第0話-01:兆し
始まりは、一人の女科学者だった。
本当の意味でのコトの始まりはもっと前かもしれないが、俺にとっての始まりはそうだ。
――ねえ、運転手さんのお名前は?
俺のいた組織では、先のありそうな優秀な頭脳には、運転手一人と秘書が二人つく。
表向きは、優秀な科学者集団。世界平和と人類の繁栄に貢献する、正義の研究機関様とかいうやつだ。
それを支えていたのが、運転手や秘書、その他諸々の顔をした裏側の人間。つまり俺達。
慈善事業だけでは金は集まりきらないし、パトロンの傀儡となる事を良しとはしなかった。かといって、汚れ仕事だけでは目をつけられて潰される。
随分と歪な形をしていたはずの組織が、それでもまかり通ったのは、世界の需要に両面から応えていたからに他ならない。
自分に運転手と秘書がつく、と聞いて緊張していたらしいそいつは、開口一番になぜか俺の名前を聞いてきた。
白髪のじいやみたいな人に囲まれて生活するんだと思ったら、若い人がいた。これは、後に本人の口から実際に聞いた話だ。どんなイメージで入ってきやがった。全く。
――わたしってほら、お父さんもお母さんもいないしさ。
あっけらかんとした様子で不遇な生い立ちを話したあいつは、それでもきっと孤独だったのだ。
一人きりで、優しくはない社会を生き抜き、表向きは誇りを持てる職場であった組織に、自力で入ってきた。
同年代がいて嬉しかったのもそうだけど……そうだね、私より寂しそうに見えたからかな。
俺に声をかけてきた理由を、あいつはそんな風に話した。本当に余計なお世話だ。
組織が研究していたのは主に、毒にも薬にもなる様々な成分。
どちらかというと目的が逆か。主に毒だが、上手くやると薬になるかもしれない成分、だ。
日夜、研究者達は努力を重ねていた。それが世界とヒトの為になると、信念と志を持って。
俺も最初はそうだった。表側の恩恵を受け、雑用でも良いから、と憧れて入って、内情を知った。もっとも、内情を知らされたのは、俺が裏側にスカウトされたからである。
表側にも、裏側の事情を知っている人間はいた。しかしそれは、どちらかというと、元々裏側にいる人間が視察に来ていただけだ。
巧妙に隠されたそれに気付いた人間は、表側だけに関わっているメンバーでは、いなかったはずだ。
――ナル君って、本当は何の仕事してるの?
普段は、重要機密の成分を俺にバラしそうになって、慌てたりするど天然のくせに。あいつは時たま、やけに勘の良い事を言って俺を困らせた。
秘書のやつらとは違って、お前一人に構ってる暇はねえんだよ。
とか何とか。適当に逃げたのを覚えている。
この頃には、お互いにいくらかの気を許しあい、そして惹かれつつあったように思う。
やめておけば良かったのだ。少し眩しい光が見えたからといって、近付くべきではなかった。
――どお? 流石にびっくりしてくれたでしょ?
秘書さんってね。わたしくらいになると、自分で選べるんだって。
似合わない腕組みをしてふんぞり返り、鼻の穴を膨らませて、あいつは俺を秘書に任命した。
これでしばらく、わたしの専属さんでしょ?
満面の笑みに、俺は首を縦に振るしかなかった。
それから過ごした数ヶ月は、俺の人生で間違いなく、もっとも平和な時間だったと思う。
そして、丁度その頃だった。
何とか言うウイルス性の熱病が、世界中で猛威を振るい始めたのは。
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