第6話「独奏」
ジュンがとんでもないことを言ったのに、わたしは気づいた。
気づいて、呆然とした。
──ボクの頼子さん。
と、彼は言った。
その意味するところは明らかだった。
彼はその一瞬、たとえその場の勢いだったのだとしても、ほんの数秒だったとしても、たしかにわたしのことを独占しようとしたのだ。
他の男のものではなく、自分のものにしようとしたのだ。
「……っ」
わたしは唇を噛んだ。
自分自身を抱きしめた。
背筋に走る震えに耐えた。
何かが強くこみ上げた。
その正体を、わたしは知っている。
遥か昔に無くしたもの、二度と手に入らぬと思っていたもの。
それが今、身近にある。
手の届くような距離にある。
「ジュ……っ」
「──やあ、片瀬ジュンくん」
乱れた髪の毛を撫でつけながら、校長がジュンに話しかけた。
わたしの前に立ちはだかるように、ジュンに対した。
「こんな夜更けにどうしたい? いけないなあ、子供が出歩いていい時間じゃないないよ」
紳士の皮を被り直した校長は、猫なで声を出してこの場を取り繕おうとする。
「校長……」
「親御さんも心配してるだろう。そうだ、連絡して迎えに来てもらおうか? いや、それじゃ色々と気まずいかい? そうだな、学校の手伝いで居残っていたことにしよう。時の経つのを忘れて作業に没頭してて、ついつい帰りが遅くなった。どうだ、これでいいだろう?」
「校長……」
「もしくはそうだな……。ああそうだ、これは参考までに聞くんだけど、今ここにいることを、他に誰か知ってるかい? もし知らないのなら……」
「校長!」
ジュンが声を張り上げた。
「いい加減にしろよ! ボクは知ってるんだぞ!? 頼子さんのことも! あんたが昔、彼女に何をしたのかも!」
「……何を言ってるんだ? 誰だいその頼子さんって人は? 探偵ごっこか何かをしてるつもりだったら、さすがの私も気分を悪くするよ?」
「うるさいよ! 誤魔化したって無駄なんだよ! 練習時間を削ってまで調べたんだから! 頼子さんの弟さんと連絡をとって、協力してあんたの悪事を調べ上げたんだ! あんたの家の鍵のかかった机のことも! 中に何が入ってるのかも!」
一歩一歩、語気を強めながら歩み寄る。
校長の顔にあった余裕は、いまや綺麗さっぱり消え失せた。
顔面を蒼白にし、大量の汗をかいている。
「まだ時効は切れてないっていうじゃないか! だったらちょうどいいや! みんなに迷惑かけないように、大人しく自首しろよ!」
「ジュンくん……」
「本当ならさあ! 何発殴ったって殴り足りないよ! ボクの大切な頼子さんを傷つけた! あんたが憎くてしょうがないよ! だけどそれじゃあみんなが困るから! 頼子さんだって、きっと悲しむから! だから最後ぐらいは選ばせてやるよ! 身の振り方を自分で決めて──」
ゴツッと、鈍い音が部屋に響いた。
最初は何が起こっているのかわからなかった。
脳がその光景を理解するのを拒否した。
ジュンの頭から血が出ているのに気がつくと、ようやく頭が回り始めた。
校長がジュンを殴った。
練習用に使っていたメトロノームを、思い切り振り下ろした。
ちょうどあの時、わたしを殴ったように──
「──ジュン!」
わたしは叫んだ。
「ジュン……ジュン!」
必死になって叫んだ。
でもジュンは目を覚まさなかった。
ぐったりと床に伏せ、目を閉じていた。
リムレスのメガネのレンズが割れていた。
走馬灯のように、記憶が蘇る。
マフラーを鼻まであげて登校して来るジュン。
かじかんだ手に息を吐きかけるジュン。
夢を語る時のはにかむような顔。
上手く歌えた時の、誉めてくれって顔。
上手く弾けた時の、誉めてくれって顔。
──わたしの……ジュン……!
「ガキが……余計なことに気がつきやがって……! しかも大人に向かって説教だと!? 身の振り方を選ばせてやるだと!?」
校長は温厚な紳士の仮面を脱ぎ捨てると、忌々しげに吐き捨てた。
「調子に乗るなよガキが! せっかく今まで上手くやって来たのに、貴様如きにすべてをぶち壊されてたまるかよ……!」
ギュウウと音の出るほどメトロノームを強く握りしめながら、ジュンを見下ろした。
「ボクの頼子さんだと!? 幽霊が見えるとでも言うつもりか!? 面白い、だったら貴様も一緒にしてやる! あの世で
「ジュン! ダメよ! 起きなきゃ!」
わたしの声は届かない。
意識を失っているジュンの目を覚まさせることができない。
霊感のない校長の注意を惹きつけることが出来ない。
でも、ひとつだけ方法がある。
霊の存在に鈍感な人にだって届かせる方法がある。
いわく付きのピアノだから出来ること。
ピアノにとりつく幽霊だからこそ出来ること。
尋常なピアノには、到底出来ないだろうこと。
──ダァン!
指を鍵盤に叩きつけた。
前奏も積み重ねも何もない。
突然のフォルテッシモ。
──ダッ……ダァン!
校長はぎょっとしてこちらを振り向いた。
「……まさかとは思ったが、本当なのか? 本当にそこにいるのか……?」
わたしは演奏を続けた。リストの超絶技巧練習曲。
──そうだ、思い出せ。
おまえだったら知っているはずだ。
わたしの癖──ミスしやすい運指──白鍵と黒鍵の間に染み込んだ血の模様──
「頼子……そうか……」
──うるさい、おまえがその名を呼ぶな。
ガチン、演奏の音に紛れさせ、わたしはキャスターのストッパーをひとつ外した。
「頼子は……怒っているんだろうな……。突然私があんなことをしたのを……」
──当たり前だ。
ガチン、もうひとつのストッパーを外した。
「なあ頼子……」
わずかに校長は口元を緩めた。
下卑た笑みを浮かべた。
「……悔しかったか? 殺されて。死んでまでもおまえの大嫌いな男に辱められて」
──知ったことか。とっととこちらへ歩いて来い。
「残念だったな、今後も同じだ。おまえは大好きな少年の死体の前で、改めて弄ばれる」
──OKわかったわ。来ないなら、こちらから行ってやる。
ガチンガチン、残りふたつのストッパーを一気に外した。
「片瀬ジュンくん。さようなら、きみの頑張りは無駄だった」
校長がメトロノームを振り上げた。
──死ね。
同時に、キャスターが床との摩擦で「キュルル……ッ!」と音高く唸りを上げた。
「……!?」
校長はようやくすべてのストッパーが外れている事実に気づいたようだが、もう遅い。
ピアノは勢いよく床を滑った。
校長も必死で逃げたが、若い時分ならまだしも、還暦を越えた体では避けきれなかった。
ピアノは思い切り校長の体を捉えた。壁との間で挟んだ。腰骨あたりから、何かが鈍く潰れるような音がした。
「う……が……あ……っ」
破滅的な呻きが、校長の口から漏れた。
「──まだよ。あなた、わたしのジュンを傷つけておいて、生きて帰れると思わないでよ?」
わたしは冷酷に告げた。
いまや至近距離にいる校長に、かつての先生の首に腕を回した。
──バヂリッ。バヂバヂッ。
青白い光が、溶接のアーク光のように断続的に室内を照らした。
魂を凍りつかせ、心臓を麻痺させる死者の抱擁だ。
「うわああああああっ!?」
校長が悲鳴を上げる。
驚愕に見開かれた目に、薄く白い膜がかかった。
「がああああああああああっ!?」
強い電流が流れているように絶叫した。
泡を噴き、全身を突っ張らせ、痙攣させ──やがて、気絶するように意識を失った。
「──ジュン!?」
校長の体を解放し、ジュンの顔を覗き込んだ。
まだ意識は戻っていない。
苦しげに歪んだ顔で、不規則な呼吸を繰り返している。
なにせ鈍器で思い切り頭を叩かれたのだ。早く医者に見せなければならない。
わたしは再びピアノを転がした。
ガラス戸にぶつけて割り、開口部を作った。
ヒュウと冷たい風が部屋に吹き込んできた。
ピアノの音で人を呼ぼうと考えた。
再び鍵盤に指を──
「……っ」
叩きつける力が出ない。
掌を透かして床が見えた。
存在が希薄になっていた。
力を使いすぎたのか、あるいは単純に成仏しかかっているのか……。
「ちょっと……冗談じゃないわよ!」
わたしは叫んだ。
「今が大切な時じゃない! 今こそ頑張らなきゃいけない時じゃない! 復讐なんてどうでもいいのよ! こんな男どうでもいいのよ! 成仏なんかしてる場合じゃないのよ!」
わたしのために過去を調べてくれていたジュン。
そのせいで寝不足なのをわたしに怒られても、じっと耐えていたジュン。
そして、わたしを女の子として見てくれていたジュン。
「動いてよ! 動きなさいよ! ジュンのために弾かなきゃいけないのよ! ジュンのために人を呼ばなきゃいけないのよ! わたしには他に何もないから! このピアノしかないんだから! ねえ! お願いよ!」
指はゆるゆると動いた。
鍵盤の上に置くと、ゆっくりと沈んだ。
ほんのり微かな、ため息のような音が鳴った。
「もっとよ! もっと高く! もっと強く! 隣町まで聞こえるくらい! 近所の人が見に来て! マスコミが駆けつけるくらい!」
徐々に徐々に、力が戻ってきた。
「ほら、怖いでしょ!? 鬼気迫るような表情で幽霊が演奏してるのよ!? 男性ふたりが倒れてる隣で! まるで取り憑いて殺したみたいに!」
以前のものとは比べるべくもない弱々しいものではあるけれど、なんとか曲を奏でることが出来るようになった。
「……そうよ! その調子よ! フォルテッシモ! フォルテッシモ! フォルテッシモ!」
醜くひび割れた音。
感情をぶつけるだけの、技巧もへったくれもない演奏。
「ジュンが救えるならそれでいい! ここで終わるならそれでいい! だから聞きなさい! 見に来なさい! わたしはここにいるの! ここにいるのよ! だからわたしを見なさい!」
──叩きつけた。
「届け! 届け! 届け!」
願いながら弾いた。
弾きながら叫んだ。
ただ高く、高く鳴れ。
誰かの耳に、届け──
「──届いてよ!」
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