第0話-02:カタチ
――死んじゃうのって怖いよね。
きっと誰もが、油断していたのだ。
パンデミックなんて起こり得ない。どこかで食い止められる仕組みが、出来上がっているはずじゃないか。
もし広がっても、どこかの誰かがなんとかしてくれる。
人類の絶滅だとかそんなのは、ドラマか映画の中の遠い話だ、と。
現実はそんなに甘くはない。
感染は止まらなかったし、お偉い方々が腕組みをして決めたご自慢の仕組みは、簡単に瓦解した。
こんな時だからこそ、しっかりしなくちゃ。そうでしょ、ナルくん?
わたし達の手で、世界を元の形に戻すの。
目の下に分厚い隈を作り、言い聞かせるように微笑むあいつに、俺は頷く事しか出来なかった。
――どんな時でも、笑えなくなったらおしまいだよね!
じゃじゃーん。チーム全員で頑張った成果が、こちらのワクチンでございます!
大丈夫。臨床とか一通りパスしてるしさ。それじゃあナルくん、一本いってみよう。
世界人口とかいうやつが目に見えて減ってきたその中で、それでもあいつは笑っていた。
胸を張って笑うだけの成果も捻り出してみせた。本当に凄いやつだ。
え、わたしがやるなら要らない? あっそう。じゃあサクヤちゃんの特別製にする?
そうでしょ? よしよし。ま、コレはコレで特別製だけどね……ってちょっとどこ行くの。ねえ待ってよ、うそだってば!
思えばあの時点で、あいつは気が付いていたのかもしれない。
綺麗に白く塗られたその裏に、黒く濁ってこびりついた何かに。
――ナルくん。わたし達、お別れしよう。
ワクチンの効果は絶大で、熱病の患者は瞬く間に減り、感染も止まった。そのかわり。
程なくして、世界には別のナニカが溢れ返った。
最初は夢遊病のように歩き回り。肌と髪の色が変わり。そして、人を襲い始める。襲われたものは、同じ末路を辿った。
幸か不幸か、それは熱病の隔離地域で頻発した為、一般には正しく知られていない。
ワクチンと熱病のウイルスが絡み合い、突然変異を起こしたのだ、とか。
さして慌てた様子も見せずに、淡々と説明を始めた組織の上層部を見て、溜め息が出た。
熱病のウイルスが現れたのは偶然かもしれない。だが、その先のイカれた実験は、間違いなくわざとだ。
ご丁寧に、世界規模で各種のデータも取られている。想定外の事態だったのなら、そんな立ち回り方は出来ないはずだ。
そして気付く。
ワクチンの名を借りたナニカが、俺の身体にもすっかり馴染んだ後である事に。
ワクチンの名を借りたナニカは、汚れ仕事にも一定の線を引いていた穏健派ばかりに処方されていた事に。
あいつが所属していたチームのメンバーを見た時点で、忠告するべきだったのだ。
この組織には表と裏がある。裏側に染まった人間が、お前のチームに混じっているぞ、と。
荒唐無稽でも、あいつならきっと信じてくれた。それなのに。
お前が責任を感じる事じゃねえよ。なんて。
結局、後になって俺がかけた言葉といえば。志を尊重したつもりの、ひどいものだった。
わたしの責任は、わたしが果たしたいから。別れを告げてきたあいつはそう言った。
ごめんね。今日は一人にしてほしいな。また明日ちゃんとお話しよう。約束。
そうして、それきりあいつはいなくなった。
今でもあのワクチンもどきは、世界を救った奇跡の薬として、厳重に保管されているはずだ。
同じものがもう一度広まる確率は高く無いかもしれないが、危険はそこら中に残っている。
ソレにならなかった者は、おそらく今は安定している。それこそ、普通の病院にだって行けるだろう。それでも、どこで変わるかわからないのもまた事実。
事後処理に追われてしばらく経った頃。俺や当時の同僚の何人かに宛てて、あるものが届けられた。
付き合いのあった運び屋をいくつか経由し、組織にいじられないルートで送られてきたそれは、あいつの仕業だった。
そえられていた手紙を読み、迷わず届いた試薬を手にとる。
その頃、隠してはいたが、俺は自身の身体に異変を感じていた。どうせ駄目で元々なら、あいつを信じてやりたかった。
使ったやつと、使わなかったやつ……そして、別の手を頼ったやつ。
そいつらがどうなったのか。全員の行方までは知らない。
手元に残ったのは、ふざけた身体と、ふらりと現れて付いてきたサクヤ。
そしてサクヤの口から語られた、一部の科学者が組織に隠れて研究していたという、本物のワクチンの話。
熱病と元々のワクチン。それが混ざったなにかに効く、本物の。
あいつがどこかで生きているなら、それに絡んでいるに違いない。
俺の目標はその時から、たった二つに絞られた。
それから数年。
――もう、数年経ったのか?
ええと。それから。
それから結局、どうなったんだ。
そういえばここはどこだ。やけに静かだ。心臓の音すら聞こえない。
もう全て終わったんだったか。
ああ、眠いな。よくわかんねえや。
輪郭のはっきりしない思考が、ずぶずぶと呑まれて沈んでいく。
――わたし達の手で、世界を元の形に戻すの。
ねえ、だから起きてよナルくん。
こんな時だからこそ、しっかりしなくちゃ。そうでしょ?
どこかで声が、聞こえた気がした。
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