第2話 この世ならぬ天にひとり
彼と私が出会ったのは、だいぶ昔の話だ。
そのころのことはほとんど忘れてしまっていて、まるで生まれる前から一緒にいたような気すらする。けれど、私はそれを、ただ思い出したくもない記憶にまつわる出会いだったから、思い出の箱の中に入れて、鍵をかけておいておいただけだと、最近になってようやく思い出した。
それが、いや、そのせいで、彼を長いこと孤独にしてしまったことも。
その思い出の箱を開けたとき、私はすべてを理解し、彼に謝罪した。涙が止まらなかった。
私は、私が受けるはずだった苦痛や絶望や屈辱や、私の運命の中の悲劇を、私の代わりに背負ってくれていた。私は知らぬ間に、私の運命を彼に肩代わりさせていた。
だが、泣いて謝る私のことを、まだ天使のように幼い顔の彼は微笑みながら抱きしめて、私が落ちつくまでただ待っていてくれた。
それから、こともなげに言ったものだ。
「ぼくは君なんだよ、君の魂を傷つけないために産まれた盾だ。ぼくは君の鎧。あんなの、苦しくも辛くもなかった。君が同じ思いをするなんて、考えるだけでおぞましくて、一緒に泣いてしまいそうだけど」
そうだった。
彼と出会う前の私は、陰気というより、ただ無気力な子供だった。何をする気もない、何もしたくない、そんな贅沢なものではなかった。私はまだ子供だったのに、すべてを諦め、手放していた。
何をしても無駄だ。
それは学習した無力感だった。私はただ呼吸し、ただ生きているだけの、親と一族と国家のための人形に過ぎなかった。オスマン帝国への人質に出される話がまとまった時も、私は何も感じないはずだった。
その夜だ。
「うん。あの夜だね」
私の考えをすべて理解している様子で、彼がにっこりと笑う。
「君は、この世で自分が一人きりなんだって、誰も自分を救ってくれないって、暗闇の中で泣いてた」
そう。
そうだ。
私は、いや、ぼくは、神様、お父様、お母様、領民たち、すべてのために、恐ろしい異教徒の前に生け贄に差しだされるのに。そこでどんなに恐ろしいことをされるか、考えたくないのにどうしても考えてしまって、絶対に誰も来ないと知っていたカタコンベの奥で泣いた。オスマンのけだものどもが、ぼくたちの神様に背かせるために、背徳的な行為を強要するのも知っていた。その、実感すら伴わない想像だけで、ぼくは何度も吐いた。闇に辿り着くまでにどこで傷つけたのか、掌に十字に傷を負っていた。
そして、指先から滴る血を見ながら、ぼくは問うた。
神様、神様。ぼくはその恥辱から逃れるために自ら死を選ぶことすら許されない。ぼくが死んだら、他の誰かが身代わりにされるだけだ。それに、自殺者の魂は天国にはお迎え頂けないのでしょう? 神様に背かされるのを分かっているのに、神様はぼくを救っては下さらない。
どうして?
ぼくは、神様にすら見捨てられたのですか。
ぼくは地獄に堕ちるんだ。生きながら地獄へ行き、死んでからは煉獄に落とされる。
すべては、我が祖国のために。いいえ。神様、あなたのために。
私は自分の涙と吐瀉物と、血の中に倒れるようにうずくまって、がたがた震えながら、また吐きそうになるのを堪えていた。
「だいじょうぶ?」
そのとき、声が聞こえた。
ぼくは周囲を見回し、闇の中で誰か、家臣だの召使いだのという見張り番がぼくをみつけだしたのだと思って身構えた。
「だいじょうぶだよ。ぼくだけ、だあれもいない」
なぜだろう。聞き覚えのある声だと思った。
暗闇のせいか、姿は見えない。だが、すぐ近く、顔が触れ合うすれすれに相手がいるのは分かった。
そして、自分がうずくまっているせいで、顔の前には地面しかないことに気付くのにも、そう時間はかからなかった。
「うん、ここだよ」
自分の体液とカタコンベの古い土が混ざりあい、反発しあって、そこには薄い膜のような……硬くて脆い、薄氷のような何かが、地下墓地の床に貼り付いていた。
吐いた胃液と流した涙と、わずかな血をどう混ぜ合わせたら、こんな色になるのだろう。
その薄い膜は、昏い虹色、あるいは緑と青と赤の濁った光とでも表現すれば、少しは伝わるだろうか。清らかではないのに美しいものを、ぼくはそのとき、生まれて初めて見た。
その濁った光の水たまりは、ぼくのしゃがみ込んでいる周囲を包むように広がり、やがて、ランプや蝋燭の一本もないというのに、ぼくの姿をはっきりと映し出した。
まるで鏡のように。
「こんばんは」
いや、そこに映っていたのは、ぼくにそっくりな姿をした、ぼくではないものだった。
ぼくは泣いていたが、水鏡の向こうの彼は笑っていた。
ぼくは絶望して青ざめていたが、彼は生き生きとしていた。
「こんばんは」
薄氷のような膜の向こうから、彼がもう一度、ぼくに笑いかけた。
「こんばんは、って言えばいいの?」
ぼくの問いかけに、彼はちょっと苦笑しながらも、ぼくが生まれて初めて聞く「優しい声」で答えてくれた。
「君は、ぼくが悪魔の使い、あるいは悪魔そのものじゃないかって疑ってるね。まあ、そりゃそうだよね、こんなところからいきなり挨拶したら」
すべて見通されていたことに、ぼくは動揺した。
こんなふうに、親しみやすい人を装って、悪魔は信仰を試すことがあると聞いていたから。
「でも、親しい人じゃないでしょ。ぼくは、君がそのものの形なんだから、疑われて当たり前。悪魔ってそんなに馬鹿じゃないと思うよ?」
「え、ああ、そうかな」
何の屈託もなく言う彼に、ぼくは戸惑った。
カタコンベの土の下に、いや、この水鏡の向こうの別世界に、自分そっくりの何かがいることに。
「ごめん、怖がらせちゃったかな?」
「そんなことないよ」
そのとき、ぼくはようやく、何とか笑えたように記憶している。
だって、ぼくはやっと、気がついたのだ。
この世から見捨てられたような場所が、この小さな、昏い虹の向こう側にあると。
そして、そこにずっと、ずっと、彼はいたんだと。
「ぼくを待っててくれたの」
どうして、そんなことを口走ったのかは分からない。
だが、彼の答えは明白だった。
「そう。ずっと待ってた。会えて嬉しいよ」
そのとき私は、本当に彼が悪魔そのもので、私をいますぐ殺してくれるように祈ってすらいた。
だが、彼はそんな単純なものではなかった。
彼は水鏡の向こうからぼくを見つめて、穏やかに、言い聞かせるように訴えた。
「手をかして」
彼の掌が、膜の向こう側に貼り付くのが見えた。
「ぼくの手を取って。ここから出して」
ダメだ、これは悪魔の誘惑、それとも神の試練だ。
そう頭では考えているのに、ぼくは手を差し伸べていた。
十字に傷ついて、真新しい血を垂れ流しているその手を。
「ありがとう」
彼がほほえむと同時に、膜か鏡のようだった液体は四方へと弾け飛び、無数の小さな粒になって地下墓地の土ぼこりと混ざりあった。
そして、彼がいた。
ぼくの血まみれの手をしっかりと握り、空いているもう片方の手でぼくの顔を優しく包みながら、彼は……まるで、鏡に映った自分のようにそっくりな人物は、じっとぼくの目を見て言った。
「だいじょうぶだよ。君のことは、ぼくが守るから」
確信に満ちた一言に、当時の私は訊き返したものだ。
「あなたは誰?」
その答えは、今でもよくわからない。
ただ、そのときの言葉が、永遠の約束になったのは間違いないだろう。
「ぼくは君、君はぼく。この世にひとりきりの、ぼくと君」
そう言ってから、彼もう一度私を抱きしめた。
生まれてから、少なくとも記憶の中にある抱擁の中で、いちばん強く。
両親にすら、こんなふうに包み込まれたことはなかった。
そうして、彼と私との間に、永遠の約束が交わされた。
「ぼくは君。君はぼく」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、彼の言葉を繰り返した。
彼という存在を、泣きながら受け入れた。苦しみの涙ではなく、安堵の涙で。
「この世に背いても、ぼくたちはひとり」
「うん。ぼくたちは……ひとり」
私がそう言いおえると同時に、奇跡が起きた。
私のこの小さな手に刻まれた十字の傷が、彼の同じ場所にも現れた。まるで見えない刃物でもあるかのように、彼の右掌に縦横に筋が入り、そこから血が流れ出した。
互いの手を握りあうと、彼の血が私のそれと混ざりあい、ゆっくりと地下墓地の土へと染み込んでいった。
そのときから私は、彼の存在が当たり前のものだと知っている。
悪魔でもなければ、もちろん守護天使でもない。
常に善なるものでいようとしてきた自分自身が、割れて二つになった。私が吐いたのは胃液だけではなく、私の隠し続けていた恐怖だった。
やっと私から解放され、私の手によってこちら側に来た彼は、もう永遠に自由だ。
苦痛や屈辱、背徳や神ですらも彼は畏れない。
どこに行くこともできるし、何でもできる。それなのに彼は、私のところに残ることを選んでくれた。彼がずっと私を手元に置きたいと願い、私もそれを受け入れた……いや、喜んで彼に従ったから。
「きみは何もしなくていい」
彼はそう言い、実際そうなった。私は何もしない。誰も私に何もできない。
彼が光になり、私が彼の影になった。逆に見えるかもしれないが、事実は彼が私の中の光なのだ。
あれからもう何年が経っただろう。
彼はあのころの、小さくて可愛い天使のような姿のままだ。いや、形はどうにでもなる、子供にも老人にも、男にも女にも、消えてなくなることだって、彼は自由にできるはずだ。ただ、目だけはずっと変わらない。脅えた私を向こう側から見ていた、あの輝きに満ちたまなざしだけは。
「それで今日は、どうしたの?」
彼が穏やかに笑う。
訊ねているが、たぶんもう知っている。
「オスマン帝国の使者が来る」
「またかよ。バッカみたい」
彼はぴょんと跳ねるように起き上がり、実に楽しそうに笑った。
「その中に、君をいじめたヤツは何人いるの?」
「ひとり混ざってる」
ことを行った方は簡単に忘れてしまったとしても、された側はその恨みを忘れることはできない。許してやる義理もない。
抵抗もできない私に、背徳の罪を背負わせた男だ。もし彼がいなかったら、私はそれだけで正気を失っていただろう。思い出すだけでも反吐が出そうだが、恐怖はなかった。記憶から消し去りたい行為だが、絶対に消えてはくれないし、消してはならないことも分かっている。
「なら、皆殺しだ。全員の首を、送り返してあげよう」
「相変わらず君は優しいね。殺すだけで許してやるなんて」
「死ねばヤツらはヤツらの神様のところへ帰れる。苦しませる必要はないよ、ヤツらと同じになりたくないでしょ」
「それはそうかもね」
「ただ……ちょっと、死んだ後には、飾り付けの役にくらいは立ってもらうけどね」
彼は私の恐怖そのものだから、私に関わったものが何をいちばん畏れるかもよく分かっている。
翌朝、異教徒の使節団の首が街道の至る所に晒された。
「これは宣戦布告ではない」
私はオスマン・トルコに向かってそう伝えさせた。
「戦いの火蓋は、私が人質に差しだされたあの日に既に切られていた。私はそのために耐えたのだ。剣かコーランかを選べと私に迫りながら、どちらも許さなかったのはお前たちなのだから」
ずっと剣を研いでいた。
彼という剣を。いや、彼が私を剣にしてくれた。
私たちはこの地下で血を流した。涙を流した。
この地下こそが我が家、我が故郷。
私は神のためになど戦わない。一族のためになど戦わない。領民のためにも、この国のためにも、父母のためにも戦わない。一度私を見捨てたものたちのためになど戦わない。
だが、敵がいるのなら。
「楽しくなりそうだね」
「ああ、楽しいよ」
そして、彼がいるのだから。
「そうだね、とっくに始まってる」
「やられたらやり返せ。そう教えてくれたのは君だ」
右の頬を打たれたら、左の頬も差し出すがよいと主は仰られた。
その意味を、私は理解することができた。彼のおかげで。
左の頬も殴ろうとする、敵のその手を食いちぎれ。
それがヴァラキアのやり方だと。
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