ヴァラキア公ふたり
猫屋梵天堂本舗
第1話 ヴァラキア公ふたり
彼はいま眠っている。
昼の間はほとんど眠ったっきり、起きてはこない。
彼の部屋は、私の寝室からだけ通じている秘密の通路の、その先にある。
秘密の扉の開き方は簡単だ。
私の寝室のベッドの横に大きな姿見があって、その枠の両側に嵌め込んである、私には名前も分からない宝石に左右の手で触れると、鏡が天井側に斜めにせり上がる仕掛けだ。
初めてそれを、彼がやって見せてくれた時には……そう、あれはまだ私がほんの子供だったころだが、鏡の向こうに秘密があるというだけで心が躍ったものだ。
今ではすっかり慣れてしまったが、それでも枠の細かな彫刻に上手にあしらわれた宝石に触れる時には、ときどき緊張する。
何もかも知っている者でなくては、この仕掛けを使うどころか、見つけることすらできないだろう。
それに……
私と彼以外には決して開けられない秘密の鍵がこの二つの宝石で、もし私がこれを開けられなくなったとしたら、私が彼から見捨てられたという意味なのだと、今は既に分かっているからだ。
幸運なことに、この夕べも、当たり前のように鏡は道を開き、私が秘密の世界へと入ると、音もなく閉じた。子供のころはある種の魔法のように感じ、今でもどこかではそう信じているが、本当のところは、何か特別な技術の産物なのかもしれない。
私が治めているこのヴァラキアは、ルーマニア……すなわち「ローマ人の地」というのは名ばかりの、我々一族が代々守り抜いてきた大切な領土だ。戦争をする上で拠点にするには、最も優れている天然の要害が何カ所もあり、それゆえに無数の国から戦争を仕掛けられてきた。
目下の敵はオスマン帝国だ。
敵どもは今にもこの地に攻め寄せてきそうだ。毎月のように城を明け渡せだの臣従しろだの、下らない手紙が届く。そのたびに私は、恐ろしさにいてもたってもいられなくなり、他人の目がないことを確認してから、自室の壁にかけられた、他の調度品とは不釣り合いなほど見事な、この巨大な鏡の前に立つ。
鏡の木枠の左右には、深紅の宝石……石榴石だろうか、いや、他に似たものは見たことがない種類の、まるで血のように鉄を含んだ、独特の昏く深い赤の、美しい飾りが嵌め込まれている。
私はそこに両手を起き、深く呼吸して、ただ待つのだ。
そうすると、鏡が音もなく、本棚の裏側へと滑り込んでいって、ぽっかりと出入り口が開く。
その通り。これが、私と彼の私室をつないでいる秘密の通り道だ。隠し扉の鏡は、私が石張りの通路へと入ったのを確認したかのように自然に閉じ、そうなるともはや他の誰にも開けることはできない。
私は迷うことなく、少し早足で進んでいく。自らの行くべき道を知っているからだ。カタコンベに眠る無数の死者の間を、何の明かりもなしに歩くなど、正気の沙汰とは思えないかもしれないが。
それだけが、私の正気を保つ方法なのだ。
鏡の扉の先にあのはごく小さな踊り場だけで、すぐにそこから地下へと降りていくための石造りの階段が続く。こうした城塞には必ず秘密の逃げ道や聞き耳のための隠し部屋が設けられているものだが、私がこれから行こうとしているのは、城の外に通じる涸れ井戸でも、家臣たちが謀略に使っている書庫の床下でもない。
地下へと続く、螺旋とすら呼びがたいねじ曲がった階段を、私はただ降りていく。奇妙な迂回や、一段一段の歪み、それぞれの段差の違いなどは、普通の人間ならほんの数分で気分が悪くなるだろうが、私はもう、蝋燭やランプの明かりがなくても、両手で岩肌を支えにしなくても、自然にこの階段を上り下りできる程度には、この暮らしに慣れていた。
長い長いねじくれた階段の先には、また迷路のような地下道があって、私の先祖たちが代々数百年に渡って作り上げてきたカタコンベや地下聖堂が続く。ただひたすら暗闇だ。太陽の光はここまでは入って来れないし、蝋燭やランプの明かりなど、せいぜい足下を照らす程度の役にしか立たないことを私は身をもって学んだ。
子供のころは、このささやかな地下迷宮で迷い、泣きながら寒さと暗闇の恐怖に脅えて、冷たい床にうずくまったこともある。だが、今はもう目をつぶっていてもどこを歩いているか、どちらへと進めばいいか分かっている。
最後の丁字路は必ず左に曲がる。右側へと進むと、またぐるりと回ってカタコンベへと逆戻り、古びた骸骨たちの嘲笑が待っている。
左の道は細くて、一見したところでは岩に穿たれた空気穴のようにしか見えないが、その狭い入り口を抜けるとすぐに、またもとの、人ひとりが歩ける程度の通路が延びている。暗闇だから目では見えないが、感覚の鋭敏なものならば、途中からそれがただの岩肌から、きちんと敷き詰められた石畳の廊下に変わっていることに気付くはずだ。
その先に、彼の部屋がある。
私の寝室の鏡と同様に、金属でできた格子戸……こう書くと、まるで牢屋のようだが、もっとずっと端正で美しい細工の両開きの扉がしつらえられていて、そのドアノブの部分には例の奇妙な宝石が輝いている。私がそれに触れると、取っ手を回したわけでもないのに、音もなく扉が開き、私を迎え入れてくれる。
そう、ここが彼の部屋だ。カタコンベ、死者の道の先に、彼の部屋がある。
私は何千回、何万回とここを訪れているけれど、その度にこの華麗さに感動してしまう。
石造りの壁と天井は、自然の洞窟をそのまま生かし、かわりに床は内から輝くような黒大理石で敷かれている。それほど広い空間ではない。むしろ、狭苦しいと言った方がいい。
一見ただの岩盤を刳り貫いただけのようだが、そこには小さな黄金張りの祭壇と十字架、天井の岩に打ち込まれた異国情緒たっぷりのステンドグラスランプ、一揃いの銀の燭台と、彼の寝床が置かれている。祭壇の上には綺麗な宝石や鉱石もいくつかある。彼は美しいものが好きだから、私はときどき、彼にそうした、ちょっとした贈り物をする。そうすると彼は、まるで新しいおもちゃを貰った子供のように喜んでくれるのだ。
だが、そうした小物はしょせんちょっとした調度品に過ぎない。重要なのは、彼の寝床だけだ。
私の部屋の鏡と同じく、細かな装飾の施された真四角の箱形のベッドに、白黒斑の羊毛を敷いて、彼は今、おだやかに眠っている。
地下室だから、もちろん窓も暖炉もない。それがちょうど、私の自室……いや、城の真下にあるから、我々が暮らしているような古い城にはありがちな秘密の通路を使えば、私たちは互いに一瞬にして、それぞれの居室を行ったり来たりできるというわけだ。
だが、いまはまだ夕まぐれ、日が傾きかけてきたところだ。
彼は眠っている。
それは分かっているのだが、どうしてもときどき、こうして彼の寝顔が見たくなってしまう。
なにしろ、その安らかな姿と言ったら……
敷き詰められているのはふわふわの生き剥ぎの羊毛で、毛布の類はかけていない。ベルベットの真珠色のトーガに身を包んだ彼は、その白い、乙女のように華奢な手を胸の前で組み、素足の、その足首のところだけやはり交差させていて、こんな狭い寝床なのに、少しも狭苦しさを感じさせない。左足に嵌めた黄金の足輪が、まるで天使の光輪を踏みつけているかのように気高く見える。
そしていつも、こうして幸福そうな、それはそれは穏やかで優しい笑みを浮かべているのだ。
さぞかし夢を楽しんでいて、夢の続きを探しているのだろう。時折、不意にその笑みがいっそう深くなり、満足げになったりする。
そんなとき私は、ただでさえ端正な彼の顔を、とても美しいと感じる。
この寝顔を見ているだけで、私はこの世に迫っている自国の危機を、私自身の命の危険を、いや、ありとあらゆる悩みや苦しみすら忘れられるような気がする。
それほど、いとおしいのだ。
だが、私の苦しみへの特効薬は、もっと強力で、すぐに効く。
それは彼だけが持っている特別な魔法だ。
だから私は、城のものたちが私を探しているであろうことを承知で、ここにきて、こうして彼の寝床の横に座っているのだ。彼の眠りをさまたげないように、頬にかかった一筋の毛を撫で付けてやった以外、私は何もしなかった。ただひたすら、彼の穏やかな寝顔と夢の中での微笑みを見て、そのそばに寄り添い、同じ地下の重苦しい、しかし静かで冷たい、懐かしい空気を吸っているだけでよかった。
そして、待ち望んでいた時がやってきた。
日没……。
太陽がその支配力を弱め、夕焼けの赤が宵闇の紫へと変わる頃、彼は決まって目を覚ます。時にはもう少しお寝坊さんだったり早起きだったりすることもあるが。
「おはよう、あれ、こんばんは?」
彼が戸惑っているのかおどけているのか、私には分からない。
ただ、寝床から身を起こした彼に手を貸して立たせ、部屋と呼べるかどうかも分からない地下の穴蔵の、祭壇のところへと彼の手を引いて行って、罰当たりなことに十字架の横に腰掛けさせ、トーガの胸元を直してやったり、髪を整えてやったりする。
「おはよう、よく眠れた? いい夢でも見てたようだけど」
「うん。いい夢だったよ。ききたい? ねえ、ぼくの天使様はなんだか顔色よくないけど、具合、悪いの?」
「具合じゃなく、機嫌が悪いんだ。君の話を聞いて、すっきりしたいんだよ。私の守護天使」
彼は私のことを「ぼくの天使」と呼ぶ。本当は彼の方が何万倍も、何千万倍も神に近いというのにも関わらず。
だから私も、いつのころからか、彼を「自分の守護天使」と呼ぶようになっていた。
彼といると、私の言葉は妙に子供っぽく、砕けた口調になる。それが彼を満足させたようで、腰掛けた祭壇の十字架に片肘を乗せながら、私の天使はにっこりと、最高に美しい微笑を浮かべた。
「わかった」
それは彼が、ついさっきまで見ていた夢の話だ。
わたは、彼が見た夢の話を聞くのが大好きだ。ただ言葉で語られるだけなのに、自分の脳裏に、その美しい夢の光景の数々が当たり前のように浮かんでくる。
「ぼくは今日、さっきまで、銀の谷にいたんだ。ああ、銀の谷っていうのは譬えで、岩肌にびっしり石英かなにかの結晶が着いているせいで、月明かりに照らされると銀色に光り輝くんだ。その深くて切り立った、きらきらする谷の間を月が通るのは、ほんの数分だ。でも、星空を旅する月、月のお供をする金星、それに輝きだけでできている谷間……とても綺麗だった。そう、流れ星が一つだけ見えた」
「本当だね。素敵だ」
「君だけだよ、これが見えるの」
そのとき、私は自然と目を閉じ、彼と額を合わせていた。いつもの儀式のようなものだ。こうやって私たちは、互いの心を共有できるのだと信じている。
実際、私の心の中に浮かんだ彼の夢は、ただ美しかった。もうそこにはない流星に願いを託したくさえなった。
「それから、エメラルドの床で敷かれてる天国の床を見たよ。神様の御国は素晴らしいね。タイルが全部エメラルドで、目地が黄金なんだ。そこに、たくさんの天使がいて、ラッパだとか武器だとか、果物だとかお菓子だとか、花だとかレースだとか、いろんなものを持ってて、ぼくに見せてくれた。でも、ぼくにはくれない……ぼくはもらえないんだって」
「どうして?」
「それはほんとは君の分だからって。だから、ぼくは見るだけにしといたよ」
そういう時の彼は本当に申し訳なさそうで、本当に小さな天使のようだ。ずっと年上の彼のことを、私は思わず抱きしめ、彼の外見と同じ頃……ただの悪餓鬼に戻ったような笑顔だっただろう表情になって、ついでに昔の癖の舌を突き出すところまでやった。
「今度欲しいのがあったら、もらっちゃいなよ」
「いいの? 君の分なのに」
「もちろんだよ。むしろ、遠慮なんてされる方が傷つく」
「分かった。ぼくのものは君のもの、君のものはぼくのもの、そうだったもんね」
「そう。私のものは君のものだよ。目が覚めたとき、てのひらの中のものを見せて」
「何もないよ。夢だもの」
「それでも、見える」
私の言葉に、彼はとうとう声を出して笑ってくれた。
「そうだね。そうだよね」
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