あらゆる記録に残らない透子さんが僕といた証明

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1.僕がとうこさんにふられるまでの記録

僕がとうこさんにふられるまでの記録 1

「……ごめんなさい」


 とうこさんは僕にむかって、とても申し訳なさそうな、今にも泣き出しそうな、苦しそうな笑顔でそう言った。


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 とうこさんは、僕が大学二年の前期セメスターに、哲学の講義で出会ったすてきな女性だ。身長は少し低くて150センチくらい。穏やかそうな目つきで髪はショートヘア。少年みたいな細くてすらっとした手足だけど、女性なんだとわかるくらいには胸とおしりにボリュームがある。


 漢字では透子と書く。透明の透に、子どもの子で透子さん。


 講義でほんとうにたまたま、とうこさんの隣に座ったとき、僕は思わず彼女に見とれた。あごの先にシャープペンを当てて、前方の黒板を見る真剣な目つき。凛としていて、意志の強さを感じた。

 白いノースリーブのブラウスにオリーブグリーンのゆったりしたハーフパンツ。化粧は同年代の女性よりもやや素朴に見える。

 かわいいと美しいのあいだ、大人びてもいなくて、でも少女という時期はもう過ぎ去った時期の自分の魅力をきちんと理解して表現してる、そういう美人でかわいいひとだった。

 見とれていた僕の視線に気づいたのか、とうこさんは僕を見て、すこし不思議そうな表情をした。僕はしまった、と思ったけれど、そのまま無視するわけにもいかなくて、もう席に座っているにもかかわらず、とうこさんへ「ここ、空いてますか?」と尋ねた。

 とうこさんは「ええ、どうぞ」と、穏やかに短く答えた。透き通った高い声だった。

 それが、出会いと言うにはすこし平凡すぎる、僕ととうこさんの出会いだった。

 講義室の長机、僕ととうこさんのあいだには、一人分のスペースが空いている。

 それが、僕ととうこさんの最初の距離だった。


「あの、何年生ですか?」


 講義が終わったあと、なんとか話題を見つけようと僕が発した言葉は、ほんとうにあたりさわりのないものだった。けれど、とうこさんはさっきと同じ透き通った高い声で、一つ下の一年生であることを教えてくれた。それから僕はどうにか話を続けようと、とうこさんについての質問や、一年先輩であるがゆえの押しつけがましいアドバイスなんかをまくしたてた。とうこさんの名前と漢字を知ったのもこのときだ。

 とうこさんは僕のとりとめのない話を、うんうんと頷きながら素直に聴いてくれてた。十分くらい経っただろうか、話が終わったときには「いろいろありがとうございました」と深く頭を下げてくれさえした。


 だから僕も、ひょっとしたらいけるんじゃないかな、と思って、もう一歩だけ踏み出してみることにした。


「あの、LINEのIDとか、メールアドレスとか、よかったら、交換しない?」


 尋ねた僕に、とうこさんはすこし緊張したように唇を結んで、それから申し訳なさそうに首を振った。

 僕ががっかりした顔を見せてしまったのか、とうこさんははっとしたような表情で「ちがうんです」と言い、手を振る。


「えっと……ごめんなさい、携帯電話、持ってなくて」

「……あっ。そうなの」


 僕のなかで考えがぐるぐると頭のなかをかけめぐる。

 とうこさんは本当に携帯電話を持っていないのかもしれない。

 このご時世に携帯電話がないと色々不便だと思うけど、お金とかの問題があるのかもしれない。友人にも食事を質素にしているくらいに苦学生と言えるようなやつが何人か思い当たる。

 もしくは、返事をしづらいようにして、僕は体よく断られてしまったのかもしれない。こっちのほうが有力だ。こんなに素敵なひとなら、もう彼氏がいることだって考えられる。講義で急に声をかけてきた人なんて関わらないようにしようと思うかもしれない。行動と矛盾するようだけど、僕だって普段はそう考えると思う。

 僕がもう少ししっかりした服装で来ればよかったと後悔しだしたときだった。


「でも、毎週この講義には出てますから」


 とうこさんがそう言ってくれたとき、僕は胸が強く高鳴って、耳が熱くなった。ひょっとしたらこれは一目ぼれか、惚れるってこういうことか、と、僕は考えた。

 僕は一歩踏み出そうかどうしようか迷った。永遠のような数秒だった。


「そう。じゃあ、また来週、かな」


 僕の口から出たことばはこれっぽっちだった。


「はい」

「あ、あの、とうこさんはさ」僕はそれでも、勇気のなさに逆らって半歩だけ踏み出すことにした。「このあと、講義入れてるの?」


 とうこさんは目を丸くして、それから微笑む。


「はい、ドイツ語が」

「そっか……じゃあ、また来週かな」

「はい」


 僕はここが引き際だと思った。ビビリと言われればそうかもしれないけど、誰にだって自分にあった歩み方があるし、それを行き過ぎて大けがしちゃ、元も子もない。

 実際に大けがをしたことがあるのかどうかは、とうこさんと僕の話には関係がないから、話題にはしない。


「じゃあまたね」

「おつかれさまでした」


 そう言って、僕らは講義室を出て、それぞれの次の講義へ向かった。歩いていくとうこさんのほうを、僕は二度振り返って見た。

 とうこさんがフリーかどうかすらわかってもいないのに、僕は頬が緩むのを感じた。二年目に入った灰色の大学生活にわずかに色が差した瞬間。我ながら単純なものだと思った。

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