第17話 愛してるよ 夏子2


 これからはこの人だけを画きつづける。

 やっと絵筆をとることができた。絵を描くことはあきらめていた。実技はなかばあきらめていた。担任の川澄講師からはいつも、手ひどい批判を浴びていた。「皐くんの絵には構成ミスや質感の欠除がある」そんな抽象的な印象で批判されて、迷うばかりだった。ぼくには画家になる才能はないのかもしれない。悩んだ末、西洋美術史を専攻していた。

 クラブ活動では油絵を描いている。ミレンがあった。

 それでも、絵を描くことは、たのしくはなかった。それが嘘みたいだ。夏子と向かいあって、彼女の肖像を描いていると。ふつふつと意欲がわきあがってくる。

 夏子は絵筆をふるうぼくを、愛おしそうに目を細めて眺めている。ありがとう、夏子。あなたに出会えてよかった。全国大学美術連盟の秋の展覧会に出品してみよう。チャレンジしてみるよ。夏子。この絵を校内選抜のない、あの連盟展にだしてみよう。直接展覧会場に作品をもちこんで、大勢の審査員の前に並べる。その場で採点され、入選が決まる。あの熱気にあふれた芸術の祭典に出してみよう。いいよね。夏子。どんな批評がきかれるか、ともかく出品してみるよ。

 ぼくは落選つづきだ。おなじ美術部に属する仲間の川島信孝は。大判の画集の並んだ書架に。美術展での受賞の証として。金色にきらめく賞牌や楯を飾っている。それをみせつけられて屈辱感に苛まれた。

 そのあげく、なかばあきらめた油絵だ。なかばすてた実技だ。やはり絵筆をとるのはたのしい。

快楽だ。オイルの匂いもいい。絵筆がキャンパスをはしる筆触がここちよい。

 こころのおもむくまま筆がはしる。何年もこうして夏子を描きつづけてきたような、なつかしさがある。



「一瞬のこころのときめきは――永遠のときめきと……同じことなのよ」

 夏子がぼくのこころの動きにシンクロしてつぶやく。芸術家だけがあじわえる至福の時だった。純粋な存在に夏子はなっていた。クリスタルの中で生きているようだ。ああ、この透明感を絵にすることが出来たら――筆がすすむ。

「その気持ち。それがいいのよ」

 夏子の髪がのびてきてぼくの精気をすいとる。

「ああ、すてき。すばらしいわ。こんなに純粋な精気を吸うのははじめてよ」

 夏子のこころがぼくのこころと交感しあっている。

 ぼくのよろこびは、夏子のよろこびだ。

 夏子の黒髪でふたりはつながっていた。

「純粋に芸術にうちこむひとのエネルギーはおいしいのよ。さらに隼人は剣の道を究めようとしている。極上の向上心を兼ね備えている。わたしは――最高のパートナーに出会えたのね」

 愛する夏子を描くことはよろこびと幸福感をぼくにもたらした。

 いつもいっしょにこうしていたい。

 いつも夏子を身近にかんじながら。

 いつも夏子と言葉をかわしながら。

 生きていきたい。

 夏子に精気をすわれることによって、ぼくはさらに高い芸術の境地へとのぼりつめる。

 夏子からさらに純粋になった精気がもどってくる。芸術を志す者同志の魂の昂揚。ふたりにあいだで、サ―キュレート現象が起きている。プラスのスパイラルだ。限りなく、高みにのぼっていく。

 ふいに夏子の声にならない声が脳裏にひびいてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る