第二章 罪の意識(1)

 姿は見えないが、広大な敷地に響き渡った神を名乗る少年の言葉を聞いて、はっと思った。

 自分だけは優勝してはならないと。

 なぜなら、僕を形作っている罪とやらは……『殺人罪』。

 ――どうして殺してしまったんだ。

 ――なぜ殺さなければならなかったんだ。

 ――こんなつもりじゃなかったんだ。

 後悔。

 それが、僕の中で渦巻く感情だった。

 僕が勝ってしまえば、人間界から殺人罪が永久に消滅する。それによって人間たちがどのような行動を起こすのか……想像したくはない。

 そんな世界に転生したくもない。

 ならどうすればいいか。

 僕は考える。

 手癖なのか、頭をわしゃわしゃと押しては引いてを繰り返す。自分を映す鏡がないからわからないが、きっとひどい癖っ毛をしているだろう。髪の毛がぴょんぴょんと反動で跳ねるのが頭皮に伝わる。


「罪とは呼べないような罪を…………勝たせる?」


 半ば無意識に口から出た。


「そうだ、そうすればいい!」


 それなら人間界から罪が消えても、そいつが転生したとしても問題は少ないに違いない。

 最高というわけではない。しかし最善の策だと思い、僕は走り出した。


「でも……果たしてそんな罪がいるだろうか?」


 そいつに会うためにも、僕は祭りの会場を駆け回る。

 汗を拭う頃には、着崩れが始まっていた。そこでようやく自分の衣姿を確認する。夜闇よりもなお暗い、漆黒に染め上がった浴衣が、提灯から放たれる橙色をわずかに含んでいる。履き物は草履ではなく、これも漆黒の雪駄。足先から滑り込む鼻緒と、足首まで包み込む足袋だけが白かった。

 着崩れを直し、息を整えて、また走る。

 幸い、かどうかは判らないが、少年の言葉を信じた者は多くはなさそうだった。

 競い合えとは言われたものの、何をどうするかまでは言っていない。軽く談笑していたり、会場を見て回っている者がほとんどのようだ。もちろん、みんな人間の姿をしている。

 衣装や色合いや体格、そして性別は様々だが、みんな人間の格好だ。悪鬼羅刹やら空想生物は見当たらない。少年の言葉を無視して普通に楽しめば、普通の祭りと何も変わらないだろう。

 だが、それでも10人に一人くらいの頻度で見かける、眼光の鋭い者。邪悪な笑みを湛えている者。悩み落ち込んでいる者。彼ら彼女らを見かけると、何もしないわけにはいかない。そう思えるのが僕だ。


「よう!」


 僕は答えを見つけるために走り続ける。

 鼻緒が切れるまで。

 雪駄の底がなくなるまで。


「ようよう!」


 雑音かと思ったが、違ったようだ。

 肩をむんずと掴まれた。

 発言どおり、どうにも思慮が浅そうな男だった。僕よりも背は高い。服装は浴衣。髪の毛は茶髪に染め上がっており、にやけた面から犬歯を覗かせている。


「その足取り、あんた本気みてぇだな?」


「な、なんのことだい?」


 僕はとぼけた。

 殺人罪が駆け回っていると知れたら、事が大きくなるに決まっている。

 僕の知る限りで、僕以上の大罪は知らない。そんな奴が本気になっていると悟られたら、場の雰囲気は一気に険悪なものとなるだろう。ここはどうにか切り抜けるしかない。


「とぼけんなよ。んで、あんた何の罪を具現化してんだ?」


「た、大した罪じゃないさ。この姿を見てくれよ。真っ黒だろ? ちんけな器物損壊だよ」


 僕は、不本意だが自身を、『器物損壊罪』と偽った。


「ははっ、真っ黒なペンキで塗りたぐったってか? んで優勝して転生してまた繰り返したいってクチか!」


「笑えるだろ?」


「いや、俺も似たようなもんだぜ!」


 男は、口を大きく開けて、言い放った。


「聞いて驚け……俺はなあ…………『強制わいせつ罪』だぜ!」


「大犯罪じゃないか!」


 なんてことだ、この男。男の姿をしているということは、女性を強制的に、表現のしようもなく口に出すことすらはばかられる行為をしてきたというのか。

 僕は気付かれないように、手を後ろに回し、力を込めた。このような下劣な男に、怒りを覚え、全身が強張る。


「くっくっく…………もっと、もっともっともっと、俺はもっと!」


 男は表情を面白おかしく変化させながら、ヒートアップしていく。


「女のパンツを嗅ぎたいんだよおおおお!!」


「…………は?」


 とんだ変態だった。

 男は、どうやら強制わいせつ罪の中でも、『痴漢』行為寄りのようだった。まあ、これだけでも下劣は下劣だが。


「ああ、あの桃色の柔らかな感触と匂い! これが罪な人間界は狂ってるだろう! 俺が優勝すれば、全人類がパンツ嗅ぎ放題のパラダイスだぜ!!」


「そ、それは……夢があっていいな……」


 僕は、天にも昇ってしまいそうな表情で語る男に、とりあえず相づちを打った。


「同志よ! お近づきの印に、あの女から奪ったこのパンティィィを進呈しよう! さあ、俺の覇道に協力してくれ!」


 男が大仰に腕を開き、そして片腕を畳んで指し示した方角。向かって右後ろ、約2メートルといったところに、被害者がいた。

 薄い桃色の浴衣を着た少女が横を向いて立っている。身長は僕よりも頭ひとつほど小さく、横幅も狭い。長い前髪と、後ろは長髪を低いポニーテールで垂らしている。顔立ちは前髪で隠れていてよく見えない。

 あえて言わせてもらうなら、地味がそこに立っている。


「今すぐ返してこい!」


 あんな人畜無害そうな女の子から、下着を剥ぎ取るとは……。僕は思わず声を荒げた。


「あん?」


 男の表情と、声音が変わる。

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