第4話 この不条理から逃れるには(再び妹観点)
あたしは部屋に戻るなり、うつ伏せでベッドに倒れ込んだ。
そして思い悩む。
やっぱり、どう考えても身体に悪いとわかっているものを人に吸わせるなんておかしい。知らないのであればまだ情状の酌量もある。でも、この日本でタバコが身体に悪いことを知らない大人などまずいない。やる人は皆わかっていてやるのだ。公然と迷惑行為を。そして、周囲はそれを我慢するのが暗黙の了解となっている。
あいつの言うとおり、それが現実だ。
はぁ……。
なんかもう自信なくなってきた。
もしかして、あたしの方が頭おかしいのかな?
タバコの煙や匂いを我慢できない人間は悪なのかな?
大人は「そんなことない」と表面上では言うだろう。でも、腹の中は逆。いざ現場で異論を唱える者が現れると、「空気の読めない人間」として迫害する。つまり実質は悪なのだ。
あたしは悪。
あたしは空気の読めない子。
いらない子。
出来損ない。
邪魔者。
それが社会の認識……。
ふと、携帯メッセージの着信音が聞こえてきた。あの喫茶店を出てから初めてだ。
身体を起こし、ベッドから降りる。ハンドバッグにしまい込んだままだったスマートフォンを出して見ると、メッセージの着信が十件以上あった。ずっと気付かなかった。
送り主はすべて友達三人から。
『ごめんね。お店が禁煙かどうか確認するの忘れてた。今度埋め合わせするから許して』
『実は私もタバコ嫌いだけど怖くて言い出せなかった。一人だけ嫌な思いさせてごめん』
『あいつら勉強ができるだけで人間としては全然ダメだね。あんなことがあっても、まだ吸うんだもん。あんた先に帰って正解だったよ』
合コンは気まずい空気のまま始まり、会話が弾むことなく三十分足らずで終わったらしい。
連絡先の交換も次に会う約束もなく、あっさり別れたとのことだ。
「みんな……」
嬉しかった。誰もあたしのことは批難しなかった。それどころか謝ってくれた。
悪いのは自分たちではないのに。本当に謝るべきは、あの礼儀知らずの大学生たちなのに。
すぐに『こっちこそごめん』と三人に返事を送る。
すると、またすぐに友達から返事がきて、あたしたちの関係は瞬く間に修復した。
あたしは悪者なんかじゃなかった。上っ面だけではない本物の友達が、あたしを認めてくれた。
でも、そんなことを言っていられるのは高校生のうちだけだ。進学にするにせよ就職にするにせよ、そこには成人がいる。成人がいれば必ず一定数の喫煙者がいる。人付き合いをする上で、タバコが嫌だからといって毎度毎度逃げ出すことなどできはしない。そんなことをすれば確実に孤立する。悔しいが社会とはそういうものなのだ。
だから諦める?
おとなしく屈服する?
冗談じゃない。
では、この不条理から逃れる方法が存在するのか?
あるにはある。
権力者になることだ。その場にいる全員があたしに逆らえない、そんな立場の人間になる。
それしかない。
そのためには、誰かが作った組織や会社に入ってはダメだ。自分が創始者にならなければ。
それはきっと、とてつもなく困難な道なのだと思う。それでも、あたしはあたしの尊厳を守るために何かを始めてみることにした。
翌日、月曜日の夜。
会社から帰ってきた兄が、あたしをリビングに呼んだ。めずらしいことだ。
「なんか用?」
「これ見てくれよ。帰りに買ってきたんだ」
兄の手には、タバコのように見える別の何かがあった。
「なにそれ?」
「電子タバコだよ。さっき試してみたんだが、これなら煙は出ないし、匂いもほとんどない。ちょっと吸ってみるから、気になるかどうか教えてくれ」
「いいけど……」
兄は指に挟んだ電子タバコを口にくわえ、吸い込む。
火はつけなくても吸えるみたいだ。でも、それ以外は普通の喫煙と同じ動作だからか、条件反射的に胸が苦しくなってきた。もはやあたしのタバコ嫌いは本能の奥深くまで刻み込まれていた。
そんなあたしの前で、兄は白い煙を吐いた。
「なっ、バカ!」
あたしは口と鼻を押さえ、リビングの扉の方へ後退する。
なにあれ、煙は出ないって言ったのに――
「待て待て」
兄は落ち着いた様子で言う。
「今のは煙じゃない、水蒸気だ。変な匂いはしないだろ?」
あたしは口から手を離し、ゆっくり息を吸い込んでみる。
変な匂いどころか、何も匂わない。
「ほんとだ……」
「だろ? この電子タバコなら人に迷惑をかけることはないし、火傷や火事の心配もない。しかも費用は安く済む。昨日あれからいろいろ考えてみて、すぐにやめるのは無理だから、これを試してみることにしたんだ。そしたらさ、けっこういけるんだな。悪くない。これならなんとかタバコの代わりになる」
兄は再び電子タバコを吸い込み、水蒸気を吐いた。
一瞬ビクッとしたが、水蒸気はすぐに消えた。
「じゃあ、普通のタバコはもう吸わないんだ?」
「ま、タバコ吸うのに神経すり減らしてたんじゃ本末転倒だからな。逆にストレスが溜まる。さすがの俺も悟ったよ」
「そっか……」
昨日まであれだけ頑なだった兄が考えを改めてくれた。たった一人のことだというのに、世界が一変したように嬉しかった。
喫煙行為を除けば兄のことは嫌いではない。それどころか、物事を深く考える人だから、けっこう頼りになる。できれば味方にしておきたい。
あたしの野望のために。
「ねえ、話は変わるけどさ、あんた今の会社に満足してる?」
「は? なんだ急に?」
「今の待遇に満足してるかって聞いてんの」
「いや……全く。完全にブラックな企業だからな。うんざりしてるよ。どこか良い条件のところがあるなら、すぐにでも転職したい」
「だったらさ、あたしの会社に入ってみない?」
「は……?」
兄は眉を潜めた。
あたしは構わず続ける。
「あたしさ、これから会社を作ろうと思うんだ。そしたら、その会社のルールはあたしが決めていいわけでしょ。全面禁煙にだってできるし、喫煙者は雇わないこともできる」
「そりゃそうだけど……。高校生が起業するなんて並大抵のことじゃないぞ」
「だから手伝ってよ。そんなブラックな会社さっさと辞めてさ」
兄の表情が引きつる。
「……冗談で言ってるんだよな?」
「本気だよ。あたしはあたしの会社を作る。違法行為や迷惑行為を許さない、ちゃんとした大人の会社をね。あんたは見込みありそうだから、特別に採用試験なしで雇ってあげる。どうする? 今なら副社長だよ?」
「はは……」
兄はあきれた表情で笑いながら、こう答えた。
「それじゃあ、よろしくお願いしようかな、社長」
終
超絶タバコ嫌いな妹と喫煙者の兄が論争する話 ンヲン・ルー @hitotu
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