第3話 タバコはどこで吸えばいい?(再び兄観点)
午後六時前、会社からの帰り道。
歩きながらのタバコを吸い終えた俺は、携帯灰皿に吸い殻を収めた。
当然、ポイ捨てはしない。
指定区域外での路上喫煙は違法ではないが、ゴミのポイ捨ては違法だ。
どうせみんなやっているからと流されたりはしない。繰り返しになるが、社会人として法律はきっちり守る。別に立派でもなんでもなく当然のことだ。
そこまでこだわるなら、わざわざ路上で吸わなくても家に帰ってから吸えばいいじゃないかって?
もっともな意見だ。
だが、自分の家だからといって気兼ねなく吸えるとは限らない。最近は家族に嫌がられて外で吸ってる人、けっこう見かけるだろ?
うちもそれだ。
両親と祖父母はそれほど嫌がらない。分煙なんて概念がなかった時代を生きてきた人たちだ。
元喫煙者の父と祖父はもちろん、夫のそばで長年副流煙を吸い続けてきた母と祖母も、ほとんど文句は言わない。
うるさいのは俺より七つ年下で高校生の妹だ。
昔は親父が吸っていても何も言わなかったくせに、最近やたらと注文を付けてくるようになった。副流煙は論外として、服や髪に着いた匂いにまでケチをつけてくるもんだから、こっちも気遣いが大変だ。
……あ。そういえば、服の匂いを払うの忘れてた。
玄関を上がったところで俺は思い出した。
今日は煙をたくさん浴びたから、かなり匂うかもしれない。
このまま家の中をうろついたら妹に何を言われるか。
しまったな、一回外に出るか。
でもその前にカバンだけはリビングに置いていこうかな。
どうせ妹は部屋にいるだろうし……。
そうタカをくくったのがいけなかった。
「あ……」
不運な事態に俺は硬直する。
普段リビングにはあまり出入りしない妹が、ちょうどそこから出てきたのだ。
廊下で相対する俺たちの距離はわずか数十センチ。
しまった、この間合いは――
妹はすぐさま口と鼻を押さえる。同時に一メートルほど後退し、まるで害虫を見るような眼でこちらを睨んできた。
「あのさぁ、あたしがタバコ嫌いなの知ってるよね? なんで臭いまま家に入ってくんの? 嫌がらせなの?」
「いや、ちょっと服払うの忘れてて。リビングにカバンだけ置いたら外に出るつもりだったんだが……」
「はぁ? ニコ中(ニコチン中毒者)の分際で言い訳とかあり得ないんだけど。人に不快な思いさせたんだから、まずは謝るのが先じゃないの?」
相変わらず口の悪い妹だ。だが、高校生相手に社会人がムキになるのは大人げない。
そう自分に言い聞かせ、穏やかに返す。
「悪かったな。だが喫煙は合法だ。麻薬中毒者とは違う。ちょっとくらい我慢してくれ」
「ちょっとじゃないんだけど? さっきも道で吸ってる奴いたし、コンビニの前でも吸ってる奴いたし。今日だけで何回我慢させられたと思ってんの?」
「他の奴らのことは俺には関係ないだろ」
「関係ないわけないでしょ。塵も積もればって言うでしょ。あんたにとってはちょっとのことでもね、何回も何回もやられたあたしにとっては全然ちょっとじゃないの。だいたい、我慢ってなに? いったいなんの権限があって、あたしにだけ一方的に我慢させるわけ?」
今日はかなり機嫌が悪いようだ。友達と出掛けると言っていたが、ケンカでもしたのだろうか。
だが、こちらにも言い分はある。
「俺だって我慢して家の中では吸わないようにしてる」
「自分の好きで吸ってるんだから我慢するのは当たり前でしょ。そういうのと一緒にしないで」
「あのなぁ……」
俺は深くため息をついた後、世間知らずの高校生を諭してやる。
「お前の言いたいことはわからないでもない。だけど、そんな細かいこと気にしていたら社会ではやっていけないのが現実だぞ。昔と比べてずいぶん減ったとはいえ、成人男性の三分の一は喫煙者だ。飲み会なんかに行けば必ず吸う奴がいる。はっきり言って、副流煙を全く吸わずに人付き合いをするのは不可能に近い。それが人間社会ってものなんだよ」
「ふ~ん」
妹はあからさまに軽蔑する目でこちらを見てきた。
「で、説教は終わり?」
残念なことに、俺の言葉は全く届いていない様子だった。
「要するに、仲間外れにされたくなかったら黙って発ガン性物質を吸えって言いたいわけだよね?」
「いや、そこまでは言ってないだろ」
「言ってんじゃん。偉そうに社会のこと語ってさぁ。そうやって自分を正当化するのが大人なわけ? ずるくない?」
「でも、実際それが社会なんだし……」
「またそうやって社会のせいにする」
「じゃあ、いつどこで吸えばいいんだよ? お前の意見を全面的に認めたら、お前が修学旅行にでも行ってる間しか吸う機会がないじゃないか」
「だから、やめるって選択肢はないの? タバコって何がなんでも吸わなきゃいけないものなの?」
「吸う吸わないは俺の自由だ。この国では二十歳以上の喫煙が認められてるんだから、それを言われる筋合いはない」
「大学一年の頃から吸ってたくせに」
「う……」
図星を突かれ、俺は怯む。
「なんで知ってんだよ?」
「匂いでわかるっての」
「先輩が吸ってたタバコの匂いが服についただけかもしれないじゃないか」
「息が臭いからわかるっての!」
「ぐ……」
しまった、息か。そこまでは気が回ってなかった。この分だと両親にも気付かれてたな。
まあ、どうせ親父も未成年の頃から吸ってたろうから言えなかったんだと思うが。
「そんなんだからいくつになっても恋人ができないんだよ。いい加減悟ったら?」
ぐうの音も出ない。
だが一つ悟ったよ。こいつには何を言っても無駄だと。
だからといってタバコはやめたくない。そりゃあ、はじめは興味本意で吸っていたが、今となっては欠かせない清涼剤なんだ。つらいつらい仕事の日々を乗り切るには、あれが必要なんだよ。依存性と言われれば否定はできないが、それを言ったら誰だって何かに依存して生きてるだろう? タバコだけを集中攻撃しないでくれよ。
そう心の中で嘆いていると、親父が二階から降りてきた。
「さっきから何を騒いでるんだ? またケンカか? もう子供じゃないんだから、互いに譲るということをだな……」
「しょうがないじゃん。この人タバコ臭いんだもん。もういい加減やめろって言ってやってよ」
親父は小さく頷いた。
「そうだな。父さんも三十年近く吸っていたが、なんにもいいことはなかったよ。今は煙を嫌がる人が多いし、値段も上がる一方だからな。やめられるものなら早くやめた方がいいぞ」
それだけ言って、親父は二階に戻っていった。
正論ではあるが無性に腹が立つ。
自分は散々吸っておいてよくそんなことが言える。しかも親父が若い頃は、それこそ現代とは比較にならないくらいマナーが悪かったはずだ。それを棚に上げて、やめたら手のひら返しとは、なんてずるい大人だ。最低でも中立を貫くべきだ。
妹は勝ち誇ったように言う。
「ほらぁ、お父さんもああ言ってるし。親の忠告は聞いとくものだよ」
普段は親の言うことなんか聞かないくせに、こいつはこいつでずるい奴だ。
「はぁ……」
深くため息をつく。
なんだかもう馬鹿馬鹿しくなってきた。結局、みんなずるいのだ。社会は欺瞞で満ち溢れているのだ。
俺は半分投げやり気味に口を開く。
「でもさ、誰がなんと言おうとタバコは法律で認められてるんだ。吸っちゃいけないことはないわけだ。問題はいつどこで吸うかだろ? 教えてくれ。俺はどこでタバコを吸えばいいんだ?」
「そんなの当然、人の迷惑にならないところに決まってるでしょ。絶対、100%誰にも迷惑にならないところ」
「それはどこなんだよ?」
「はぁ? 少しは自分で考えたら?」
そう言われても、絶対となると難しい。煙だけならまだしも服などに付いた匂いもダメとなると、もう人里にはいられない。山奥にでも行かなくては――いや、山奥だって絶対に人が来ないわけではない。砂漠のど真ん中とかでも同じだ。俺がそこにいる以上、絶対に人が来ないとは言い切れない。
しばらく考えたが、どうしても思い浮かばず、俺は諸手を上げて降参する。
「わからん。頼む、教えてくれ。どこなんだ、そこは?」
「ん~」
妹は小首を傾げた後、なぜか疑問系で答えた。
「宇宙?」
――吸えるか!
俺はガックリと肩を落とす。
「それはもう吸うなって言ってるようなものだろう」
「だからそう言ってんじゃん。ねえ、お願いだからさぁ、タバコなんかもうやめてよ。あんなの百害あって一利なしだよ」
「いや、一利はある。俺だって全く無意味な物を吸うほど馬鹿じゃない」
「でも、悪いこといっぱいでしょ。身体に毒だし、お金かかるし、ゴミは出るし、火事と火傷の危険性もあるし。それに、あたしじゃなくたって迷惑だと思ってる人はいるんだよ? 表面では平気な顔してても、心の中であんたのこと軽蔑してるかもしれないんだよ? それでいいの?」
よくはない。
だが、迷惑なんてお互い様だ。この世に誰にも迷惑をかけずに生きている人間などいない。
それなのにタバコだけを――なんて言ったところで、また話をすり替えるなと言われるだけだ。
俺は一呼吸置いてから聞く。
「なあ、なんでそこまでこだわるんだ? お前の言うとおり、タバコ嫌いにとって理不尽なのはわかるが、本当にそこまで嫌うほどのことなのか? タバコより身体に悪いものとか、匂いがひどいものなんていくらでもあるじゃないか」
「そうだね。じゃあ、はっきり言わせてもらうとね、あたしが一番嫌いなのはタバコじゃなくて、マナーを守らない大人なの。本当はタバコの煙くらい我慢しようと思えばできないわけじゃない。でも、我慢しなきゃいけない理由がないの。ないはずなのに、我慢するのが当然って空気が許せないの」
確かに、喫煙行為はある程度他者に我慢してもらうことが前提になっている。こいつの言うことは正論だ。
だが、正論が正論として通らないのが人間社会だ。大人なんてものは存外いい加減なのだ。
それを受け入れない限り、妹は近く孤立する。高校生のうちはともかく、大学生や社会人になれば否が応でも思い知ることになるだろう。
できるなら今のうちに諭してやりたかったが、もはや理屈では受け入れられまい。
いつまでも言い合っているわけにもいかないので、ここは俺が引き下がることにする。
「わかったよ。俺が全面的に悪かった。次からはお前に迷惑かけないよう細心の注意を払うから、今日のところは許してくれ」
「あっそ……」
妹は小さく言って、自分の部屋に戻っていった。
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