Action.8 【 暑中はがき 】

 車のエンジンを止めて、ドアを開けると外は真夏だった。

 喧しい蝉の鳴き声と焼けつくような強い陽射しに、いっぺんに汗が噴き出した。美咲みさきは三日振りに自宅のある郊外のマンションに帰ってきた。

 ここのところ仕事が忙しく、会社近くのビジネスホテルで寝泊まりして、通勤時間を惜しんで仕事に打ち込んでいた。

 美咲は中堅のインテリア照明会社に勤めている。

 都心に大型ホテルがオープンするので、その建物内の照明器具の納品契約を巡って、企画書や接待などに毎日追われていた。営業企画部課長代理というのが美咲の役職だが、今回の契約をモノにできたら、次期課長に推すと部長から内密の辞令を貰っている。

 それだけに絶対に落としたくない契約だった。


 月曜日にホテルの上層部の前でプレゼンテーションをやる。

 土曜日の午前中まで会社に残ってその準備をして、午後からやっと自宅に帰ってきたのである。

 大事なプレゼンの前なので日曜日は体調を整えるために、自宅でゆっくり休みたかったのだ。今年、三十五歳になる美咲は独身ひとり暮らし。


 マンションのメールボックスを開くと三日分の新聞と郵便物でいっぱいだった。腕に抱えて十一階の部屋まで持って上がる。

 玄関の鍵を開けて、部屋に入ると少しすえたような臭いがするから、ベランダの戸を開けて風を送る。テーブルの上に新聞の束を置いたら、その中からひらりと一枚のはがきが落ちた。

 ――暑中見舞いのはがきだった。

 送り主は鹿沼 慧かぬま さとし、懐かしい名前が目に飛び込んできた。


『暑中お見舞い申し上げます。我が家では上の女の子が今年小学校に入学し、下の男の子は幼稚園の年長さんです。子育て、大変だけど妻と二人頑張っています。 慧 』


 さとしったら、すっかり良いパパになっちゃって……微笑ましい文面である。

 鹿沼 慧とは大学の三年生の頃に付き合っていた。同じサークルで親しくなりお互いのアパートを行ったり来りする恋人同士だった。

 今でも、時々思う、本気で好きになった人は慧だけだったかも知れないと……。

 仕事に追われ恋愛どころではない今の美咲にとって慧に恋していた、あの夏は忘れられない季節だった。

 優しいけど頑固な慧と、負けず嫌いの美咲は反発しながらも惹かれ合い、二人の恋は夏の夜空の花火のように鮮やかに燃え上がり、線香花火のみたいに小さくなって消えていった。


 大学の最後の夏休み、二人で旅行する予定だった。

 美咲はアメリカに行きたくて、あっちこっちの知り合いに手を回して、超格安のツアーを計画していた。その件を慧に話したら、

「僕はそんな旅行には行きたくない」

 と、無碍むげに断わられた。ムッとした美咲が理由を聞くと、

「好きな人と観光メインの旅行なんか嫌だ。もっと心を通わせるような旅行がしたい」

「たとえば、どんなのよ?」

「山奥のひなびた温泉で、清流の音を聴きながら、河原で線香花火をやってみたい」

 その答えに美咲は思わず噴きだした。

 そんな美咲の態度に腹を立てたのか、その日はアパートに泊らず、慧は黙って帰ってしまった。

 その件を境に二人の間に少し距離が出来てしまったが、美咲は卒論や就活に忙しく慧のことは放って置いた。結局、アメリカ旅行は女友達と行くことにした。


 卒業後、慧が郷里に帰ると噂で聴いた。

 東京に残って就職するとばかり思っていた美咲は驚いた。そして慧に理由を訊ねたら、

「父が倒れたんだ。郷里に帰って家業を継ぐよ」

「そんなの嫌だよ! 慧がいないと私は……」

 寂しいと素直に口に出せなかった――。

「美咲は僕がいなくても大丈夫さ」

 そういって笑った慧の目には美咲は映っていない、卒業と共に二人は疎遠そえんになり自然と別れた。

 郷里に帰って、家業の酒屋を継いだ慧は、お酒のディスカント店舗にして手広くやっていたようだ。

 偶然、ネットで慧の酒屋のHPを見つけた。

 会社のイベント用に、大量に酒を注文したのが切欠で再び交流が始まった。だが、はがきやパソコンメールくらいで個人的なものではない。慧は家庭を大事にしていて、過去の女性である美咲に対して、必要以上に近づこうとはしなかった。


 ドンドンドドーンと音がして、ベランダの窓の向う側が光った。

 シャワーを浴びた美咲はバスロープ姿のまま、ベランダに出て夜空を見上げた。今日は近くの河原で花火大会があるらしい、十一階の美咲の部屋からは花火がよく見える。

 ベランダに椅子を出し独り花火見物と洒落込む。冷蔵庫から冷えたビールを取り出し「カンパーイ!」といって一気にあおった。

 素直じゃない自分は、慧に相応しい女性ではなかったと思う。

 家で食事を作って夫の帰りをただ待っているなんて……たぶん私にはできない。きっと慧は自分に合った女性を選んで幸せになったのだ。

 たとえば、二人が結婚したとしても、そう長くは続かなかっただろう。これは愛情の問題ではなく、相性の問題なのだから……。

 かつて愛した人の幸せを願って、「カンパーイ」ビールの味と違った甘酸っぱい想いが込み上げてくる。


 ドンドンドドーン! 夏の夜空にひときわ、大きな花火が上がった。

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