

 胸元をかき合わせながら声の主を見た。

「……ジュン!」

  

 ホントに来た。

 来てくれた。

 情けなさと嬉しさで涙が出た。


「……頼子さん」


 ジュンはわたしを一瞥すると、瞳に炎を燃やした。

 肩をいからせ、校長に歩み寄った。

 はっきりとした口調で、こう言った。


「……あんた、ボクの頼子さんに何をした?」

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